• 締切済み

Polikarpovに関して

Polikarpov I-16 Type 10  1/48 を制作したくて、アカデミィとエデュアルドの2つを手に入れました。 日華事変当時の中国軍仕様にしたく思っておりますが塗装ならびに ディーテールの資料がなく困っています。キット制作の外国雑誌は手元にあるのですが、実機の資料が少なく困っています。(特に中国軍の物はありません) ネットでも一応調べてみたのですが、うまくいきませんでした。 (検索の仕方が悪いのでしょう) 資料の購入もありますが、ネットで資料を得る方法はないでしょうか? また、1/48の当時の中国軍用のデカールもどのようにしたら手に入るか、合わせて教えていただきたく思います。 実は先日、酒井三郎氏の「大空のサムライ」を読みままして、感じるところがあり氏の著書に登場する機体を作ろうと思いました。氏の書かれていることをより具体的に感じたく本機作成に至りました。現在B-17とB-25(共に1/48が箱の中)が組み立て待機中です。でもその前にP-39も作らねば・・・ しばらくはドイツ機制作はお休みです。 酒井氏へのリスペクトの意味もこめて、是非お教えください。 宜しくお願いします。

みんなの回答

  • Arado
  • ベストアンサー率53% (1199/2225)
回答No.2

ANo.1のAradoです。 非常に心和むお礼を頂き、感謝申し上げます。 まだ締め切られていなかったので、お礼を拝見し、またぞろ失礼致します。 >コルセアだけはどうしてもダメです 海軍機ですが・・・⇒ん~、そうですか! 何度も書いてはいますが、私も基本的には米機は好きではありませんが、コルセアは好きな機体です。と言うか、好きになってしまったと言うべきかもしれません。ハセガワが1/48キットの開発に本格的に乗り出した当初はビジネスジェット機を立て続けに3機発表し、記念すべきキットと思い、3機とも購入して完成させました。ビジネスジェットなんて全く興味はなかったのですが、ハセガワの1/48キットをコンプリートしてやる!と当時は意気込んでいたものでした。 その後、大戦機も開発されるようになり、零戦52型、紫電、震電なども発表されましたが、その中にF4U-4コルセアも含まれていました。コンプリート心がまだ続いている時期でしたし、勢いで購入してしまいました。所が、その後、仕事の関係で転勤となってしまい、全くプラモ作りが出来ない状況が約6年近く続きました。(その間も、プラモは買っていました。その当時、良く顔を出していたのが、以前紹介させて頂いた埼玉のお店です。)ただ、お盆や正月に帰省すると、プラモ作りたい病が疼きだし、何か作りたいと思って製作したのがこのコルセアで、完成まで6年かかった思い入れ深いキットになってしまいました。他にも勿論選択肢はあったのですが、塗装が簡単と言う理由からコルセアになってしまったように思います。その完成機は今でもケースの奥に鎮座しています。 >日本機には興味があまりないArado氏と思いますが⇒日本機ブームが起こったのはつい数年前です。ハセガワがどう言う訳か、それまでの沈黙を破って、一気に日本機の開発に乗り出したのです。それまで、日本機=零戦と言う事になっており、隼を見ても零戦、疾風や鐘軌、果ては飛燕ですら零戦と言う事になっていましたね。(雷電も然り!)今でもその風潮は残っているようですが、やはりちゃんとした機種名を覚えて欲しいものです。まぁ、それまでに日本機のキットにあまり出来の良いキットがなかったと言うのが本当の所かもしれませんが、決して日本機は嫌いと言うわけではありません。 紹介頂いたURLは拝見させて頂きました。 I-16に関しては、あまり参考になるような回答が出来ず、申し訳なく思っています。スケール的に興味がおありかどうかは分かりませんが、1/32キットも出ていますので、蛇足ながら付け加えさせて頂きます。(メーカー名は度忘れしました。東欧諸国のメーカーで、アズールだったように思うのですが、定かではありません。) 少々長くなってしまいましたが、今後もこのサイトでお会いできればと思っています。

wabizo
質問者

お礼

Aradoさん またぞろのお礼に感謝します。 この2日間大阪に行っていまして先ほど帰ってまいりました。 ほぼ野暮用で行っていたので、良いチャンスと思い大阪のプラモ屋を2件ほど訪ねました。 ネットで調べて「ホビーカンスケ」と雑誌でよく見かける「ホビーランド」に行ってきました。神戸の「ガネット」も行きたかったのですが時間がなく今回は見送りました。 「ホビーランド」は経営母体が変わったということでどんな感じかとおもっていましたが、店内は明るくパーツなどが豊富な感じでした。 店員もネット通販で忙しそうでしよ。 「ホビーカンスケ」は面白かったです。大阪の味噌屋がそのままプラモ屋になったみたいで・・・  秋葉原のレオナルドのような感じがあるのですが、しかし店の大将が大阪の人なのでで、ついてる値札からまたぞろ値引いてくれるのです・・・ 古い文林堂の資料なども300円から色々あってうれしく思いました。 結局資数冊とキット3つだけに抑えて帰ってきました。 たまたま前から欲しかったエデュアルドのMesser BF-108Bと前回の 貴氏のお話のP-400、その他です。 I-16ですが銀座の西山書店に在庫があるそうで今度行ってみようと思っています。(でもかなり高い5000円ぐらいだったような・・・・) 中華民国軍デカールに関してはやはり見つけられませんでした。いろんな店で聞くと「昔はあったんだけどねー」と言われ、いまさら何言っているのみたいな対応に驚きます。 今そのような仕上げをするのは流れから逸脱しているのでしょうか?仕様がないのでネットで画像を探しデカル印刷を試みようと思ってます。 英国からつき返されたP-400、ニューギニアでの第35戦闘大隊での機体を作りたいのですが、機マークはやはり中華民国軍なのでしょうか? P-40などは中華民国軍仕様(アリューシャンタイガー当時)も見受けられますが、エアコブラはどうだったのでしょうか? いつもオリが問うございます。

  • Arado
  • ベストアンサー率53% (1199/2225)
回答No.1

Polikarpov I-16 は私も好きな機体で、1/48でアカデミー(ホビークラフトの初版キット)の各タイプ、1/72でハセガワの各タイプのキットを購入(一部完成)しています。また、旧くはレベル1/72のキットもありますね。こちらも完成させています。(エデュアルドのキットは未購入。) さて、Type10(中国軍で使用された最後のタイプ)ですが、確かにType10を含め、I-16のまともな資料は無いに等しい状態です。私の手持ちの資料は今から30年ほど前に発行されていた「プロファイル」と言う資料だけです。ですので、ある程度はでっち上げるしかないでしょう。特にアカデミーのキットは各タイプを混同しているみたいで、風防の形がまるで違っていたりで、この部分を大幅に修正する必要があります。また、脚カバーもそのままでは取り付け出来ません。(新しいパッケージのキットでは改修されているのでしょうか?) 中国軍仕様のデカールはスーパースケール(マイクロスケール)から出ていますが、既に廃盤になっていますので、店頭在庫のみ状態です。(入手はかなり困難かと?)資料としては、スケールアビエーションのバックナンバーに図面が掲載されていた記憶があるのですが、残念ながら私の手持ちの中から見つける事は出来ませんでした。 参考になるかどうかは分かりませんが、1/144のレジンキットの完成写真がありますので、一応、URLを貼っておきます。中国軍の国籍マーク(青天白日でしたっけ?)はデカールを自作するとかで対処するしかなさそうですが、他のキット(レベル1/32P40アリューシャンタイガーなど)に入っている場合もありますので、それをスキャンして加工する方法もあります。 もし、ハセガワの1/72キットが入手出来るようでしたら、こちらのキットがかなり参考になると思いますので、購入をお薦めします。 さて、坂井三郎氏の「大空のサムライ」は、私が子供の頃に父からプレゼントされて読んだ事があります。(内容はかすかに覚えている程度ですが…。) 私は基本的に米機(特に陸軍機)は作りませんが、現在、P-400(ハセガワ1/48)を製作中です。P-39も購入していますので、いずれ製作しようと思っている。 あまり参考にならない回答で心苦しいのですが、ちょっとでも製作の参考になればと思い、書かせて頂きました。(参考意見とさせて頂きました。)

参考URL:
http://www.ms-plus.com/search.asp?id=19989
wabizo
質問者

お礼

Aradoさん いつも丁寧なご回答ありがとうございます。 アカデミーのキットの留意点などとても参考になりました。 ドイツ機中心の貴氏もやはりP-400には食手が出ますか、そうですよねー あの悲運のカツオブシはなんともいえない味がありますね。 設計といいスタイリングといい、特に車のドアみたいなコクピットといい、良い感じですね。飛行機って感じします。乾いたマットな塗装が良く似合う・・・・ グラマン サンダーボルドなんかとはちょっと違いますね。 でも今度、グラマンをどうして嫌いか1機作ってみようかとも思っていますが・・・(コルセアだけはどうしてもダメです 海軍機ですが・・・) きっと完成せずに終わりそうな気もします。 「大空のサムライ」をプレゼントされる父上、うーむ、かなり渋いですな。Arado氏の一面を感じさせていただきました。 これまで、私は日本機をはじめとするゼロ戦等あまり興味がありませんでしたが・・・(しかし雷電だけはなぜか好きでした) 日本機には興味があまりないArado氏と思いますが、先日YOU TUBEで面白いゼロ戦のPVを見つけました。私も思わずそこに感想を書いてしまったぐらいです。 もしよければご覧下さい。 http://jp.youtube.com/watch?v=ezOh51SzXo0&session=cRWAEByr9NxZrj47qkYKQuVkUaMmaKURGxhgUF-vBspGlXuES1krobrHOq-bXz3KNNXWpeXg9tFTymeh3LKP2vUXwKa1JnB2bvPu221-R0P2VzdeWOInozJvuQj4Jc4MjDd3K6ES7CALA_-640ENdP4Fw6c_scf-pF3ZcHv1DIXTX5ALgGoZv0edHgw9hpNBkQV1Q7c8B1sdulHhyycZZsThyLHxuB99LvhRKA7kP2DlNXAxVhHtGqXHIUlnku947bpJp-w7Csb52Jf4gQ6P7Cx8FG4M0f42 YOU TUBEの動画アドレスです。 製作者自身(?)のキット写真など織り交ぜながらも、かなりCOOLなPVですよ。 初心者モデラーの私などにはAradoさんの助言がとても励みになります。 ありがとうございます。

関連するQ&A

  • 大空のサムライの青年士官、浅井大尉

    どなたか、もしご存知でしたら教えてください。それは、大空のサムライに昭和17年2月に台南空の零戦隊がインドネシアのジャワ島のスラバヤを空襲した際、坂井三郎の中隊長だった浅井大尉が目の前で空中爆発したという事でした(20ミリ弾倉が自爆したのか?)。浅井大尉は、日華事変以来、勇敢に戦ってきた温厚でハンサムな青年士官で、絵と文章が上手かった人物らしく、昭和17年の雑誌、新女苑に「海南島の思い出」や「ホロ島の大晦日」などを絵も添えて投稿して載っていたそうなのです。これらの作品は、現在、目にする事は可能なのでしょうか?

  • 日露戦争当時の日本側軍用地の確保の仕方は?

    手元の書籍には現地の民家を買い取って司令部として用いる場面が出てきます。では、兵士の宿舎地の他、軍用地の確保は如何にしていましたか。旅順から奉天まで時々刻々戦場が移動したので広大な軍用地を必要としたのではないでしょうか。 正誤は不明ですが雑多な知識を羅列しておきます。 ・ 当時の日本軍は軍規が厳格に守られていた(らしい)。 ・ 当時の日本軍は国際法を厳格に守っていた(らしい)。 ・ 遼東半島はロシアの租借地で、このロシアとの交戦国は軍用地代を清に払うべきなのか?。国際法上、どうだったのか? 日本はどうしていたのか? 異説があるのを承知の上で自説を述べるときは、自説の根拠となる資料名の提示もお願いします。 知識がないので実際に即した例を作れないのですが、 例1 用地は清国民から適正価格で買い取っていたという説があるが、実は収奪していた。 例2 用地は清国民から収奪していたという説があるが、実は適正価格で買い取っていた。 仮にの話ですが、例1、例2などを主張するときは自説の裏付けとなる資料名を挙げて下さいませ。無用な水掛け論の防止策です。 よろしくお願いします。

  • 第二次大戦でのドイツと中国との関係

    3年前に読んだある雑誌の抜書きですが、ずっと気にかかっています。 中国を支援していたドイツ。日本が支那軍(原文のまま)から分捕ったピストルから戦車までほとんどすべてドイツ製。上海事変ではドイツの最新兵器に苦しめられる。日本はいったい何を見ていたのか疑問。 そこで教えて頂きたいのですが、 1. ドイツは日中戦争をどのように見ていたのでしょうか。 2. 当時、ドイツは中国に武器を輸出していたのでしょうか。 よろしくお願いします。

  • ジオラマで、「坂井三郎、奇跡の生還」というテーマで製作を考えています

    ジオラマで、「坂井三郎、奇跡の生還」というテーマで製作を考えています ガダルカナル島での負傷の後、片眼を失明して、出血の中、本能で帰ってきて、ラバウルに着陸後、ぐったりしてて、整備員やパイロットたちが駆け寄る感じで キャノピーに血しぶき入れて、あとは、「大空のサムライ」から、負傷箇所を割り出して、とここまではよかったのですが、肝心の乗機である零戦が、はたして21型だったのか、それ以外だったのかがわからず、キットの選定に難航しています 時期的に、32とか22とか、出てきてた時期だったと思うし……52はまだだったと記憶していますが、資料をいろいろさぐってもなかなか見つからず…… どなたか、詳しい方で、当時の坂井氏の乗機が、どの零戦だったのか、ご存じあるかたはおられますでしょうか

  • 南京大虐殺再び

    ■【コラム】南京事件の1次資料と3次資料 http://www.d3b.jp/npcolumn/4435 これって、日本人なら、南京城の安全区から、逃げる中国兵を中国軍が虐殺したのが事件の発端なのに、なんで朝日新聞の嘘報道が真しやかにいわれるのでしょうか?

  • 南京事件について語る国民党軍少尉の謎

    <「南京大虐殺は自分たちがやった」と告白した国民党少尉> http://ameblo.jp/daily-china/entry-11415804641.html http://japan-plus.net/299/ 以上の内容を踏まえて質問です。 (1)この話が本当なら、南京事件が起きる前に、中国軍は列車で逃げたことになりますが、中国人または中国軍が列車で逃げたという資料はこれ以外にありますか? (2)この話が本当なら、線路付近に大量の銃殺死体があったはずですが、そういった資料はありますか? (3)この話が本当なら、外祖父が九江で脱走しているので、中国軍は南西方向に逃げたと推測されます。また、外祖父は南京城から撤退したと言っているので、虐殺は城外で行われたと推測できます。 以上の2点より虐殺は中華門・雨花台のあたりで起きていたと思われますが、中華門・雨花台あたりの死体の資料や虐殺の資料はありますか? 以上は他サイトで投稿されていた質問ですが、思うところがあり、私の方からこちらで質問させていただこうと思います。 せっかくなので付け加えますけど この話が本当なら、1937年の日本軍による南京攻略戦当時、南京周辺の鉄道は一応運行が出来ていたことになります。 そんなことがあり得るのでしょうか? 日本軍は包囲殲滅戦を行っており、実際に江南県城を占領し、中国軍の渡河撤退を阻止しています。 第12航空隊、第13航空隊は「中国軍が汽船で南京を脱出中」との情報を得て汽船の爆撃を行い、結果として「パナイ号事件」を起こしています。 中国軍が鉄道での撤退を行おうとしたのであれば、当然日本軍も阻止のための行動を起こすはずですが、そんな記録はありません。 この開国少尉の話は、どう考えてもおかしいのではないでしょうか?

  • 満州事変 どちらの記載が本当なのでしょうか?

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E5%AD%A6%E8%89%AF 満州事変 張学良 1931年に入ると満州でも左派勢力に煽られた抗日運動が活発化し関東軍や在満 邦人の強い反発をかっていた。関東軍が満州への武力侵攻を決め、軍を続々と 集結させているときはいつもの軍事演習だと思い、何の対策も取らなかったと 言う。満州事変が勃発した時、彼は北京にいたが、日本軍侵攻の報告を受ける と日本軍への不抵抗を指示した。応戦すれば日本の挑発に乗ることになると判 断したことや平和解決を望んだということ、日本にとって国際的な非難を浴び るなど好ましくない結果をもたらすだろうと考えたということを当人はNHKの取 材で述べている。 とあります。また・・・ http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/37350760.html 満州事変は関東軍の暴走ではない。関東軍は、満鉄の守備など日本の権益 を守る警察の任務を担っていた。 1万人の警察(関東軍)が、日本権益を侵 害していた30万人の武装盗賊(張学良軍)を追放するには、柳条湖事件の ような作戦が必要だった。したがって、日本政府は、事後であっても、関 東軍の警察行動を承認した。決して関東軍の暴走ではない。次に、満州の 武装盗賊を追放したのは関東軍(警察)だが、満州国を建国したのは日本 ではなく溥儀をはじめとする満州人たちだった。 とあります。がどちらが本当なのでしょうか? 武装盗賊が左派勢力なのかどうか分かりませんが、彼らは ただの「小競り合い」をしていたのでは・・・?? 軍隊を越境させたわけではないのでは・・・? 私は、満州事変は、侵略とはまでは言えないと思っています。 パリ不戦条約は事実上法的有効性が薄いと思うし、主権国家への 攻撃ではないので・・・ けど、林銑十郎越境将軍の独断による軍の国境越えは やはり、暴走とまではいかなくても、 とがめられてしかるべきで軍の独断による越境であり、 自衛でもないと思うのですが・・・ また、満州国を建国したのは溥儀等であっても そのような傀儡政権を創らせたのは、日本人なのではないか? 当時の戦略からして現地人に国を創らせた方が、上手に侵入できることは 当然であっただろうから・・

  • 中国 防空識別圏 掌握 瞬時に判るの? 

    中国が、東シナ海に防空識別圏を設定しました。先日は、アメリカのB52爆撃機が、その次には韓国機が、そして日本の空自までもが、中国を一切無視する形で防空圏内を飛行したようですが、これに対し、中国側は、詳細は明かさないものの『すべて掌握している』との事ですが、そんなにすぐに、どこの国の、どういった航空機(民間機か、軍用機か)か、すぐに判るものなのでしょうか?それとも、何かが侵入して来た程度のモノで、そこまで把握するには、やはり一度は、自国の偵察機なり、何なりで確認しなければ、わからないのでしょうか?これですと、かなりの頻度で出撃する事になり、燃料もバカにはならないでしょうし、やっぱり、現段階で中国軍のレベルを遥かに越えた、自惚れた発言であり、言うべき時期では無かったのではないでしょうか?

  • 韓国の強制連行の証拠というのは洗脳戦犯の証言だった

    ■"일본군, 위안부 살해 인육 먹었다"…日전범 자백서 http://www.newsis.com/ar_detail/view.html?ar_id= … 以下翻訳 ■"日本軍、慰安婦殺害人肉食べた"…日本モデル自白書 【ソウル=ニューシス】文芸性記者=中国が抗日戦争勝利記念日である3日を前後で日本慰安婦強制連行など日帝侵略証拠になるモデル自白書を電撃公開した中で日本軍が慰安婦を殺害してその人肉を食べたという衝撃的な証言が明らかになった。 4日中国神話王によれば中国、遼寧省社会科学規画(発展)基金(社会科学規劃)事務室は最近公開した8人の生存モデル自白書にこのような内容が含まれた。 この機関の研究員が昨年7月日本に直接行ってインタビューなど資料を収集して整理してきたと伝えられた。 8人のモデル戦犯のうち石渡石渡毅は日本軍第59師団54旅団の仮病で参戦して去る1945年ソ連軍に逮捕された。 1950年ソ連軍で中国軍に引き渡したし、遼寧省撫順モデル収容所に送られた後、1956年赦免を受けて日本に戻った。 収容所の教化プログラムを通じて彼は自身の罪を深く反省して親中要人に変わったし、日本で'帰還者連合'の常務委員などで両国交流のために活動してきたことが分かった。 中国言論はタケシとともに教化過程を経て赦免受けた更正戦犯を'前モデル'と呼んだ。 タケシは自身が30人の身柄に刃物で生きた人間を刺して殺すように教育をしながら4人の中国人を殺害したし、生かしてほしいと哀願する10台少年も殺したなど自身の犯行を明らかにした。 合わせて当時日本軍に捕えられた中国女性捕虜1人は強制的に日本下士官の慰安婦になったし、以後日本軍食糧供給が難しくなるとすぐに下士官はこの女性を殺害して人肉をゆでた後肉のスープだと中舌前重大隊員が共に食べたと伝えた。 当初重大院は人肉を食べたのに関連してうわさだと知っていたが後ほど当事者がモデル収容所でこうしたことを事実だと自白したと彼は付け加えた。 タケシはまた、日本軍が中国人を殺害して、女性を性暴行する事件は当時日常的なことであったし、日本軍が統制する'治安区'には慰安所がたくさん設置されていたが韓国と中国女性が慰安所に閉じ込められて過ごしたと伝えた。 例で自身の軍部隊が所属した地域の山東省済南時にある軍人クラブでは日本軍人は軍用物品を買って売ることができるだけでなく慰安婦に会うこともできたと説明した。 彼はまた、中国政府と国民は日本軍モデルが故国に戻れるようにしたがこのような容赦を施すこと自体が奇跡としながらこのために私たちのようなモデルは平和と定義のために戦う人になることができたと付け加えた。 ------------------------------------------------- 吉田清治同様に、このような洗脳された戦犯の証言に、なんら証拠価値もないのに、韓国はこんなの引っ張り出して来ましたけど、この裏は取れているのでしょうか? だいたい、こいつがカニパリだったとして、日本軍のせいになるんですか? こいつにインタビューするんだったら、こいつを直に訴えたら?と思うんですけど・・・

  • 蘆溝橋事件について質問です。

    蘆溝橋事件について質問です。 昭和12(1937)年7月7日午後10時40分、日本軍の支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊第八中隊が、中国の北平市(現、北京市)郊外にある蘆溝橋の北側の永定河左岸荒無地で夜間演習を実施した後、休憩中に突如、河畔堤防の龍王廟付近より数発の実弾射撃を受けました。いわゆる蘆溝橋事件(中国名、七七事変)の始まりです。この事件が拡大して泥沼の支那事変(日中戦争)となりました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A7%E6%BA%9D%E6%A9%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6 この蘆溝橋事件の始まりについて、以前、次のような記事を読みました。 「・・夜間演習をしていて10時半頃に休めの命令が出た。我々は、やれやれと言いつつ一服していたら、わが中隊の陣地で誰かがカタカタと空砲を撃つ音が聞こえた。休憩時間なのだがと訝っていると、一度ならず数度、空砲が聞こえた。すると、それが合図であったかのように龍王廟付近より数発の実弾射撃を受けたので驚いた・・」 という記事なのですが、休憩時間中に日本軍の誰かが空砲を撃ったというのは本当なのでしょうか。そういう事実はありますか。