agripapa の回答履歴

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  • ブッダと空海、どちらが偉大ですか?

    ブッダというのはもちろん創始者のブッダです。

  • 俺を戦場につれていけ

    やあ。 皆さんお久しぶり。 特に名乗らないよ。 福島原発で頑張る皆さんの心境について考察してみました。 若い人は無謀だがこれが父であれば話が早い。 我が子の未来が危ういとしたら、自らが死地に光明を切り開くため、戦場だろうとどこだろうと赴く。 戦争が起きると兵隊に志願する心境とおんなじだ。 こういうのは危機に直面しても、くよくよ悩むだけでは判らないだろう。 結果として死に直面してなおも生きようとする衝動が他者をより強く生かそうとする行動に結びつく。 このような行いを悪の行いと言う。 悪魔とは神のあらぶる姿であり、悪意とはその怒りだ。 悪魔の真実の姿とは死地を悟る人を生かそうとする神の姿であり、悪意が氷解すると、その悪魔であった姿こそがひときわ神々しいと判る。 悪の姿のみを糾弾するのは誰かが悪くないと自分が善人になった気がしない偽善者であるが、、幸いにも原発で頑張る皆さんを悪人だとは誰も言うまい。 ならば悪とは何ぞや。

  • ブッダと空海、どちらが偉大ですか?

    ブッダというのはもちろん創始者のブッダです。

  • ブッダと空海、どちらが偉大ですか?

    ブッダというのはもちろん創始者のブッダです。

  • ブッダと空海、どちらが偉大ですか?

    ブッダというのはもちろん創始者のブッダです。

  • ブッダと空海、どちらが偉大ですか?

    ブッダというのはもちろん創始者のブッダです。

  • ブッダと空海、どちらが偉大ですか?

    ブッダというのはもちろん創始者のブッダです。

  • 語りえぬものについての問答

      問う人: 釈尊は「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆーたとゆーが、 「人の道」: これを巷では釈尊の十難無記 とゆーておる。 しかし騙されてはならん。 悟った者は決してこのよーなことを言うことはない。 なぜなら悟った者は悟ったことの全てについて語ることができるからである。 なぜなら真理を得た者はその真理の全てについて語ることが出来るからである。 「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆー者は、語り得るまでに悟ってはおらず、 語り得るほどの真理に到達してはおらんゆーだけのことである。 この辺り、決して騙されてはならん。 問う人: ではなぜ人々は釈尊が悟ったとゆーのか。 「人の道」: それは簡単である。 釈尊はただ悟ったよーに演じておった。 釈尊は一丁前の役者であったから、周りの人間には悟ったよーに映った。 皆にも訊いてみるとえー。 問う人: 釈尊の十難無記ゆーのは全て、悟ってない者がこしらえたただの言い訳であり意味はないゆーこと、 皆はどー思うか聞かしてくれ。  

  • 語りえぬものについての問答

      問う人: 釈尊は「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆーたとゆーが、 「人の道」: これを巷では釈尊の十難無記 とゆーておる。 しかし騙されてはならん。 悟った者は決してこのよーなことを言うことはない。 なぜなら悟った者は悟ったことの全てについて語ることができるからである。 なぜなら真理を得た者はその真理の全てについて語ることが出来るからである。 「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆー者は、語り得るまでに悟ってはおらず、 語り得るほどの真理に到達してはおらんゆーだけのことである。 この辺り、決して騙されてはならん。 問う人: ではなぜ人々は釈尊が悟ったとゆーのか。 「人の道」: それは簡単である。 釈尊はただ悟ったよーに演じておった。 釈尊は一丁前の役者であったから、周りの人間には悟ったよーに映った。 皆にも訊いてみるとえー。 問う人: 釈尊の十難無記ゆーのは全て、悟ってない者がこしらえたただの言い訳であり意味はないゆーこと、 皆はどー思うか聞かしてくれ。  

  • 仏像を拝むのは釈迦の教えに反するのか

    この間、ここで出家について質問して 質問がとんでもない方向に飛躍してしまいました。 http://okwave.jp/qa/q6996217.html 質問の返信では神を拝むのは本来の目的から外れるとのこと。 そこで色々と検索してみて、どうもその通りらしかったのです。 しかし、調べている間に仏像を拝むのはどうかと疑問がわきました。 自分でもかなり抽象的な質問かなと思いますが、 ご意見を持っている方がいれば書き込んでください。    

  • 仏像を拝むのは釈迦の教えに反するのか

    この間、ここで出家について質問して 質問がとんでもない方向に飛躍してしまいました。 http://okwave.jp/qa/q6996217.html 質問の返信では神を拝むのは本来の目的から外れるとのこと。 そこで色々と検索してみて、どうもその通りらしかったのです。 しかし、調べている間に仏像を拝むのはどうかと疑問がわきました。 自分でもかなり抽象的な質問かなと思いますが、 ご意見を持っている方がいれば書き込んでください。    

  • 仏像を拝むのは釈迦の教えに反するのか

    この間、ここで出家について質問して 質問がとんでもない方向に飛躍してしまいました。 http://okwave.jp/qa/q6996217.html 質問の返信では神を拝むのは本来の目的から外れるとのこと。 そこで色々と検索してみて、どうもその通りらしかったのです。 しかし、調べている間に仏像を拝むのはどうかと疑問がわきました。 自分でもかなり抽象的な質問かなと思いますが、 ご意見を持っている方がいれば書き込んでください。    

  • 宗教は、易経(占い)が好きなのか?

    こんばんは。 暇なうえに、少し気になりましたので。 質問させていただきました。 宗教は、哲学と対等ではなかったのか? それとも、あくまで自ずから(呪術、占い)で真実を誤魔化し、 哲学に従おうとするものなのか、お教えください。 これらは、単に、自己満足や 人と仲良く付き合う方法ではないのか? 哲学が、やはり、論理的な最高の学問なのか? (自我意識に目覚めた者の学問であると言うこと) (哲学から、真実の生き方が生まれると言うこと) これから、学ぶ者のために、お教えください。

  • 宗教は、易経(占い)が好きなのか?

    こんばんは。 暇なうえに、少し気になりましたので。 質問させていただきました。 宗教は、哲学と対等ではなかったのか? それとも、あくまで自ずから(呪術、占い)で真実を誤魔化し、 哲学に従おうとするものなのか、お教えください。 これらは、単に、自己満足や 人と仲良く付き合う方法ではないのか? 哲学が、やはり、論理的な最高の学問なのか? (自我意識に目覚めた者の学問であると言うこと) (哲学から、真実の生き方が生まれると言うこと) これから、学ぶ者のために、お教えください。

  • 浄土教から見た「自灯明」

    浄土真宗門徒の者です。 真宗は絶対他力を説くのですが、その立場から見た時に釈尊の最後の教えである「自灯明」をどう解釈したら良いでしょうか? その後に「法灯明」とも併記されているので、こちらは他力の観点から見ても受け入れやすいものですが、「自灯明」は字面通りに受け取れば自力を説くものと思えます。自分の宗派は好きだし、念仏を喜ぶ我が身ですが、ここの所がどうもすっきりしないのです。

  • 浄土教から見た「自灯明」

    浄土真宗門徒の者です。 真宗は絶対他力を説くのですが、その立場から見た時に釈尊の最後の教えである「自灯明」をどう解釈したら良いでしょうか? その後に「法灯明」とも併記されているので、こちらは他力の観点から見ても受け入れやすいものですが、「自灯明」は字面通りに受け取れば自力を説くものと思えます。自分の宗派は好きだし、念仏を喜ぶ我が身ですが、ここの所がどうもすっきりしないのです。

  • 浄土教から見た「自灯明」

    浄土真宗門徒の者です。 真宗は絶対他力を説くのですが、その立場から見た時に釈尊の最後の教えである「自灯明」をどう解釈したら良いでしょうか? その後に「法灯明」とも併記されているので、こちらは他力の観点から見ても受け入れやすいものですが、「自灯明」は字面通りに受け取れば自力を説くものと思えます。自分の宗派は好きだし、念仏を喜ぶ我が身ですが、ここの所がどうもすっきりしないのです。

  • 浄土教から見た「自灯明」

    浄土真宗門徒の者です。 真宗は絶対他力を説くのですが、その立場から見た時に釈尊の最後の教えである「自灯明」をどう解釈したら良いでしょうか? その後に「法灯明」とも併記されているので、こちらは他力の観点から見ても受け入れやすいものですが、「自灯明」は字面通りに受け取れば自力を説くものと思えます。自分の宗派は好きだし、念仏を喜ぶ我が身ですが、ここの所がどうもすっきりしないのです。

  • 浄土教から見た「自灯明」

    浄土真宗門徒の者です。 真宗は絶対他力を説くのですが、その立場から見た時に釈尊の最後の教えである「自灯明」をどう解釈したら良いでしょうか? その後に「法灯明」とも併記されているので、こちらは他力の観点から見ても受け入れやすいものですが、「自灯明」は字面通りに受け取れば自力を説くものと思えます。自分の宗派は好きだし、念仏を喜ぶ我が身ですが、ここの所がどうもすっきりしないのです。

  • 浄土教から見た「自灯明」

    浄土真宗門徒の者です。 真宗は絶対他力を説くのですが、その立場から見た時に釈尊の最後の教えである「自灯明」をどう解釈したら良いでしょうか? その後に「法灯明」とも併記されているので、こちらは他力の観点から見ても受け入れやすいものですが、「自灯明」は字面通りに受け取れば自力を説くものと思えます。自分の宗派は好きだし、念仏を喜ぶ我が身ですが、ここの所がどうもすっきりしないのです。