概念がカテゴリーだけでなく、同時に実体をも表す場合
概念と実体の関係について知りたいことがあります。私の説明におかしな点があればご指摘をお願いします。
A: Water is a clear pure liquid.
B: I drank some water a few minutes ago.
C: I'd like water, not wine tonight.
D: Waiter, bring me water, quick!
Aではwaterの概念が、カテゴリーとして表現されています。すなわちこの世に存在するwaterすべてに適用される言説です。カテゴリーとして表現されるときはそのまま語彙として文中で使われます。又は、限定詞として不可視の冠詞がついていると考えても構いません。今回の議論では限定詞不要という言い方で一括しておきます。
Bではwaterの外延(実体)としてのsome waterが表現されています。some は実体であることを示すための限定詞です。限定詞はあるものに時間や空間の限定を与えるためのものです。ここでsome waterは一定量のwaterを表しています。
Cではwineではなくwaterをと言ってるわけだから、waterの概念がAと同じくカテゴリーとして表現されています。意味(論)的にはこの世に存在するwaterすべてを指しています。水であればどこで採取された水でもいいはずです。ところが、現実には(語用論的には)この世に存在するwaterすべてを表すわけではありません。レストランでの会話だとしたら、waterには店が提供できる量的な限界があるはずです。Cの発話を聞いた後、聞き手はたぶんa glass of waterかa jug of waterを持ってきてくれます。つまり、現実には(語用論的には)実体としての水をも指していることになります。
この場合、カテゴリーを表すわけだから限定詞は不要と考えられます。しかし、同時に、現実に実体としての水をも指しているのであれば限定詞のsomeが必要なはずです。これまでの説明が正しいとすれば、この相矛盾する事態は文法違反として扱われることになりますが、文法的の問題がないとするためには、この矛盾を解決するための何らかの解釈が必要とされます。
そこで、私なりに仮説を立ててみました。
<認知対象に空間的制約(例えば量の表現)を与える必要がないと感じられる場合は、カテゴリーであろうと実体であろうと限定詞は不要である。Dのwaterは実体であるが量を意識しない表現だということになります。
一方、認知対象に空間的制約を与える必要があると思われる場合は(はっきり量を意識する場合は)someを含む数量詞を使う。この場合はもちろん実体のみを表すことになります。Bのsomeはそのような発想で使われる限定詞です。
付言すると、waterは分割されることが想定されない水を、some waterは分割可能な(取り分けることが可能な)水だということになります。>
この考えでよろしいでしょうか?
Dは相当impolite(ネイティブはこういう指摘をする人が多いようです)な言い方に聞こえますが、実際にこのような使われ方を時々見聞きします。乱暴な言葉遣いをする人は平気でこういう文を使います。また、瀕死の重傷を負った人は丁寧な物言いをする余裕がないかも知れません。Give me water!あるいは単にWater (please)! と言うかもしれません。
限定詞がついていないということは、ここでのwaterはカテゴリーを表しているはずですが、文脈を考えるとそうではないようです。実体としての水を持ってこいと言っています。この世のwaterのすべてではなく、一部分のwaterを表すわけだからsomeがつくはずなのについていません。実体を表すものなのに限定詞がつけられていないわけですが、先ほど提示した仮説に立脚すれば一応の説明が可能です。Give me water!においては、実体としても水が要求されていると考えられますが、量を意識したものではないので限定詞は不要と言ってよさそうです。
だとすると、瀕死の重傷を負った人は丁寧な物言いをする余裕がないのではなくて、量を意識する余裕がないのではないかと思います。impoliteだとする説はたぶんに語用論的なものというか、少なくとも文法的には無視できるものであるような気がします。いかがでしょうか。
さらにこういうことも言えそうです。カテゴリーの全体ではなく部分を表す時、そのものはカテゴリーであると同時に実体でもあることも表しているわけですが、表現の重点がどちらに置かれるかは文脈(特に話者の気持ち)に依存するのではないかと思います。
同じことは抽象名詞の場合にも言えます。
E: Fear is the feeling that you have when you are frightened.
F: I feel some fear now.
G: I feel fear now, not anxiety.
H: I feel fear now. I'm so scared.
Eではfearの概念が、カテゴリーとして表現されています。カテゴリーとして表現されるときはそのまま語彙として、限定詞なしで文中で使われます。
Fではfearという概念に対する外延のすべてではなく一部分のfearが表されています。fearだけでなく、hopeやjusticeなど心の中でうごめくものは量的なものと見なされてsomeをつけることができます。
Gのfearは概念を表しているのでカテゴリーのすべてにあてはまるものです。ただし、現実に恐怖心を感じているわけだから実体としてのfearを感じてもいます。ただし、量的なものではあっても、具体的な量を意識したものではないので限定詞がつかないと言ってよさそうです。
ややこしいのはHです。文の内容を考えるに現実のfearをひしひしと感じているようです。実体としてのfearを表しています。Gと同じく、具体的な量を意識したものではないので限定詞がつかないと言えそうです。
ついでに、複数名詞の場合にも言及しておきます。
I: Jewels are sold at the jewelry store.
J:I bought some jewels at the jewelry store.
K: Bring me jewels, not money.
L: Bring me jewels. Be quick.
IのJewelsは概念に非常に近いものを表しています。この世の宝石すべてに当てはまります。Jでは、カテゴリーの一部を表されています。実物を表すので限定詞のsomeが使われています。
KとLでは宝石強盗が店に押し入った場面を想定しています。
KではIと同じくカテゴリーを表しているはずですが、現実には宝石店の宝石なのでカテゴリーの一部が表されているにすぎません。また、文脈から実物が要求されていると考えられますが限定詞はついていません。具体的な数量を意識したものではないので限定詞がつかないと言えそうです。
Lでは明らかに実体としての宝石が話題になっています。具体的な数量を意識したものではないので限定詞がつかないと言えそうです。いくらでもいいからとにかく持ってこい、と要求しているものと思われます。
この問題は、前回の質問に対する回答者の方のご意見とも関わっています。たしかヘレン・ケラーの次のような話を紹介して頂きました。<ヘレン・ケラーに、初めてwaterと言うときの唇の動きと現物の水との対応を教えようとしたサリバン先生のことが脳裡に浮かんだのです。きっとご存知と思いますが、ヘレンの頭から井戸水をザアザアかけながらサリバン先生がヘレンの手の指を自分の唇に当てて、"Water! Water, water, water! Water, water, waterrr!! .....">
-ヘレン・ケラーがモノにはすべて名前があることを知ったのはwaterのみずみずしさに触れた時だったはずです。Water! Water! と叫んだ時、waterは彼女にとってカテゴリーの名でもあったし、同時に手で触って確認できるみずみずしさや冷たさを感じさせる実体でもあったはずです。
<認知対象に空間的制約(例えば量の表現)を与える必要がないと感じられる場合は、カテゴリーであろうと実体であろうと限定詞は不要である。>という考えに依拠するとき、waterには限定詞は不必要です。いかがでしょうか?
お礼
今時の♀も怖いですよ~、安全ピンで刺青させられちゃいますよってに。