そうですね、わかりやすい身近な例でいえば、日常よく交わす「挨拶」というものがあります。
朝、会社や学校やご近所の人に会うたびに「おはようございます」とお互い挨拶を交わしている光景があります。
しかし、これらのほとんどが心から交わしていると思いますか?
朝は「おはよう」、夜は「こんばんは」、途中では、「お疲れ様」などなど、ほとんど習慣で行っていることが多いと思います。
こういうのを頭(観念)で言うというのです。
つまり、心がなくとも習慣(=こういう場合はこういう挨拶の言葉を言うのだと頭で考えた結果)として言えてしまうのです。
「挨拶はとりあえず形だけでも全くしないよりはましだ」という観念を頭で考えてしまったわけです。
あるいは、別の例では、謝る行為などもその典型ですね。
企業などが不正を行い、社会問題化した場合、すぐ謝ろうとしますが、これも観念です。
心では思っていなくとも「とりあえず、下手に出て平謝りしておいた方がいいだろう」・・・とこれまた頭で考えての謝罪行動となってしまいます。
つまり、心から謝っているのではなく、「謝っておいた方がいいだろう」という判断、即ち頭から出た言葉なのです。
心で生活する者からすれば、ありえない行動(何とも愚かな行動)にしか見えないのです。
謝罪というのは、頭で考えてからお膳立てしてチマチマやるものではなく、心の痛みを感じた瞬間にやるものです。やるというよりも、心から謝らずにはおれない心情が溢れてそうするのです。
頭で考えるような余裕などないのが心というものです。
挨拶や謝罪という簡単なテーマですら観念や習慣でしか行えないなら、その他の実に多岐に及ぶ生活全般に於いては、どれだけの人が悲しいかな頭で生活しているでしょうか。
頭に囚われていると言った方がいいかな・・・
頭で生活すればするほど、心が枯渇していくばかりだというのに!!
頭は誰にでも使えるのだから、もっともっと心を使わないとね。
言わんとすることが、少しはわかりましたでしょうか。
お礼
回答ありがとうございます。 「誠意」も「優しさ」も難しいものですよね。 私は迷惑ではなく、 相手の誠意を信じていましたが、「誠意」を口に出されたら信じられなくなりました。