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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:キリスト教会の礼拝式の賛美について)

キリスト教会の礼拝式の賛美について

このQ&Aのポイント
  • キリスト教徒が教会で歌われる賛美に苦痛を感じる理由
  • キリスト教徒が教会で歌われる賛美についての意見を聞きたい
  • キリスト教徒が伝道活動をしにくい理由とは

質問者が選んだベストアンサー

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  • dust83ko
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回答No.5

一伝道者として回答させていただきます。 新しい歌を主に向かって歌え。 全地よ、主に向かって歌え。 主に向かって歌い、御名をたたえよ。 日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。(詩編96編) キリスト者が歌によって神を讃美をするのは、 それが神から「わたし」のみならず、「わたしたち」教会共同体/エクレシアへの求めだからです。 あなた個人の好き嫌いの感情など、神の前では脇へ置いて下さい。 (余談ですが、教会でよくある話で、聖歌は嫌いだとかリビングプレイズは嫌いだとか、 自分の好き嫌いを平気で口にする信徒がいますが、そういうのも間違いだと私は考えています。) それでも、どうしても讃美歌を否定するのならば、 讃美歌が不要であることを、神学的に述べられるようにすべきです。 旧・新約聖書を根拠にするのは不可能でしょうが、せめて論理的に説明すべきです。 仮にあなたが今後、家庭集会でも開くとします。 そこに出席した人が「讃美歌を歌いたい」と言い出したら、あなたはどうしますか? あなたはそこで、讃美歌を歌わない理由をきちんと伝えねばなりません。 好き嫌いの感情だけで讃美歌を語るのは、あまりにも幼稚で、説得力もありません。 また「好き嫌い」だけ言うならば、讃美歌が「好き」な人と諍いが起こるかもしれません。 教会では1世紀より、 讃美歌を神への讃美のためだけでなく 福音、信条を人々に端的に伝える手段としても用いてきました。 「福音のためなら何だってする」とパウロは言いました。 ならば、キリストを伝えるためなら讃美歌だって歌う、そう考えることはできないのでしょうか? あなたが嫌だと思っても、神が「しなさい」と言ったからする、それがキリスト者であるはずです。 あなたは「したくないことをやらざるを得ない恵み」をもっと求め、もっと知るべきです。 自分が知っている事だけを伝え、自分にとって心地良い事だけをするだけならば、 それは隣人不在の、自己満足な伝道でしかないでしょう。 あなたは狭い「あなた的聖書/福音理解」の枠を超えることはないでしょう。 本当は、他の方からのご回答にもあるように、 なぜ讃美歌がそこまで嫌いなのか、自分の内面と徹底的に向き合い、 嫌いだという感情を乗り越えることが必要なのではありませんか? しかし、恐らく(あなたの文章を読む限りは)今のあなたにはそれができないでいるのでしょう。 それは苦しいことだと思います。 きっとあなたの良心も痛んでいるのでしょう。 だからこそ >するともし私が人様を教会に導いたとすれば、 その人は私のことを「どうしたの」と思うはずです。 このように考えるのではないですか? しかし、自分の(そして他者の)「良心」を汚すことをしないのも、 キリスト者に求められる生き方ではないでしょうか。 もしもあなたが良心の呵責なしに讃美歌を歌わないでいられるならば、 そして、そのことで誰の良心も傷つけず、誰も躓かせないでいられるならば、 もしかしたら、それも一つのあり方なのかもしれませんが・・・・ 最後に、あなたは「無教会主義」とのことですが、 であれば当然、無教会の集会に出席されていることでしょう。 (そこでも讃美歌は歌われているはずですが・・・それは置いておいて) 一度、あなたの抱える讃美歌に関する問題を、 集会の指導者に相談されてみてはいかがでしょうか。 また、これから伝道を志していることを相談してみてはどうでしょうか。 伝道に必要な学びについてアドバイスがもらえるはずです。 因みに無教会主義では、このような学びの場を提供しています。 http://homepage3.nifty.com/mukyokai/index.html そのほかにも通信教育で学べる神学校などもあります。 私が行った神学校(海外)のクラスには、無教会主義の方がいました。 伝道(者)を志すのであれば、独りよがりな福音理解、聖書理解を避けるためにも 一定の学びは必要です。 あなた自身が抱える問題が整理/解決されること、 伝道の志を神がよしとして道を開いてくださることを 一言お祈りさせていただきます。

christ519
質問者

お礼

dust83koさま、ご回答感謝します。 私のために祈って下さったことも心からありがとうございます。 ただ、少し誤解されている部分があります。 dust83koさまだけにかかわらずですが、 私の質問の説明不足だったでしょうか。 ここは議論の場ではないので、 その誤解部分の説明だけをなるべく簡略してご案内して終わりとさせていただきます。 詳細はまたいつか補足として質問(お話)させて下さい。 1.神さまを賛美するのは神さまからエクレシアへの求めということは充分理解しております。 自分の好き嫌いの感情など脇へ置くのも解っております。 主に栄光を帰すために歌います。 2.讃美歌の否定はしておりません。不要などとも思っておらず、 現在、多くの教会で伝統的に歌われている聖歌、讃美歌、ゴスペル、新聖歌...etc みなさまが歌うのは自由ですし認めています。 ただ、dust83koさまのおっしゃる、 「したくないことをやらざるを得ない恵みをもっと求め、もっと知るべきです。」 とは具体的にどういうことですか? 私はイエスさまに出逢い、心の平安を得たと本文に書きました。 実はそればかりではなく、 人生を歩む上において辛いとき、苦しいとき、悲しいとき、困難な状況のとき、 そういう場合も、イエスさまに出逢う前とは180度違う対応ができるようになりました。したくないことが、少しずつですが、できるようになりました。 他にも、ボランティアなどにも行ったことがないのに、 大阪から石巻まで行きました。 苦しいことでも主に用いられていると思えるようになり、 辛いことにも感謝できるようになりました。以前の私なら考えられません。 その対応が完璧に正しいとは思いませんが、 とにかく、今は以前の私ではなく、 イエスさまと共に歩む新しい命を生きています。 以前の私なら確かに心地良い、自分とって都合の良い方を選んでいたでしょう。 3.自分の内面とも徹底的に向き合っております。 ノイローゼになるほど考えていますし、 いや、ここは死ぬか生きるか、 全くの孤独の極限下で自分の内面と向き合った経験があるので、 同じ経験をされた方以外に忠告されたくはないのですが、 「嫌いだという感情を乗り越えることが必要なのではありませんか?」とありましたが、 私は弱い限界のある人間です。 前述したように自分とって都合の良い方を選ぶのではなく、 少しずつですが嫌いなことや辛いこともできるようになりました。 しかし全て乗り越えられません。 それがこの讃美歌です。 なぜそんなに苦痛なのかのお話や理由は、 長くなるのでまたいつかにさせてもらいますが、 例えばもし、現在の讃美歌とその類いの曲のメロディーが「演歌調」だったらどうですか? 「パンク調」だったらどうですか。「AKB調」だったらどうですか? なるほど、「神さまが求めているんだったらそれでも歌うよ」 というのがキリスト者かもしれません。 しかし、私は歌いません。 dust83koさまは「好き嫌い」を幼稚と表現されました。 そもそも私の質問で「嫌い」などという感情を出したのは、 この場が厳密な質疑応答の場ではないという前提があったからですが、 物事には単純なことがあります。幼稚という表現は侮辱でしょう。 食べ物の好き嫌いに厳密な論理はありません。 異性になるタイプに理屈はありません。単純です。 私の「生理的に受け付けられない」という言葉は全然幼稚ではなく、 音楽というのは感じるものであり、理性と知性で計るものではない。 単純です。私の言葉は自然体の言葉であり、それ以外にありません。 もっと適切な言葉があれば教えていただきたいし、 それでも幼稚というのならばその通りと答えるしかないし、 この物事は音楽のことだから、好きか嫌いだけの単純なことだと思っています。 あともう一点付け加えさせて下さい。 無教会に加えて私は青野太潮先生の提唱する「聖書誤謬論」賛同者です。 「嫌いだという感情を乗り越えることが必要」というのにも限度があって良いという考え方で、 そんな弱い人間にも神の大きなゆるしがあるという考え方です。 掟を守らなければならない、嫌いなものも我慢しなくてはならない、 そんな考え方は、それこそイエスを十字架にかけた敬虔なふりをしたパリサイ人であり、律法主義の偽善者だという考え方です。 また、dust83koさまは 「教会では1世紀より~」と回答して下さいました。 讃美歌を神への賛美のためだけでなく、おっしゃるとおり、 福音、信条を人々に端的に伝える手段としても用いてきたことも存じております。 その歴史は大切なことです。しかし無教会主義は伝統や制度の枠を越える考え方です。 「1世紀より~」という言葉は、 dust83koさまが「歴史・伝統を重んじる」という表れですが、 無教会にとって、歴史や伝統や制度は全て二義的です。 洗礼も聖餐も行わないのはご存じかと思います。 カトリックはいくつかのサクラメントを行っていて、 プロテスタントはその内2つだけを残し、 無教会はそれさえも行わないというのもご存知かと思います。 なぜなら突き詰めると、キリストの福音にとってそれらは全て二義的だからです。 福音を音楽を使って用いたことに無理があったという考え方もあります。 (この部分だけは持論です。詩編にはおっしゃるように誉め歌えよと ありますが、前述したように誤謬論賛同者なので。聖書そのままの言葉が完全ではないという考え方なので。なぜなら、聖書のような素晴らしい最高の物語が大戦後、自由に宣教できるようになったのに、未だに1%というのも、現在のキリスト教の在り方に、なにがしか問題点があるという考えがあるからです。) 話が逸れていきました。 冒頭で、dust83koさまだけにかかわらず少し誤解されていると書きました。 無教会云々について質問したのではないからで、 讃美歌についての質問だからです。 最後に、家庭礼拝はほぼ毎日です。 一般の人はお断りさせてもらっています。 お祈りと聖書箇所の朗読、解釈の勉強、 そして私達が心の底から神さまに栄光を帰せて賛美できる楽曲のみで歌い、踊ります。 儀式的に手拍子したり、 体を動かしたりする賛美はいたしません。 なぜなら家庭集会であるし、無教会主義は、二義的なことにとらわれず、 本当に心からキリストの救いを分かち合え、 まさに家族のように、心も体も愛し合う者同士の集会が真の教会という考え方だからです。脇に置いとくだけで済ませません。 脇に置かなければならない理由を聞き、解決できるのであればその解決に協力します。 そして、たとえ千人が集まって慣習的、儀式的に讃美歌を歌ってもそれらは烏合の衆であり、鳴き声であり、そのような賛美は主に受け入れられないという解釈です。 無教会は3~4人規模の、 霊と真理において礼拝する家庭礼拝が日本全国に広まることを望んでいます。 したがいまして、もし一般の人の家庭集会参加を認めるとして、 讃美歌を歌いたいとおっしゃられたときは、 もちろん「嫌いだから」などの感情論で説明などするわけがありません。 前述の「千人が集まって~烏合の衆・・・無教会主義について」 という流れでその方に説明します。。。 ここまで説明を長くしないと伝わらないと思ったのでかなり長くなってしまいました。すみません。 「讃美歌が生理的に受け付けられない」 「だから教会へ行けない。」 という質問では不充分でしたね。。。 至って自然に質問したつもりなのですが。。。 dust83koさま、この度はありがとうございました。

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その他の回答 (4)

noname#185665
noname#185665
回答No.4

堅信までした段階で 教会へ行かなくなりました。 理由は ある日の日曜日 ある依存症の方でなんとか自力で直そうと頑張っている人を応援しようと ご近所さん全員で (ちょっと個人情報になるので詳しくかけませんが) みんなで ある援助をしてたんです。 その隣の教会で(私も参加) しゃなりしゃなりと着飾った信者さんたちが教会に集まり(ミサ) 歌った後 「神に感謝」という言葉とともに となりや前後の方にお辞儀 とたんに 気分が悪くなって もう、、、だめです。 カトリックの信者の方で とくに古くからの方たちは 秘跡 儀式 主義で 神父さま絶対信頼 自分たちは 「お祈り」しているから 「えらい」 というような選民思想 もう  ほんとうに 気分が悪くなって わたしは 教会にいかないで ボランティアで福祉活動することにしました。 それ以来ずっと行っていません。 でも神を信じています。 ただ 教会へ着飾って歌ったり讃美の言葉を言わないだけです。 布教についてですが 布教も宣教もする必要がないと思います。 わたしは 結果として2人 入信させたことになりました。 すごく辛かったみたいで 辛いときって 誰かに相談したくなるじゃないですか?弱音も吐きたい。 で そうゆう目でみて 私が目に入ったみたいで 言われた言葉は 「何か信じてるものがある? どこか貴方は違う」から始まって 最後は 「同じ洗礼名にしたい」とのことで わたしと同じ洗礼名で洗礼されました。 どんなに熱心に宣教しようと 結局は 苦しんでる人しか 光をこころから欲しないと思います。 なにも宣教しなくても 神様が 苦しんでいる人を連れてこられるし わたしたちは そうゆう人たちの ほんのちょっと先に入信しただけの(先輩?)差でしかありません。 宣教しようと意気込まないで ありのまま いつもウエルカムの気持ちで自然体でいれば 神様が連れてきてくださいます。 私たちは ただ心をひらいて両手を広げて待っていればいいのです。 最後になりましたが 貴方と同じ悩みを 神父さまにお聞きしました 答えは即答 「教会にこられる必要はありません。いつも神様はそばにおられますから。 ここは 心を平安にして神様とデートする場所です。でも教会じゃなくてもいつでもどこでもデートはできますから」 とのことでした。

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  • hhituji
  • ベストアンサー率30% (15/49)
回答No.3

あの、私もあまり人にこのようなアドバイスができる立場ではないのですが、だからこそ一言 宣教活動をしたいということでしょうか? あなたがやる必要はないのではないでしょうか? 大変僭越ながら、あなたはまず自分自身の問題を解決するのが先ではないですか? それは教会というものと、礼拝というものを自分でどう考えるかです。 「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」 マタイ18:20 これが教会の本質ではないでしょうか? また、礼拝ですが、私は神が一番喜ぶのはボランティアや宣教の前に「礼拝」だと思います。 まず「礼拝」が第一に来て、そのあとの使命は神自らが示されるでしょう。 「第一の戒めはこれである。『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの 主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛 せよ』」「第二はこれである。『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。』こ れより大事な戒めはほかにない」 マタイ22:37 ここで、第一と第二と書かれていますが、これは優劣はないのです。三位一体と同じで、 神を愛すること = 隣人を愛することなのです。 だが、ここで神を愛することが第一に来ています。ここが大切です。 これは、神と人間が正しい関係にあれば自然に人間と人間は正しい関係になるということであり、 神を愛することが第一に重要であることに変わりはないのです。 つまり、私たちが第一に優先することは礼拝だと私は思います。 宣教があなたのするべきことかどうかは私はわかりません。 大変僭越ながら。ちょっと気になったので。

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  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2724/5433)
回答No.2

HNで解かるように、私はマリア会で勉強し、堅信まで受けたカトリックです。しかし今。私はフリーです。 多くの人が、否、自称無教会派の人々も勘違いしているようですけれど、集団を作ったら無教会派ではありません。ただ、そこに教会が存在しないだけで、集団になり、誰かしらリーダーになればそれ自体が教会です。 無教会派の一部はイエズスは教会を持たなかったといますが、彼自身が教会であることを忘れています。 否、それ以前にイエスはキリスト教を立ち上げたわけではありません。かれは正当なユダヤ教を復活させようとしただけです。新しい解釈を示したわけではありません。正当なユダヤ教の解釈を進めただけです。 結局ユダヤ教は改善しようとしなかったからキリスト教が起ったのです。 イエスが最も嫌ったこと、それは司祭と権力の癒着ですが、結局キリスト教も権力と結び付き、その勢力下で歴史に残る大罪を犯してきたのです。 私は聖書解釈において神父と対立し、教会を出ました。また一部教会は博愛を伝えるどころか権力が人民と結託して人を傷つけることを善しとしています。事実私自身も某国教会の信者から殺人を示唆される脅しを受けました。それが現在のカトリックの限界でもあり現状でもあります。 無教会派は教会に行くことや集会を禁止してはいません。私は誰もいない教会で一人心の中を見つめることが好きです。好きな場所は上智大学の聖堂です。母校の聖堂は母親に抱かれている気がします。でもミサには出ません。私も聖歌(賛美歌)は好きじゃないんです。否正確にいえば、キリエなどいくつか好きなものもありますが、それは自分の心の発揚として自然に口から出てくるものです。 本題に入りましょう。 神との関係は、あくまでも個人的なものです。教会に行くから偉いわけでも、ミサに出るから天国に入れるわけではありません。実際、無実の市民を空爆するアメリカ大統領だってマフィアのボスだって教会にもミサにも行くんです。 神と自分はあくまでも個人的なつながりです。その個人的繋がりが数多くなるから集団としての正義が生まれるのです。 洗礼者ヨハネは洗礼を行いましたが、受洗者に何をしろとは言いません。イエスは弟子は取りましたが、それ以外の人について来いとは言いませんでした。教えを広めるというのは実践だけで充分なんです。 教会に連れて行く必要も無いし、その人の言動の責任を取る必要も無い。 誰かの名前で語れば、それは貴方の実践ではなく、誰かの実践でしかない。「聖書にこうある」「主はこうおっしゃった」といい続けているうちは、教えと自分が一体になっていない証拠です。イエスの教えは自分で受け取り、自分の名で実践するから価値があるのです。 真の無教会派であれば個人と神とのつながりを重視すべきであり、この世のすべての時間と場所が教会であるのですから建物は要らない、福音だけを伝えれば十分ということになるのです。それも伝えるだけで反応など気にする必要は全く無いのです。 そして福音に共鳴したものが自分の心に教会を立てる。それはまさに利休の茶室の如く、上下も左右も無く、神と自分が膝を突き合わせる教会です。 「貴方の言動は素晴らしい、きっと親御さんの躾けがよろしかったんでしょうね」といわれるような人になればいいんです。そうしたら「もちろんそういう環境に居れたのは親のお陰ですが、親の教育だけではありません。」と答えればいい。そして「ではどなたに教育されたのですか」と聞かれたら「私は主を信じていますから」と答えればいい。

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noname#180196
noname#180196
回答No.1

私もクリスチャンです(ちなみにプロテスタントです)子供の頃20歳くらいまで教会に行っていました。賛美に対しては苦痛は感じていませんでしたネ。何か精神的苦痛に感じる…と言っていましたが、何か原因があるのでしょうか?あの楽曲ではない方が良いというのは、確かに昔から歌われている歌なので仕方ない気もします…。 貴方の場合、歌を歌いたくない…あの歌がやだから行かない…という風にしかこの内容からは受けとれないのですが、そういう意味でとって宜しいのでしょうか? ただ、貴方はあの難しい聖書や牧師さんの話をきちんと理解していると聞いたのでそれは凄い!!と感じました。 私は、全て理解できていない…といまだに感じています。 私が教会に行かなくなったのは、色々な理由からですが、一番は皆、神様に対して礼拝していますが、同じクリスチャン同士では何かあった時に、その人を助ける(協力する)という事が、私の教会ではありませんでした。ただうわべだけのお付き合い…何かあっても『相手の家庭のことだから…』といいタッチしない。そんな感じでした。ただチラシをくばり、神様神様…言われても、私はその現状に納得いきませんでした。 でも、『自分がされて嫌な事は他人にしない』をモットーに生きてきました。両親が幼い頃からいなかった私は、今も悩み、教会へ再び行くべきか?悩む時もあります。 貴方も、今は考える時期に来ているのかと思います。 歌もどうしても歌いたくないのであれば、心の中で歌う…など、神様本人に自分が今どういう気持ちなのか?わかって頂ければ、前に進めるような気がしますよ★ 対したアドバイスではありませんが…頑張ってくださいネ★

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