agripapa の回答履歴

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  • 浄土教から見た「自灯明」

    浄土真宗門徒の者です。 真宗は絶対他力を説くのですが、その立場から見た時に釈尊の最後の教えである「自灯明」をどう解釈したら良いでしょうか? その後に「法灯明」とも併記されているので、こちらは他力の観点から見ても受け入れやすいものですが、「自灯明」は字面通りに受け取れば自力を説くものと思えます。自分の宗派は好きだし、念仏を喜ぶ我が身ですが、ここの所がどうもすっきりしないのです。

  • 浄土教から見た「自灯明」

    浄土真宗門徒の者です。 真宗は絶対他力を説くのですが、その立場から見た時に釈尊の最後の教えである「自灯明」をどう解釈したら良いでしょうか? その後に「法灯明」とも併記されているので、こちらは他力の観点から見ても受け入れやすいものですが、「自灯明」は字面通りに受け取れば自力を説くものと思えます。自分の宗派は好きだし、念仏を喜ぶ我が身ですが、ここの所がどうもすっきりしないのです。

  • ミサに行きたいのですが…

    今日、勇気を出して、近くの某カトリック教会に行くことができました。 外国の方の神父さんとお話しをしました。 最初は、外国の方というのもあり、中々上手く喋れなかったのですが、私が今まで受けてきたどんなカウンセリングよりも良かったと思えました。 興味があるので、ミサに参加したいのですが、とお願いすると、日時や、初めてのときはこんな風にすれば良いんだよというのを教えてもらいました。 早速、日曜日にミサに参加したいと思うのですが、私の両親は宗教系に悪いイメージしか持っておらず、昔から、宗教には関わるなと言われ続けてきました。 もし、私がミサに行きたいなんて言ってしまえば、今以上に精神的に攻撃され、更に母が悲しんでしまうと思います… たまたま、その日は友達とオープンキャンパスに行く予定があるので、友達を利用するようで悪いのですが、友達とオープンキャンパスの前に遊んでくる。 と言うつもりです。 ですが、親に嘘をついてミサに行くという事に少し後ろめたい気持ちがあります。 でも、言ってしまえば、今の関係が崩れ、私が完全に見放されるのは目に見えています。 何か良い方法はないのかと考えましたが、やはり、言うことは無理みたいです。 嘘をついてミサに出ても大丈夫なんでしょうか? また、私はこれからどうすれば良いのでしょうか… 失礼ですが、批判的な解答はご遠慮ください…

  • 『存在する』に物理法則は不要なのか?

    存在が存在するために原因が有るのか、無いのか、分かりませんが、存在とはただ存在しています。 また、物理学では、存在が存在するという存在の本質はつかめません。 何故なら、物理法則自体も何故存在しているのか分からないけれども、ただ存在しているだけでしかないからです。 結局、何故だかは分からないけれど、存在とはただ存在しているとしか言いようがありません。 つまり、何故存在が存在するのか? という存在の本質を考えると「何かの原因によって存在が存在するという結果に結ばれる」というような因果律も存在しないし、それが成り立ってもいない、因果律によって「存在が存在する」という存在自体の本質に対して考えることは全くの無意味です。 もはや、ただ存在するとは因果律を超越していると言わざるを得ない結論にたどりつきます。 それなら、宇宙は『魔法の世界』と言えるかもしれません、存在するとはまるで魔法そのもののようです。 『存在とはただたんに存在する』のなら、因果律が成り立っていないし、そして因果律を超越していると言えます、また、物理法則自体も『存在する』ということ自体を説明するものではありませんし、また、物理法則は存在の原因にも成り得ません、物理法則は存在を存在させるものでは無くて、ただ存在に秩序を与えるものでしかないのなら、物理法則によって存在が存在しているという訳では無いことになります、結局、どこまで遡っても存在はただ存在しているとしか言いようがないからです。 因果律が無意味なら『存在はただ存在するだけ』であり、『存在する』ということに対し物理法則(秩序)は不必要ということでしょうか?それとも存在に物理法則は必然でしょうか? 必要ない場合、物理法則が無い状態のただ存在するという『物理法則に縛れない存在』(無秩序)が可能ということになりますが、物理法則を持たないとは一体どのような状態の存在でしょうか?(法則が全く存在しない状態など想像できません) 例えば、その『物理法則に縛られない存在』とはまるで魔法のようで、秩序が無いということは、つまり、無限の可能性を秘めている存在なのでしょうか? 存在するということを原因と結果では説明できませんしそれは無意味であり、存在とはつまり原因と結果を超越していて、存在とはただ存在するだけでしかありません。。

  • 浄土教から見た「自灯明」

    浄土真宗門徒の者です。 真宗は絶対他力を説くのですが、その立場から見た時に釈尊の最後の教えである「自灯明」をどう解釈したら良いでしょうか? その後に「法灯明」とも併記されているので、こちらは他力の観点から見ても受け入れやすいものですが、「自灯明」は字面通りに受け取れば自力を説くものと思えます。自分の宗派は好きだし、念仏を喜ぶ我が身ですが、ここの所がどうもすっきりしないのです。

  • 浄土教から見た「自灯明」

    浄土真宗門徒の者です。 真宗は絶対他力を説くのですが、その立場から見た時に釈尊の最後の教えである「自灯明」をどう解釈したら良いでしょうか? その後に「法灯明」とも併記されているので、こちらは他力の観点から見ても受け入れやすいものですが、「自灯明」は字面通りに受け取れば自力を説くものと思えます。自分の宗派は好きだし、念仏を喜ぶ我が身ですが、ここの所がどうもすっきりしないのです。

  • 浄土教から見た「自灯明」

    浄土真宗門徒の者です。 真宗は絶対他力を説くのですが、その立場から見た時に釈尊の最後の教えである「自灯明」をどう解釈したら良いでしょうか? その後に「法灯明」とも併記されているので、こちらは他力の観点から見ても受け入れやすいものですが、「自灯明」は字面通りに受け取れば自力を説くものと思えます。自分の宗派は好きだし、念仏を喜ぶ我が身ですが、ここの所がどうもすっきりしないのです。

  • 浄土教から見た「自灯明」

    浄土真宗門徒の者です。 真宗は絶対他力を説くのですが、その立場から見た時に釈尊の最後の教えである「自灯明」をどう解釈したら良いでしょうか? その後に「法灯明」とも併記されているので、こちらは他力の観点から見ても受け入れやすいものですが、「自灯明」は字面通りに受け取れば自力を説くものと思えます。自分の宗派は好きだし、念仏を喜ぶ我が身ですが、ここの所がどうもすっきりしないのです。

  • 浄土教から見た「自灯明」

    浄土真宗門徒の者です。 真宗は絶対他力を説くのですが、その立場から見た時に釈尊の最後の教えである「自灯明」をどう解釈したら良いでしょうか? その後に「法灯明」とも併記されているので、こちらは他力の観点から見ても受け入れやすいものですが、「自灯明」は字面通りに受け取れば自力を説くものと思えます。自分の宗派は好きだし、念仏を喜ぶ我が身ですが、ここの所がどうもすっきりしないのです。

  • 浄土教から見た「自灯明」

    浄土真宗門徒の者です。 真宗は絶対他力を説くのですが、その立場から見た時に釈尊の最後の教えである「自灯明」をどう解釈したら良いでしょうか? その後に「法灯明」とも併記されているので、こちらは他力の観点から見ても受け入れやすいものですが、「自灯明」は字面通りに受け取れば自力を説くものと思えます。自分の宗派は好きだし、念仏を喜ぶ我が身ですが、ここの所がどうもすっきりしないのです。

  • 浄土教から見た「自灯明」

    浄土真宗門徒の者です。 真宗は絶対他力を説くのですが、その立場から見た時に釈尊の最後の教えである「自灯明」をどう解釈したら良いでしょうか? その後に「法灯明」とも併記されているので、こちらは他力の観点から見ても受け入れやすいものですが、「自灯明」は字面通りに受け取れば自力を説くものと思えます。自分の宗派は好きだし、念仏を喜ぶ我が身ですが、ここの所がどうもすっきりしないのです。

  • 浄土教から見た「自灯明」

    浄土真宗門徒の者です。 真宗は絶対他力を説くのですが、その立場から見た時に釈尊の最後の教えである「自灯明」をどう解釈したら良いでしょうか? その後に「法灯明」とも併記されているので、こちらは他力の観点から見ても受け入れやすいものですが、「自灯明」は字面通りに受け取れば自力を説くものと思えます。自分の宗派は好きだし、念仏を喜ぶ我が身ですが、ここの所がどうもすっきりしないのです。

  • 浄土教から見た「自灯明」

    浄土真宗門徒の者です。 真宗は絶対他力を説くのですが、その立場から見た時に釈尊の最後の教えである「自灯明」をどう解釈したら良いでしょうか? その後に「法灯明」とも併記されているので、こちらは他力の観点から見ても受け入れやすいものですが、「自灯明」は字面通りに受け取れば自力を説くものと思えます。自分の宗派は好きだし、念仏を喜ぶ我が身ですが、ここの所がどうもすっきりしないのです。

  • 浄土教から見た「自灯明」

    浄土真宗門徒の者です。 真宗は絶対他力を説くのですが、その立場から見た時に釈尊の最後の教えである「自灯明」をどう解釈したら良いでしょうか? その後に「法灯明」とも併記されているので、こちらは他力の観点から見ても受け入れやすいものですが、「自灯明」は字面通りに受け取れば自力を説くものと思えます。自分の宗派は好きだし、念仏を喜ぶ我が身ですが、ここの所がどうもすっきりしないのです。

  • 浄土教から見た「自灯明」

    浄土真宗門徒の者です。 真宗は絶対他力を説くのですが、その立場から見た時に釈尊の最後の教えである「自灯明」をどう解釈したら良いでしょうか? その後に「法灯明」とも併記されているので、こちらは他力の観点から見ても受け入れやすいものですが、「自灯明」は字面通りに受け取れば自力を説くものと思えます。自分の宗派は好きだし、念仏を喜ぶ我が身ですが、ここの所がどうもすっきりしないのです。

  • 浄土教から見た「自灯明」

    浄土真宗門徒の者です。 真宗は絶対他力を説くのですが、その立場から見た時に釈尊の最後の教えである「自灯明」をどう解釈したら良いでしょうか? その後に「法灯明」とも併記されているので、こちらは他力の観点から見ても受け入れやすいものですが、「自灯明」は字面通りに受け取れば自力を説くものと思えます。自分の宗派は好きだし、念仏を喜ぶ我が身ですが、ここの所がどうもすっきりしないのです。

  • 無を求める心は何処からやって来るのか

    無の境地を求める仏教徒がいるとゆー。 悟りを開き無の境地に至るためだとゆー。 なぜ彼は無を求めるのか。 人は死ねば無になるではないか。 無を求めずともそのうち自然に無になるではないか。 なぜ今無を求める必要があろー。 無を求める者が飯を食うのは何故か。 飯は無なのか、有なのか。 飯を食うのは生きるためではないのか。 すると生きることは無を求めることなのか。 果たして無を求める者はその答えを備えているのか。 もし無を求めるのであれば何も要らないのではないか。 無を求めるものがお経など唱えてどーするのか。  

  • 浄土教から見た「自灯明」

    浄土真宗門徒の者です。 真宗は絶対他力を説くのですが、その立場から見た時に釈尊の最後の教えである「自灯明」をどう解釈したら良いでしょうか? その後に「法灯明」とも併記されているので、こちらは他力の観点から見ても受け入れやすいものですが、「自灯明」は字面通りに受け取れば自力を説くものと思えます。自分の宗派は好きだし、念仏を喜ぶ我が身ですが、ここの所がどうもすっきりしないのです。

  • why be moral?

    昔あった本のタイトルから。 人は、なぜ道徳を守る必要があるのでしょうか? 一応自分なりの回答をもっています。 「人は、それが社会の共通規則(言語ゲーム)であるが故に、その社会で生きるために、道徳を守る必要がある。」 この策定によれば、自暴自棄なテロリストを糾弾する正当性は誰も持ち得ないでしょう。 (それに正当性が必要かどうかという議論では、私は必要ないと答えますが。) ※何が道徳であるか、ということについては、基本的にはウィトゲンシュタインの立場を取りたいと思います(ミルであれカントであれロールズであれ好きにすればいい) この言説の問題として、道徳の正しさをこの考え自体が否定している気がしています。色々な立場からある判断基準を道徳として策定したにも関わらず、その正当性自体を相対的なあり方に固定してしまっている。 皆さんのご意見を伺いたいです。

  • why be moral?

    昔あった本のタイトルから。 人は、なぜ道徳を守る必要があるのでしょうか? 一応自分なりの回答をもっています。 「人は、それが社会の共通規則(言語ゲーム)であるが故に、その社会で生きるために、道徳を守る必要がある。」 この策定によれば、自暴自棄なテロリストを糾弾する正当性は誰も持ち得ないでしょう。 (それに正当性が必要かどうかという議論では、私は必要ないと答えますが。) ※何が道徳であるか、ということについては、基本的にはウィトゲンシュタインの立場を取りたいと思います(ミルであれカントであれロールズであれ好きにすればいい) この言説の問題として、道徳の正しさをこの考え自体が否定している気がしています。色々な立場からある判断基準を道徳として策定したにも関わらず、その正当性自体を相対的なあり方に固定してしまっている。 皆さんのご意見を伺いたいです。