agripapa の回答履歴

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  • 語りえぬものについての問答

      問う人: 釈尊は「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆーたとゆーが、 「人の道」: これを巷では釈尊の十難無記 とゆーておる。 しかし騙されてはならん。 悟った者は決してこのよーなことを言うことはない。 なぜなら悟った者は悟ったことの全てについて語ることができるからである。 なぜなら真理を得た者はその真理の全てについて語ることが出来るからである。 「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆー者は、語り得るまでに悟ってはおらず、 語り得るほどの真理に到達してはおらんゆーだけのことである。 この辺り、決して騙されてはならん。 問う人: ではなぜ人々は釈尊が悟ったとゆーのか。 「人の道」: それは簡単である。 釈尊はただ悟ったよーに演じておった。 釈尊は一丁前の役者であったから、周りの人間には悟ったよーに映った。 皆にも訊いてみるとえー。 問う人: 釈尊の十難無記ゆーのは全て、悟ってない者がこしらえたただの言い訳であり意味はないゆーこと、 皆はどー思うか聞かしてくれ。  

  • 語りえぬものについての問答

      問う人: 釈尊は「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆーたとゆーが、 「人の道」: これを巷では釈尊の十難無記 とゆーておる。 しかし騙されてはならん。 悟った者は決してこのよーなことを言うことはない。 なぜなら悟った者は悟ったことの全てについて語ることができるからである。 なぜなら真理を得た者はその真理の全てについて語ることが出来るからである。 「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆー者は、語り得るまでに悟ってはおらず、 語り得るほどの真理に到達してはおらんゆーだけのことである。 この辺り、決して騙されてはならん。 問う人: ではなぜ人々は釈尊が悟ったとゆーのか。 「人の道」: それは簡単である。 釈尊はただ悟ったよーに演じておった。 釈尊は一丁前の役者であったから、周りの人間には悟ったよーに映った。 皆にも訊いてみるとえー。 問う人: 釈尊の十難無記ゆーのは全て、悟ってない者がこしらえたただの言い訳であり意味はないゆーこと、 皆はどー思うか聞かしてくれ。  

  • 親鸞と日蓮の違い

      問う人: 親鸞と日蓮はどー違う。 「人の道」: 親鸞は極楽浄土を説いたが地獄は説いてはおらん。 また輪廻転生、すなわち生まれ変わりはないとゆーておる。 日蓮は仏界を説いたが、同時に地獄界も説いておる。 また輪廻転生を説き、悪人は地獄に堕ちると説いておる。 問う人: 親鸞はエロじじいであったゆーのはほんとーか。 「人の道」: ほんとーである。 しかし、親鸞は善人も悪人もみな極楽浄土に行けるとゆーておる。 つまり人はみな救われると。 しかし日蓮は悪人は地獄に堕ちるとゆーておる。 まー簡単にゆーと親鸞の教えは常人の教え、日蓮の教えは畜生の教えに近いゆーことや。 皆にも訊いてみい。 問う人: 親鸞の教えは常人の教え、日蓮の教えは畜生の教えに近いゆーこと、皆はどー思う。  

  • 親鸞と日蓮の違い

      問う人: 親鸞と日蓮はどー違う。 「人の道」: 親鸞は極楽浄土を説いたが地獄は説いてはおらん。 また輪廻転生、すなわち生まれ変わりはないとゆーておる。 日蓮は仏界を説いたが、同時に地獄界も説いておる。 また輪廻転生を説き、悪人は地獄に堕ちると説いておる。 問う人: 親鸞はエロじじいであったゆーのはほんとーか。 「人の道」: ほんとーである。 しかし、親鸞は善人も悪人もみな極楽浄土に行けるとゆーておる。 つまり人はみな救われると。 しかし日蓮は悪人は地獄に堕ちるとゆーておる。 まー簡単にゆーと親鸞の教えは常人の教え、日蓮の教えは畜生の教えに近いゆーことや。 皆にも訊いてみい。 問う人: 親鸞の教えは常人の教え、日蓮の教えは畜生の教えに近いゆーこと、皆はどー思う。  

  • 親鸞と日蓮の違い

      問う人: 親鸞と日蓮はどー違う。 「人の道」: 親鸞は極楽浄土を説いたが地獄は説いてはおらん。 また輪廻転生、すなわち生まれ変わりはないとゆーておる。 日蓮は仏界を説いたが、同時に地獄界も説いておる。 また輪廻転生を説き、悪人は地獄に堕ちると説いておる。 問う人: 親鸞はエロじじいであったゆーのはほんとーか。 「人の道」: ほんとーである。 しかし、親鸞は善人も悪人もみな極楽浄土に行けるとゆーておる。 つまり人はみな救われると。 しかし日蓮は悪人は地獄に堕ちるとゆーておる。 まー簡単にゆーと親鸞の教えは常人の教え、日蓮の教えは畜生の教えに近いゆーことや。 皆にも訊いてみい。 問う人: 親鸞の教えは常人の教え、日蓮の教えは畜生の教えに近いゆーこと、皆はどー思う。  

  • 語りえぬものについての問答

      問う人: 釈尊は「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆーたとゆーが、 「人の道」: これを巷では釈尊の十難無記 とゆーておる。 しかし騙されてはならん。 悟った者は決してこのよーなことを言うことはない。 なぜなら悟った者は悟ったことの全てについて語ることができるからである。 なぜなら真理を得た者はその真理の全てについて語ることが出来るからである。 「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆー者は、語り得るまでに悟ってはおらず、 語り得るほどの真理に到達してはおらんゆーだけのことである。 この辺り、決して騙されてはならん。 問う人: ではなぜ人々は釈尊が悟ったとゆーのか。 「人の道」: それは簡単である。 釈尊はただ悟ったよーに演じておった。 釈尊は一丁前の役者であったから、周りの人間には悟ったよーに映った。 皆にも訊いてみるとえー。 問う人: 釈尊の十難無記ゆーのは全て、悟ってない者がこしらえたただの言い訳であり意味はないゆーこと、 皆はどー思うか聞かしてくれ。  

  • 語りえぬものについての問答

      問う人: 釈尊は「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆーたとゆーが、 「人の道」: これを巷では釈尊の十難無記 とゆーておる。 しかし騙されてはならん。 悟った者は決してこのよーなことを言うことはない。 なぜなら悟った者は悟ったことの全てについて語ることができるからである。 なぜなら真理を得た者はその真理の全てについて語ることが出来るからである。 「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆー者は、語り得るまでに悟ってはおらず、 語り得るほどの真理に到達してはおらんゆーだけのことである。 この辺り、決して騙されてはならん。 問う人: ではなぜ人々は釈尊が悟ったとゆーのか。 「人の道」: それは簡単である。 釈尊はただ悟ったよーに演じておった。 釈尊は一丁前の役者であったから、周りの人間には悟ったよーに映った。 皆にも訊いてみるとえー。 問う人: 釈尊の十難無記ゆーのは全て、悟ってない者がこしらえたただの言い訳であり意味はないゆーこと、 皆はどー思うか聞かしてくれ。  

  • 語りえぬものについての問答

      問う人: 釈尊は「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆーたとゆーが、 「人の道」: これを巷では釈尊の十難無記 とゆーておる。 しかし騙されてはならん。 悟った者は決してこのよーなことを言うことはない。 なぜなら悟った者は悟ったことの全てについて語ることができるからである。 なぜなら真理を得た者はその真理の全てについて語ることが出来るからである。 「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆー者は、語り得るまでに悟ってはおらず、 語り得るほどの真理に到達してはおらんゆーだけのことである。 この辺り、決して騙されてはならん。 問う人: ではなぜ人々は釈尊が悟ったとゆーのか。 「人の道」: それは簡単である。 釈尊はただ悟ったよーに演じておった。 釈尊は一丁前の役者であったから、周りの人間には悟ったよーに映った。 皆にも訊いてみるとえー。 問う人: 釈尊の十難無記ゆーのは全て、悟ってない者がこしらえたただの言い訳であり意味はないゆーこと、 皆はどー思うか聞かしてくれ。  

  • 語りえぬものについての問答

      問う人: 釈尊は「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆーたとゆーが、 「人の道」: これを巷では釈尊の十難無記 とゆーておる。 しかし騙されてはならん。 悟った者は決してこのよーなことを言うことはない。 なぜなら悟った者は悟ったことの全てについて語ることができるからである。 なぜなら真理を得た者はその真理の全てについて語ることが出来るからである。 「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆー者は、語り得るまでに悟ってはおらず、 語り得るほどの真理に到達してはおらんゆーだけのことである。 この辺り、決して騙されてはならん。 問う人: ではなぜ人々は釈尊が悟ったとゆーのか。 「人の道」: それは簡単である。 釈尊はただ悟ったよーに演じておった。 釈尊は一丁前の役者であったから、周りの人間には悟ったよーに映った。 皆にも訊いてみるとえー。 問う人: 釈尊の十難無記ゆーのは全て、悟ってない者がこしらえたただの言い訳であり意味はないゆーこと、 皆はどー思うか聞かしてくれ。  

  • 悟りとは主観と客観の一致である。

    ある書籍に、「悟りとは主観と客観の一致である」と書いてありました。 これについて、自由な意見をお待ちしています。

  • 悟りとは主観と客観の一致である。

    ある書籍に、「悟りとは主観と客観の一致である」と書いてありました。 これについて、自由な意見をお待ちしています。

  • 悟りとは主観と客観の一致である。

    ある書籍に、「悟りとは主観と客観の一致である」と書いてありました。 これについて、自由な意見をお待ちしています。

  • 悟りとは主観と客観の一致である。

    ある書籍に、「悟りとは主観と客観の一致である」と書いてありました。 これについて、自由な意見をお待ちしています。

  • 悟りとは主観と客観の一致である。

    ある書籍に、「悟りとは主観と客観の一致である」と書いてありました。 これについて、自由な意見をお待ちしています。

  • なぜ「自分は悪くない」と思ってしまうのか?

    なぜ「自分は悪くない」と思ってしまうのか? 「悪いのは周囲のせい」と私はたぶん思っている。 これを修正するにはどうすれば良いか?

  • 悟りとは主観と客観の一致である。

    ある書籍に、「悟りとは主観と客観の一致である」と書いてありました。 これについて、自由な意見をお待ちしています。

  • 仏教は一神教か

      仏教は一神教か

  • 仏教は一神教か

      仏教は一神教か

  • 仏教は一神教か

      仏教は一神教か

  • キリスト教的思想が広がれば平和な世界を築ける?

    ローマ帝国を舞台にした小説を読みましたが、登場するキリスト教徒の生き方が非常に美しい、印象深いと思いつつも、 この生き方、考え方は自分にはまだ分からない、と思わざるを得ません。 暴君が刺客を差し向けて自分の命を狙うとき、面白半分で大切な人の命を奪うとき、猛獣に自分を食わせようとするとき、無抵抗で天上の神に祈りをささげながら、自分を陥れた人間を許しながら死んでいく人生にどういう価値があるのでしょうか? 仮に天上の世界があり、そこで神の説く真理が素晴らしいとしたら、それを積極的に広め、妨害する勢力には抵抗する「力」が必要なのではないでしょうか? その「力」を否定しているように見えるところがどうしても納得できません。いや、心のどこかで素晴らしい態度ではないか、と感じつつも、現実的ではないと思うのです。 今の世の中で積極的にキリスト教を広めようとしても、おそらく多くの人はこの教えどおりに行動できないのではないでしょうか?だからキリスト後の歴史でも争いが絶えないのでしょうが… 仮に今有能な政治家が目の前にいて、多くの政敵を乗り越えて、何千万もの人を救う政策を実現できる能力が彼にはあるとした時、その人にキリスト教を説いて、その人が闘う意志をなくしてしまったら、社会にとって大きな損失ではないでしょうか? そういう、この世に現実的に存在している「力」とバランスしていない、キリスト教に関心はありつつも、そこがどうしても疑問なのです。それでも信者の方にとってはこの教えでいずれは地上全体が良くなると、言えるのでしょうか?