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60代以降の方、子供の頃楽しかった遊びは何ですか?
テレビは無く、紙芝居屋があり、マンガ等の貸本屋?などが有り、 映画館やパチンコ屋があったと聞きます。 そんな当時の子供の頃、楽しかった遊びは何ですか? 他の子が熱中していた遊びでも構いません。教えて下さいますと幸いです。
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こんにちは 私は子供の頃は北海道の小さな港町で育ちました 北海道でも道北ですから田舎なのです TV はまだどの家庭にもありませんでしたが 映画館はあの小さな町に三軒ありましたよ、どうしてそんな小さな町に? 不思議に思われるでしょうけど 当時、大人の娯楽と言えばラジオと映画くらいしかなかったのです ですからあんな小さな町でも商売になったのでしょうね 「貸本や」さんと言うのは町全体で二軒ほどあったと思います 漫画と言うよりは劇画だったように思います、一冊15円くらいでしたか❓ 紙芝居は紙芝居屋さんではなく紙芝居のおじさんでした 月に一回くらい来てましたかねえ何時もいる訳ではないのです 自転車の後ろに紙芝居をセットしましてね 拍子木を叩きでもしたのですかね?すると子供が集まる❗アハハハ 今のペロペロキャンディーのようなものを買わされましてね 確か5円くらいだったと思います 町から町へと紙芝居で商売していたのでしょう 子供の遊びは決まっておりました 夏は海なのです、もう目の前ですし「たきぎ」を集めて子供3~4人 別に泳ぎたくて行く訳でもないのです 「うに」、「つぶ貝」がおやつ代わりでしたから 「ばふんうに」、ご存知ですか?道北は「ばふんうに」なのです これを4個くらい一つの殼にまとめて「焼きうに」にする 今思えば贅沢なおやつでした 冬は山がありましたからスキーは良く遊んでおりましたね 今の子供のようにお金のかかる遊びはないのです 春先になりますとね、オホーツクは流氷が溶け出す 童話の「一寸法師」がありますね? あんな感じで流氷に乗って遊んでおりました あれで沖に流されて行方不明になったと言う子供もおりませんでしたから 子供心に考えながら遊んだのでしょうね 今のように不自由のない時代ではありませんでしたから 子供はお金のかからない遊びを自分たちで探したのです パッチもありましたよ、関東の「メンコ」のことです 「缶けり」「泥棒ごっこ」と言うのは毎日の日課のようなものでアハハハ つい、懐かしく長くなりましたが 子供の頃の思い出です
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- 芙蓉の華(@purimuro-zu)
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毬つき 女の子の遊びでした 歌を歌いながら毬をついたり 足の間をくぐらせたり 今考えれば 男の子の前でも スカ-トの裾を翻しながら平気で毬をくぐらせていました だからパ〇〇 丸見えだったんですね。 歌は戦争の歌です。 広瀬中佐(?)とか西郷さん とか 最近になって 鹿児島の西郷記念館へ行ったとき その歌が流れており 懐かしかったです。 そういえば佐藤紅緑(愛子さんの父)の「毬の行方」という小説もありましたよ 毬を幸せに例えた小説でした。 貸本屋 ほとんど毎日借りに行きました。 そこで読むと借り賃を安くしてもらえるので 一日そこで本を読んでいました。 少女小説 少年小説 が たくさんあり 「あぁ玉杯に花受けて」等を読みました。 映画館 家から3分の所に映画館があり ものすごく混んでいました。 休みの度に、おにぎりを持って映画を見に行きました。 (特にひばりちゃんの映画は欠かさず観ました。) 紙芝居 家のそばに紙芝居やの小父さんの家がありました 回っても来るのですが家が近いので家で見せてもらっていました。 後から後から出てきますが 長くなるのでこの辺で・・・
お礼
>毬つき 今では見かけない景色ですが、幸せに例えられるほど 日常的な存在だったんですね。 そして色々と無頓着というか純粋だったのでしょうね。 >貸本屋 > ほとんど毎日借りに行きました。 沢山ご利用されたんですね。 活字に対する好き嫌いや子供達に向けた品揃えや空間かなど 地域や店次第なのでしょうか。 >映画館 そんなに混んでいたんですね。 現代人が何気なく家でTVを付けて何となく見ている。 それが出来ないから映画館へ皆向かう 的だったんでしょうか。 そして食べ物の持ち込みも普通だったのですね。 >紙芝居 家で見せて貰う事もできていたんですね。 今と違い皆柔軟で自由だったんだなと感じます。 今はあれは駄目これは危ないこうしなきゃ将来が と 雁字搦めで何の為に生きているのか解からない様な有様で。 気が向いたらまだお話しを聞かせて頂けますと幸いです。 ご回答ありがとうございました。
ご返事ありがとうございました。 >「三丁目の夕日」 私の知りたい事もその作品に描かれているのでしょうか。 ぼくは全作品を読んでいるわけではありませんが,ベーゴマ,メンコ,鬼ごっこみたいな定番の遊びが描かれていたと思います。ベーゴマやメンコは,やろうと思えばぼくもできたでしょうが,勝負で自分のものが取られるのが,ものすごく嫌だったのです 笑。だから,この生涯でやったギャンブルといえば,パチンコと宝くじが数回だけです。 自作といえば,パチンコ(Y字型の木にゴムをつけ小石を飛ばす玩具)や豆鉄砲(ピストン式で先端に詰めた豆を飛ばす玩具)もありました。パチンコの標的は,廃品ラジオ・テレビから抜いた真空管。けっこう危険なことをしてましたね 笑。豆鉄砲のピストンは笹の茎で作れました。豆は,たしか神社のクスノキの実を使いましたから,季節的な遊びでした。 こういう加工をするために,上等のナイフが欲しかったですね。子供に許されるのは「肥後守」(ひごのかみ)のナマクラでしたから。ぼくはいまでも,折れた切削刃(ハイスピードスチール;ハイス鋼;高速度鋼;HSSでできている)でナイフを作ったりしますが,子供の頃の欲求が尾を引いているわけです。
お礼
>「三丁目の夕日」 子供の遊びも描かれているんですね。ありがとうございます。 >勝負で自分のものが取られるのが 凄くよく解かります。私も小さい頃からそんな感じでした。 勝って手に入れても相手が可哀想、負けても辛い。そんなでした。 現代の娯楽(ゲーム等)でもキャラクターをロストする要素があると それだけでその娯楽には冷めて即やめたりします。 >パチンコ テレビゲーム黎明期のど田舎でもそういえばパチンコを自作する子 を見た事はあります。 エアガンなど玩具の銃が広まった事で空き缶を狙っていた時期も あった気がします。 そういえばゴミ捨て場の捨てられた蛍光灯を割ったりしてた記憶も。 今考えると埋め立てゴミ、有害物質的になんて事してたんだと。 >子供の頃の欲求が尾を引いているわけです。 子供は色々な遊びに触れては飽きてを繰り返し続けますが、 その中で何か夢中になれたり興味が広がったものが 人生を大きく変えたりしますよね。 遊びの中に社会的な意味を持てる関連性が出れば、 それが生業にできる道を目指す切っ掛けになったりもする。 遊びの別の面で興味深い一面ですね。 子供達に楽しい思い出を作ってあげようとする 保護者や玩具メーカーの想いもあるんですよね。 ご回答ありがとうございます。 色々な視点を得る事が出来ました。
- ts0472
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還暦です 市街地だと思うのですが駅から遠かった事もあり近くにあるのは小さな商店街程度でした 古本屋(貸本屋)はあった記憶がありますが 利用した記憶は無いです お小遣いは駄菓子屋に直行 紙芝居は月に1度くらいの周期で来てたかな? 馬が引くロバのパン屋は毎月くらい ポン菓子屋はもっと間隔が長かったような 父が珍しいもの好きだったので早くからテレビがあり ご近所の鑑賞場になってました 小学校低学年の頃は 駆けっこの記憶程度です 断片的にいろいろな遊びは記憶しているのですが 数としては駆けっこ 長屋を1周誰が速いか 舗装されていない時代 裸足も可 3~4年になってからは 凧揚げ 市販のやっこ凧に新聞紙で長い足を付けて 小学校のグランドの横が川で堤防に車道も無く落ちても心配ない 長い糸を使えた 落ちたら捨てて帰ってたかな? 子供のおもちゃで年中売っていたし 夏でもやってました 5~6年になって ゴム動力飛行機を幾つか作って飛ばすようになり その後プラモ作りに 接着剤で組み立てるだけですけど 何故かクラシックギターを与えられたのも この頃だったなぁ 全て始めたキッカケは覚えてないです 学校の図工だったのか 親が教えたのか 友人の遊びに興味を持ったのか ギターはお金の掛かる遊びを覚えたから親が勧めたのかも知れない 遊びの数が増えただけで親の目論見はハズレだったでしょう 無いよりはマシだったかも知れない
お礼
>古本屋(貸本屋) どんな品揃えかによっては子供にとって縁遠くなる事もあるのでしょうか。 地域や店の色があったんですね。 >お小遣いは駄菓子屋に直行 そういえば駄菓子はスーパーの中で小さく復活したりしていますね。 懐かしい味もあれば、製造会社が無くなり失われた味もあるみたいですが。 私は駄菓子屋すら無かったので子供達であちこち探検したり色々でした。 >紙芝居 >馬が引くロバのパン屋 >ポン菓子屋 そういう周期だったのですね。 後者2つは知りませんでした。 地域ごとにもっと色々なものがあったのかもしれませんね。 >ご近所の鑑賞場 日本各地でかつてあった光景なんですよね。 実際どんな時間にどんな人達があつまって、 どんなTV以外の交流があったのか、興味深いものです。 ネット社会になりその中で流行り廃りしていって もう見れなくなった当時の景色を私個人としては重ねて見ていました。 時代は変わって行くものなんですね。 >堤防に車道も無く落ちても心配ない 長い糸を使えた 車がまだ普及していなかった頃は もっとのびのびと走り回れたんですね。 車のおかげで物流が効率化し人の移動が活性化し 経済が発展し安価に物が買える時代になり、 様々な店が流行り廃れ目まぐるしく景色は変わって行った。 しかし今でも5~9歳の死因の1位は交通事故。 外に出る時は常に車に抑圧される様な暮らし。 車によって失われたものが実は大きかったんだなと思いました。 運動による心の欲求不満解消が出来ない事も 子供の心が俯きやすくなる1つの原因なのかもしれませんね。 公園ですら今は規制が多いご時世。 腕白盛りの子供が思い切り走り回れる所は もう殆ど残っていないのかもしれません。 得たもの、失ったものが沢山あっての今なんですね。 >小学校低学年の頃は 駆けっこの記憶程度です >3~4年になってからは 凧揚げ 市販のやっこ凧 >5~6年になって ゴム動力飛行機を幾つか作って飛ばすように 成長と興味の変化を感じます。 こうした遊びの延長線上に プラモデルが広がり、ミニ四駆~ロボット玩具など 今へ発展して来る繋がり、遊びの心が有ったんですね。 新しいものが生まれ興味が集中し、どこかで何かが陰る。 しかしどこかでまた見直され静かに大切に楽しまれる。 暮らしが豊かになり出来る様になった遊びが形を変え続けた と考えると、もっと過去にまでそのルーツは遡れるんでしょう。 繋がった時代の中を生きている事を感じさせられます。 >親の目論見 色々な事情もあったんですね; 夢中になれる何かがある内は刺激を求め変な道へ踏み外さない そんな思惑もあったりしたのでしょうか。 現代のネット社会では見えないものが尚更に多くなった様な、 面と向かっては出来ない交流が盛んに出来る様になった様な、 変わらない想い、変わる暮らしを感じさせられます。 詳しいご回答ありがとうございました。 多くの興味を見つけられました。
戦前 チャンバラごっこ・戦争ごっこ・肝試し(六郷の鉄橋から飛び込んだこともあります)竹馬・缶けり・石蹴り・鬼ごっこ・かくれんぼ・こま回し(自分で作る)縄跳び・竹とんぼ(自分で作る)凧揚げ(自分で作る)水鉄砲(自分で作る)めんこ・べーゴマ。あやとりなど中学生から幼児まで一緒に遊び幼児は中学生が肩車して遊んで競い合い現代にない子供のコミニヶーション。 戦後 紙芝居・銭湯で映画のポスターについている(下のほうの三角部分の無料券)をもらって映画見に行きました見た映画は嵐かんの「鞍馬天狗」大河内伝次郎の「丹下左膳」など・・・ ターザンごっこ。
お礼
>戦前 物が溢れていない頃は、子供は子供なりに遊びを見つけて 本当にあれこれ様々に遊ぶものなんですね。 テレビゲーム黎明期でしたが、ど田舎の私達の遊びとかなり似ていました。 変わらないものも沢山あったんだなと思う反面、 私より若い世代、特に都市部はもう全てが違うんだろうなと感じました。 もっと子供達が自然に自由に幅広い年齢と関わりながら 遊び育つ事が出来たならと思ってしまいます。 >戦後 銭湯文化も興味深いなと思います。 そして無料券が有ったなんて知りませんでした。 時代時代の景色の移り変わりが沢山有ったんですね。 変わるもの、変わらないものがあるんですね。 ご回答、ありがとうございました。
>紙芝居屋があり、マンガ等の貸本屋?などが有り これは都会の市街地の現象じゃないかと思います。「三丁目の夕日」の世界ですね。 >映画館やパチンコ屋があった 存在しても子供(ひとりで)は入れませんよ 笑。 ぼくは田園地帯で育ったので,釣り。子供なので,ヘラブナ釣りのような高価な趣味ではありません。竹竿(市販の釣り竿ではありません)に凧糸をつけ,先端の針だけは買いましたね。エサは,ゴミ捨て場などを掘り返せばミミズがとれます。
お礼
私が聞いたのは市街地の話だったんですね。 >「三丁目の夕日」 私の知りたい事もその作品に描かれているのでしょうか。 >釣り 自作してエサも自力で調達して遊んでらしたんですね。 田舎の方の子供の遊びはあまり言われる程の変化は 起きていなかったのかもしれないんですね。 (少子化と過疎化で子供達が遊ぶ景色は消えてしまいましたが。) ご回答ありがとうございました。
お礼
>大人の娯楽と言えばラジオと映画くらいしかなかったのです そうだったのですね。 大人側はどうだったんだろうと気になっていたのでありがとうございます。 そうした時代を経て今の映画や俳優の世界があるんですね。 少し違うものが見えた気がします。 >紙芝居のおじさん >子供が集まる 現代ほど刺激に満ちていないから子供達も集まるのでしょうか。 内容よりも珍しいイベントに参加したい気持ちが多かったのか、 ともあれ今はもう見れない光景で、 実際の光景を見てみたかったです。 >町から町へと紙芝居で商売していたのでしょう なるほど、それで不定期だったんですね。 同じ時代に紙芝居のおじさんは北海道から九州まで居た となると何か原形になる文化でも有ったのでしょうか。 江戸時代の話にはあまりそういう事は聞かないとなると、 明治になって学校教育が普及して、鉄道や電気が広がり 戦後に至るまでの80年間の間に 何らかの形で日本の隅々に広がっていたのでしょうか。 更に気になるものです。 >「ばふんうに」 海が遠い所で育ったのですが、羨ましいです。 山を歩き回って生食できる木の実を食べる程度だったので。 >流氷に乗って遊んでおりました そんな体験、してみたかったです。 >行方不明になったと言う子供もおりませんでしたから 私も今考えるとかなり危ない事をして子供同士は遊んでましたが 日頃から大人達が何度も注意する言葉を誰かが思い出して 他の子に用心する様に伝え皆慎重になる時はなっていた気がします。 >「缶けり」「泥棒ごっこ」 私はテレビゲーム黎明期の田舎で育ちましたが、 難し過ぎて皆すぐ諦めて飽きて毎日そういう遊びになっていました。 今では過疎でその光景も無く寂しいものですが懐かしいです。 変わって行くもの、変わらないものを知る事が出来ました。 もっと沢山お話しを聞きたかったくらいです。 絶え間ない繋がりの中を私達は生きていると実感させられます。 ご回答ありがとうございました。