agripapa の回答履歴

全177件中61~80件表示
  • why be moral?

    昔あった本のタイトルから。 人は、なぜ道徳を守る必要があるのでしょうか? 一応自分なりの回答をもっています。 「人は、それが社会の共通規則(言語ゲーム)であるが故に、その社会で生きるために、道徳を守る必要がある。」 この策定によれば、自暴自棄なテロリストを糾弾する正当性は誰も持ち得ないでしょう。 (それに正当性が必要かどうかという議論では、私は必要ないと答えますが。) ※何が道徳であるか、ということについては、基本的にはウィトゲンシュタインの立場を取りたいと思います(ミルであれカントであれロールズであれ好きにすればいい) この言説の問題として、道徳の正しさをこの考え自体が否定している気がしています。色々な立場からある判断基準を道徳として策定したにも関わらず、その正当性自体を相対的なあり方に固定してしまっている。 皆さんのご意見を伺いたいです。

  • why be moral?

    昔あった本のタイトルから。 人は、なぜ道徳を守る必要があるのでしょうか? 一応自分なりの回答をもっています。 「人は、それが社会の共通規則(言語ゲーム)であるが故に、その社会で生きるために、道徳を守る必要がある。」 この策定によれば、自暴自棄なテロリストを糾弾する正当性は誰も持ち得ないでしょう。 (それに正当性が必要かどうかという議論では、私は必要ないと答えますが。) ※何が道徳であるか、ということについては、基本的にはウィトゲンシュタインの立場を取りたいと思います(ミルであれカントであれロールズであれ好きにすればいい) この言説の問題として、道徳の正しさをこの考え自体が否定している気がしています。色々な立場からある判断基準を道徳として策定したにも関わらず、その正当性自体を相対的なあり方に固定してしまっている。 皆さんのご意見を伺いたいです。

  • 仏教は一神教か

      仏教は一神教か

  • why be moral?

    昔あった本のタイトルから。 人は、なぜ道徳を守る必要があるのでしょうか? 一応自分なりの回答をもっています。 「人は、それが社会の共通規則(言語ゲーム)であるが故に、その社会で生きるために、道徳を守る必要がある。」 この策定によれば、自暴自棄なテロリストを糾弾する正当性は誰も持ち得ないでしょう。 (それに正当性が必要かどうかという議論では、私は必要ないと答えますが。) ※何が道徳であるか、ということについては、基本的にはウィトゲンシュタインの立場を取りたいと思います(ミルであれカントであれロールズであれ好きにすればいい) この言説の問題として、道徳の正しさをこの考え自体が否定している気がしています。色々な立場からある判断基準を道徳として策定したにも関わらず、その正当性自体を相対的なあり方に固定してしまっている。 皆さんのご意見を伺いたいです。

  • 存在するという結果自体が、実は原因なのか?

    因果律とは、原因と結果という、時間の順序のことであり、原因と結果が同時であっては矛盾ということになる。 このように、因果律とは、時間の順序そのものということであるが、それを空間的に捉えた場合。 例えば、電子、陽子、中性子を原因とするなら、原子を結果とするような考え方もできる。 とは言え、原子とは、結局のところ、電子、陽子、中性子、の集まってできた集合体であって、本当に存在しているのは、原子ではなく、電子、陽子、中性子であり、それらが集まって原子として振る舞って存在しているだけなのである。 とすると、結局原子とは、電子、陽子、中性子が原因であると共に、電子、陽子、中性子が結果でもあるのだ。 だから、電子、陽子、中性子に存在する固有時間は、同時に原子(電子、陽子、中性子)の固有時間そのものなのだ、原因と結果は同じ時を刻むどころか、全く同じ存在なのである。 つまり、このように、原因は結果であると共に、結果は原因でもあり、存在が存在するための原因は、存在自身であり、原因を遡ったり、外部から原因を必要とすることなく、存在は、因果律が原因と結果の二つの間で閉じたループになっていて、因果律が自己(存在)の中で完結しているのだ。 このことは、原子だけに限らず、それよりミクロの世界を構成する素粒子や、また銀河のような宇宙の大規模構造にもあてはまるように思える。 つまり、原因と結果は同じ時を刻む、同じ一つの存在なのだろうか? そして、存在するという結果自体が、実は原因なのだろうか?

  • 存在するという結果自体が、実は原因なのか?

    因果律とは、原因と結果という、時間の順序のことであり、原因と結果が同時であっては矛盾ということになる。 このように、因果律とは、時間の順序そのものということであるが、それを空間的に捉えた場合。 例えば、電子、陽子、中性子を原因とするなら、原子を結果とするような考え方もできる。 とは言え、原子とは、結局のところ、電子、陽子、中性子、の集まってできた集合体であって、本当に存在しているのは、原子ではなく、電子、陽子、中性子であり、それらが集まって原子として振る舞って存在しているだけなのである。 とすると、結局原子とは、電子、陽子、中性子が原因であると共に、電子、陽子、中性子が結果でもあるのだ。 だから、電子、陽子、中性子に存在する固有時間は、同時に原子(電子、陽子、中性子)の固有時間そのものなのだ、原因と結果は同じ時を刻むどころか、全く同じ存在なのである。 つまり、このように、原因は結果であると共に、結果は原因でもあり、存在が存在するための原因は、存在自身であり、原因を遡ったり、外部から原因を必要とすることなく、存在は、因果律が原因と結果の二つの間で閉じたループになっていて、因果律が自己(存在)の中で完結しているのだ。 このことは、原子だけに限らず、それよりミクロの世界を構成する素粒子や、また銀河のような宇宙の大規模構造にもあてはまるように思える。 つまり、原因と結果は同じ時を刻む、同じ一つの存在なのだろうか? そして、存在するという結果自体が、実は原因なのだろうか?

  • 語りえぬものについての問答

      問う人: 釈尊は「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆーたとゆーが、 「人の道」: これを巷では釈尊の十難無記 とゆーておる。 しかし騙されてはならん。 悟った者は決してこのよーなことを言うことはない。 なぜなら悟った者は悟ったことの全てについて語ることができるからである。 なぜなら真理を得た者はその真理の全てについて語ることが出来るからである。 「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆー者は、語り得るまでに悟ってはおらず、 語り得るほどの真理に到達してはおらんゆーだけのことである。 この辺り、決して騙されてはならん。 問う人: ではなぜ人々は釈尊が悟ったとゆーのか。 「人の道」: それは簡単である。 釈尊はただ悟ったよーに演じておった。 釈尊は一丁前の役者であったから、周りの人間には悟ったよーに映った。 皆にも訊いてみるとえー。 問う人: 釈尊の十難無記ゆーのは全て、悟ってない者がこしらえたただの言い訳であり意味はないゆーこと、 皆はどー思うか聞かしてくれ。  

  • 語りえぬものについての問答

      問う人: 釈尊は「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆーたとゆーが、 「人の道」: これを巷では釈尊の十難無記 とゆーておる。 しかし騙されてはならん。 悟った者は決してこのよーなことを言うことはない。 なぜなら悟った者は悟ったことの全てについて語ることができるからである。 なぜなら真理を得た者はその真理の全てについて語ることが出来るからである。 「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆー者は、語り得るまでに悟ってはおらず、 語り得るほどの真理に到達してはおらんゆーだけのことである。 この辺り、決して騙されてはならん。 問う人: ではなぜ人々は釈尊が悟ったとゆーのか。 「人の道」: それは簡単である。 釈尊はただ悟ったよーに演じておった。 釈尊は一丁前の役者であったから、周りの人間には悟ったよーに映った。 皆にも訊いてみるとえー。 問う人: 釈尊の十難無記ゆーのは全て、悟ってない者がこしらえたただの言い訳であり意味はないゆーこと、 皆はどー思うか聞かしてくれ。  

  • 語りえぬものについての問答

      問う人: 釈尊は「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆーたとゆーが、 「人の道」: これを巷では釈尊の十難無記 とゆーておる。 しかし騙されてはならん。 悟った者は決してこのよーなことを言うことはない。 なぜなら悟った者は悟ったことの全てについて語ることができるからである。 なぜなら真理を得た者はその真理の全てについて語ることが出来るからである。 「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆー者は、語り得るまでに悟ってはおらず、 語り得るほどの真理に到達してはおらんゆーだけのことである。 この辺り、決して騙されてはならん。 問う人: ではなぜ人々は釈尊が悟ったとゆーのか。 「人の道」: それは簡単である。 釈尊はただ悟ったよーに演じておった。 釈尊は一丁前の役者であったから、周りの人間には悟ったよーに映った。 皆にも訊いてみるとえー。 問う人: 釈尊の十難無記ゆーのは全て、悟ってない者がこしらえたただの言い訳であり意味はないゆーこと、 皆はどー思うか聞かしてくれ。  

  • 「真理」とはいかなる意味ですか?

    「真理」とはいかなる意味ですか? 私には実は良く解っておりませんので、皆様に聞いています。 完璧な回答でなくて構いませんので、自由なご意見を待っております。

  • 語りえぬものについての問答

      問う人: 釈尊は「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆーたとゆーが、 「人の道」: これを巷では釈尊の十難無記 とゆーておる。 しかし騙されてはならん。 悟った者は決してこのよーなことを言うことはない。 なぜなら悟った者は悟ったことの全てについて語ることができるからである。 なぜなら真理を得た者はその真理の全てについて語ることが出来るからである。 「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆー者は、語り得るまでに悟ってはおらず、 語り得るほどの真理に到達してはおらんゆーだけのことである。 この辺り、決して騙されてはならん。 問う人: ではなぜ人々は釈尊が悟ったとゆーのか。 「人の道」: それは簡単である。 釈尊はただ悟ったよーに演じておった。 釈尊は一丁前の役者であったから、周りの人間には悟ったよーに映った。 皆にも訊いてみるとえー。 問う人: 釈尊の十難無記ゆーのは全て、悟ってない者がこしらえたただの言い訳であり意味はないゆーこと、 皆はどー思うか聞かしてくれ。  

  • 語りえぬものについての問答

      問う人: 釈尊は「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆーたとゆーが、 「人の道」: これを巷では釈尊の十難無記 とゆーておる。 しかし騙されてはならん。 悟った者は決してこのよーなことを言うことはない。 なぜなら悟った者は悟ったことの全てについて語ることができるからである。 なぜなら真理を得た者はその真理の全てについて語ることが出来るからである。 「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆー者は、語り得るまでに悟ってはおらず、 語り得るほどの真理に到達してはおらんゆーだけのことである。 この辺り、決して騙されてはならん。 問う人: ではなぜ人々は釈尊が悟ったとゆーのか。 「人の道」: それは簡単である。 釈尊はただ悟ったよーに演じておった。 釈尊は一丁前の役者であったから、周りの人間には悟ったよーに映った。 皆にも訊いてみるとえー。 問う人: 釈尊の十難無記ゆーのは全て、悟ってない者がこしらえたただの言い訳であり意味はないゆーこと、 皆はどー思うか聞かしてくれ。  

  • 語りえぬものについての問答

      問う人: 釈尊は「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆーたとゆーが、 「人の道」: これを巷では釈尊の十難無記 とゆーておる。 しかし騙されてはならん。 悟った者は決してこのよーなことを言うことはない。 なぜなら悟った者は悟ったことの全てについて語ることができるからである。 なぜなら真理を得た者はその真理の全てについて語ることが出来るからである。 「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆー者は、語り得るまでに悟ってはおらず、 語り得るほどの真理に到達してはおらんゆーだけのことである。 この辺り、決して騙されてはならん。 問う人: ではなぜ人々は釈尊が悟ったとゆーのか。 「人の道」: それは簡単である。 釈尊はただ悟ったよーに演じておった。 釈尊は一丁前の役者であったから、周りの人間には悟ったよーに映った。 皆にも訊いてみるとえー。 問う人: 釈尊の十難無記ゆーのは全て、悟ってない者がこしらえたただの言い訳であり意味はないゆーこと、 皆はどー思うか聞かしてくれ。  

  • 語りえぬものについての問答

      問う人: 釈尊は「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆーたとゆーが、 「人の道」: これを巷では釈尊の十難無記 とゆーておる。 しかし騙されてはならん。 悟った者は決してこのよーなことを言うことはない。 なぜなら悟った者は悟ったことの全てについて語ることができるからである。 なぜなら真理を得た者はその真理の全てについて語ることが出来るからである。 「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆー者は、語り得るまでに悟ってはおらず、 語り得るほどの真理に到達してはおらんゆーだけのことである。 この辺り、決して騙されてはならん。 問う人: ではなぜ人々は釈尊が悟ったとゆーのか。 「人の道」: それは簡単である。 釈尊はただ悟ったよーに演じておった。 釈尊は一丁前の役者であったから、周りの人間には悟ったよーに映った。 皆にも訊いてみるとえー。 問う人: 釈尊の十難無記ゆーのは全て、悟ってない者がこしらえたただの言い訳であり意味はないゆーこと、 皆はどー思うか聞かしてくれ。  

  • 「幻」とは何か?

    「幻」とは何か? 自由なご意見お待ちします。

  • 「幻」とは何か?

    「幻」とは何か? 自由なご意見お待ちします。

  • 語りえぬものについての問答

      問う人: 釈尊は「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆーたとゆーが、 「人の道」: これを巷では釈尊の十難無記 とゆーておる。 しかし騙されてはならん。 悟った者は決してこのよーなことを言うことはない。 なぜなら悟った者は悟ったことの全てについて語ることができるからである。 なぜなら真理を得た者はその真理の全てについて語ることが出来るからである。 「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆー者は、語り得るまでに悟ってはおらず、 語り得るほどの真理に到達してはおらんゆーだけのことである。 この辺り、決して騙されてはならん。 問う人: ではなぜ人々は釈尊が悟ったとゆーのか。 「人の道」: それは簡単である。 釈尊はただ悟ったよーに演じておった。 釈尊は一丁前の役者であったから、周りの人間には悟ったよーに映った。 皆にも訊いてみるとえー。 問う人: 釈尊の十難無記ゆーのは全て、悟ってない者がこしらえたただの言い訳であり意味はないゆーこと、 皆はどー思うか聞かしてくれ。  

  • 宇宙って殆どの場所が「無駄」なんじゃ・・・・・

    もったいない精神など、人間はそれをいかに活用できているかによって有意義かどうかを図っているように思います。 そう考えると宇宙とはあの広大な空間や星、または水があってもそれは生命の活動に影響を与えないなら「無駄なモノ」といえるのでしょうか?

  • 宇宙って殆どの場所が「無駄」なんじゃ・・・・・

    もったいない精神など、人間はそれをいかに活用できているかによって有意義かどうかを図っているように思います。 そう考えると宇宙とはあの広大な空間や星、または水があってもそれは生命の活動に影響を与えないなら「無駄なモノ」といえるのでしょうか?

  • 表象の対語は?(そして形象との連関)

    シニフィアン/シニフィエ の関係に照らした質問です。 表象するものとしての、シニフィアンが「表象」だとすれば、 表象されるシニフィエは、なんという言葉が当てられるのでしょうか。 もしくは、表象する・される関係のセットで「表象」なのでしょうか。 または、シニフィアンもシニフィエも違う種類の「表象」なのでしょうか。 もし、セットで「表象」とするならば、表象は「形象」と同義でしょうか。 逆に、「形象」とはシニフィアンのみを指すのでしょうか・・・ 質問の書き方がまぎらわしく感じられたらすみません。 どうぞ宜しくお願いいたします。