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今後の人生に全く希望が持てません。長文です。
私は大学三年生のものですが今後の人生に全く希望が持てないんです。 本当です。 就職活動中で、それが上手く行かないと言うのもあるんですがそれだけじゃないんです。 正直ある程度の大学・外見ではあるので選り好みしなければまあ就職は出来ると思います。 でも就職しても絶対に周囲から浮いてしまうのは分かりきっています。 就活するにあたり自分がいかに空っぽな人間かということに気づいたのがきっかけです。 大学時代何もしてきませんでした。 友達も増えなければ、勉強もしていません。 出来る限り授業をサボり、アルバイトをしてお金を稼ぐことだけに精を出していました。アルバイト先でも浮いてしまいます。 相手から定期的に連絡をくれるような友達は一人もいません。 いい感じになる男の人は格好良くて人間できている感じの人が多いのですが、いつも最初は相手が積極的でも、結局何にもなく終わってしまいます。 私に中身のなさに呆れ(実際に言われたことあります)、そのような人たちには私なんかよりずっときれいで人間力のある人がいるのに気づいたからだと思います。 大抵の人(いい感じになる男性や、短気な関係でしかないであろう人、自分以上に可笑しい人以外)に対し、すごく壁を作ってしまう傾向がありつれない印象を与えてしまうようなんですがと思いますが、大抵のひとが本当は怖くてしょうがないから壁を作ってしまうのでどうしようもありません。 結婚は出来ないだろうし、職場でも辛い立場になりそうだし、今後全く幸せになれる気がしません。 現在は若いからまだ良くても、今後年をとったら全く誰も相手にして切れなくなりそうで怖いです。 本当に好きなのはペットの犬だけです。 それしか私にはいません もうどうすればいいか分かりません。 本当なんです。 お願いします、励ましなど入らないので具体的な アドバイスを下さい。
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見てないと思っても書く人です。どちらでもいい気がするし、その気がある人ならば何をしなくても何かを探ろうと自分から進んでするであろうし、止まろうとする人は何かしているようで、やはり何もしていないものだから。 人格障害でも、自己愛とかでも、何でも、共生だと感じるのですよね。それら自分の内に有る問題と感じているものと如何に共生を図れるかだと感じるのです。 今、社会はパーソナルに篭れるし、篭る人が増えているため、社会にあって求められる他者との共生感覚というものを感じて身に付ける機会を得難いですが、その共生感覚と、自分の内に有ると感じる問題の数々との共生感覚は同じようなものであるのですよね。 社会の共生感覚も,他者との共生であり、自分の内に有ると感じる問題の数々とに求められる共生の感覚も、それら問題が有るのは他者という感覚を開けていないからとも言える部分があり、その他者という感覚を開くと言うのは、それすなわち、共生を求めるとも言えるでしょうし、まぁ、問題と感じる様々と共にどのように折り合いを付けて生きるかというのも共生ですから。 というヒントになりそうなものを置いて行こうと思いました。 何事もそうですが、自分の内にあるものを探りに行き、問うてみないことには、何も始まらないものであるものです。 病や人格障害は、治療的な面があり、現実に対応できない今の自分を”今”から自分を守るための逃避行動とも言える面があり、また、その限定的な悪環境に身を置くことから人間としての要素を学んで行く試練のような機能も果たすとも言えるのですよね。 と、私の経験と、また、他の同じような感慨や知見を持たれている方々の話をもとに書いてみました。
- wa-ffuru
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ある程度の大学・外見なら自分が少し努力をしたら 何でもできるんではないでしょか? まだ20歳そこそこなら空っぽな人間だらけだと思いますが。 それに、もし空っぽな人間だとしても中身を詰め込む時間は腐るほどありますよ。 いくつになっても空っぽな人間でそれにすら気付かない人もいると思いますから、これから絶対に変われます。 友達は自分が努力すれば増えると思います。 私はlovbeticoさんみたいに容姿も頭もよくありませんが 努力をしたら友達は増えました。 努力をしなければいつも浮いています。 人を寄せ付ける雰囲気を持っている人が羨ましいです。 でも自分にはないとわかるからできるだけ努力する。 何に対しても待っているのではなく 自分からを心掛ければいい方向に変わっていくと思います。 自分からっていうのは無理してしているとしんどいものですが。 私も大概の友達には自分からメールしてますよ。 自分から連絡しても連絡をくれるならいいと思います。 アドバイスになっているか分からないような文章ですいません。
お礼
回答ありがとうございます。 回答拝見していてwa-ffuruさんは努力家でとっても優しい人なんだと感じました。 wa-ffuruさんみたいな方ならお友達がいらっしゃるのは納得です。 そのような性格で羨ましいです。 励ましの言葉どうもありがとうございました。 上手く表現できませんがwa-ffuruさんから御意見戴けて嬉しかったです。
辛さと苦しさと悲しみを負ったまま、辛さと苦しさと悲しみの向こう側の世界に踏み出すことができるのですよね。あなたはその向こう側の世界を見たことがあるでしょうか。 生きるも死ぬも表裏一体ですから、死に囚われるだけでなく、生にも囚われれば良いのではないでしょうか。 私の心は今にも潰れてしまいそうでもありますが、同時にこれからも生き続けようとして脈打っています。 私はあなたにある困難を、また、人と違うと言われる部分を目にしたことは無いですから、それがどんなものかはわかりません。でも、それはあなたに限らないのですよね。皆、皆なりに抱えている困難があり、それを知る人はほとんどいないという状況を生きているのです。困難の大小はあれど、そこにおいては皆同じなのです。 生きるということの意味をもっと深く感じられるよう、生きるということの芯にあるものを感じてみられるよう、日々を絶え間なく歩んでいってみてはどうでしょうか。 困難があって始めて見えるものもあり、苦労をしないと見えないものもある。 私も自分をなかなか信じられずに苦しんでいますが、自分が地獄のような日々の中、この30数年間で薄皮を一枚一枚重ねるようにして積み重ねてきたものは信じられるのです。 自己不信に苦しむ人間にほど、生き方を問うことが必要なのだと思うのですよね。 伝わりますでしょうか。 私を信じられないかもしれませんが、でも、それもそれで良いのですよね。己に問うことが大事なのですから。
お礼
回答ありがとうございます。 私にはkumosukeさんが良くわからないと言いましたが、それはきっとkumosukeさんが1と0の両方を行き来しているからなんだと思います。 私は自分が絶好調のほんの一時以外はいつも辛さと苦しさと悲しみとかを感じてはいますが、それを直視はしていないのではないかと思います。 だからその向こう側にも行けないと。 生に囚われるといってもこれから醜く惨めになる一方に生活において希望なんてあるのでしょうか。 しかし、わたしには死ぬ勇気は無いと思います。 私は「今」の連続の世界には生けていきますが、これからもふくめた現在というものにどう対応すればいいのか、むしろ対応できなそうです。 どうすればいいのか本当に分かりません。 なんで苦しくても他者に優しく(私なんかに必死にアドバイスをくれたり)余裕を持って生きていけるのですか。 死にきれなかったからとかではなくもっと深い意味で伺いたいです。kumosukeさんは「今」を連続して生きているのですか、それとも未来や過去も全て含めその一部としての現在を受け止めてそれでもいきているのですか。 他の人たちにも程度の差はあれ人には見せられないような困難があることは分かります。 しかし、その人たちはそれを自分の中にある数個の欠点として認識していて、それを自分全体の問題としては悩んでいるわけではないのではないでしょうか。 またけして恵まれているようには見えないのに幸せそうな人をみるととても苦しくなります。 なんで貧乏なのに、なんで醜いのに、なんで馬鹿なのに、明るく幸せそうに生きていけるのか分からないし、そういう人たちを見ると本当に苦しくなるんです。 嫉妬とかもあるのかもしれませんが、それについては良く分かりません。 本当に苦しいって感じなんです。 また、私はkumosukeさんの仰る生き方や生きることについての御意見も理解は出来ます。 しかし本当に納得、というよりは実感できないのです。 私にはまだやっていないことがいっぱいあるのは分かります。 でも自分なりに自分についてや生き方について考えてもきましたし、そのような分野の本も読んできました。 しかし、やはり理解は出来ますがそれだけなんです。 どういえばいいのか分かりませんがきっとkumosukeさんはいい人だと思います。 なのにごめんなさい。 丁寧な回答どうもありがとうございました。
今もこれを見ているか、わかりませんが、一つ残します。 不世出の天才心理療法家と呼ばれるミルトン・エリクソンについて書かれた本である、”アンコモン・セラピー ミルトン ミルトン・エリクソンのひらいた世界”(ジェイ・ヘイリー著 二瓶社)からの一文です。 ---------------------- 催眠でよく遭遇する問題の一つは協調的過ぎる被催眠者である。被催眠者があまりにも早く全ての支持に従うことがあるが-時には指示を全て予期していることがある-いったい起こるべきことの責任は誰にあるのかわからなくなることがある。このような被催眠者はある時点で協調的であることをやめ、「私はこれが効くとは思えない」と言うことがよくある。 --------------------- 似ていますよね、この状況。実は私の過去の経験においても、あなたのような形を辿ったことは多々あったのです。 もちろん、この本にはこの先もあるのですが、この事例を以ってしても、あなたがこれからも自己において探って行けること、探って行ける可能性が多くあることにお気付きになられないでしょうか? ミルトン・エリクソンをまねれば、突風吹きすさぶ荒野に、その突風に唯一本のみにして抗うようにして有る木がある感じでしょうか・・・。 まねられているとは思えないけれどもね。 -物事をいつも難しくしているのは自分たち自身であり、自分自身である- 混乱と困難を愛してみるのも、良いですよね。
お礼
回答ありがとうございます。 エリクソンの事例ですが、私の対他者のたいていの関係に非常に似ていると思います。 しかし、私のそのような態度に問題があるのは分かりますが、相手に問題が全く無ければ相手を急に否定すると言うことも無いと思うのですが。 生きとし生けるものである限り、どんな聖人であれ欠点が無いと言うことはありえないとは思いますが、それにしても私には耐えられないような物であるとその場では強く感じてしまいます。 そのような自分を後悔することはよくありますが直りません。 本当にkumosukeさんと話していると凄く混乱してきます。 それにも関係していると思います。 私は他者からも自分の評価について1か0で受けていると感じているからこうなってしまうんだと思います。 しかし、それ以外の世界を信じることが出来ないんです。 最近本当に自分は幸せになれないだろうと切に感じます。 もうどうすればいいか分かりません。 ありがとうございました。
これを伝えたいというのは、私の方に有るエゴだったのかもしれません。 私の経験からなる考えは、このような感じになります。 参考になるも、ならないも、どちらでも良いかなと、今では思えます。 私は私の業と自分で向き合っていこうと思っています。周りから力を分けてもらいながら、です。 あなたの人生にも順風が吹かれる事を。 では。
いや、あなたの判断を待たずに載せてしまおうと思います。どうも、あなたはご自分の予測曲線状にあるものしか受け入れようとしない傾向がありますので、載せておいて、後付で考えてもらって、伝わらないのなら、諦めるしかないか、来る時が来るのを待って、頭の中に貯めて置いてもらおうと思います。 まことに勝手で申し訳ない。 では、以下になります。 - http://blog.tatsuru.com/2008/05/09_1356.php 内田樹の研究所 2008.05.09”またまたインタビュー” より 以下、引用文。 > 「悪人正機」の説というのがある。 > 「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」 > 人間が悪行をなすのは「さあ、これから悪事をやるぞ」という自己決定によるわけではない。 > 仮に「悪人になるぞ」と自己決定したとしても、そういう非倫理的な自己決定ができるということ自体、ご本人の人間のつくりが相当歪んでいるということであり、そういう「根本的に歪んだ人間」に自己決定によってなることはできない。 > おおかたは遺伝子のせいか、育成環境のせいである。 > 気がついたらいつのまにか悪事を働いていた。悪人になる気はなかったのに、気がつけば極悪非道・・・というのが悪人である。 > つまり、悪人というのは「文脈依存的」な存在なのである。 > どうして自分がこんな人間であるのか、どうして自分はこんな言動をしてしまうのか、自分では説明することができないという根源的な被投性(レヴィナスのいう「始原の遅れ」initial apres-coup)が悪人の「悪人性」を根源的に規定している。 > 悪人自身もそのことはわかっているので、自分が悪人である所以をしばしば「自分以外のもののせい」にする。 > 「こんな私に誰がした」 > というわけである。 と、 > 「悪人正機」とは悪人は自分の邪悪なるありようを自分では基礎づけることができない(というか「したくない」)という傾向を肯定的に評価したものである。 > 宗教学の専門家はどうおっしゃるか知らないけれど、私は勝手にそう思っている。 から、 ”悪人”を”人格障害”と置き換えられるものでしょう。つまり、人格障害というネーミングを果たす事により、”自分以外のもののせい”と規定する事が行われ、そうする事のよって”自分自身の今有る姿”と、”自分の向かいたい方向性”の間に有る”相克”を無きものとすることが可能となるのです。わかり易いように繋げて言えば、そうすることによって、自分への批評性や否定性というものへの直視から逃れることができる、という安堵感を得られるわけです。私はこういう人たちをたくさん見て来たし、話して来ました。 ですが、この内田樹氏の書かれた”悪人”の文脈からも察せられるように、その方向性では”文脈依存として有る”しかないわけであり、それはつまり、自分に有る悪性(人格障害で言えば、問題性)とは正対出来ない事を意味しているのです。 この内田樹氏の思いは、私の思いと非常に似通っています。 > しかるに、善人は自分が善良であることを「他人のせい」にあまりしない。 > 「親に愛され、友人に恵まれ、同僚から信頼され、弟子たちから敬慕されているので、『こんな善い人』になりました」というような文脈依存的善人をカムアウトするひとに私は会ったことがない。 > たいていの善人は「私が善人であるのは、自己努力の成果である」と言う。 > 言わないまでもそう思っている。 > 「自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころのかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず」と『歎異抄』にはあるが、私はその条をそう解釈したい。 > 自分自身の善性をおのれ自身で基礎づけたと思っている人は「おのれの理解を超えた文脈」を必要としない。 > なにしろ「善い人」なんだから。 > これが善人の陥りがちな「自力作善」というピットフォールである。 から、 この善人観に見られるものは、あなたに見られる”自分の善性への強い信頼”の成立背景がこの形であると感じているのです。 つまり、あなたの善性観は常に彼ら自身によって規定されていますが、それは、あなたが”善性とは、自身によってのみ形成されるものである”という強い観念が固定化されているからでしょう。つまり、内田樹氏の言うところの”「自力作善」というピットフォールに陥っている”ということになります。 再引用すれば、 > 「自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころのかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず」と『歎異抄』にはあるが、私はその条をそう解釈したい。 この”弥陀の本願に非ず”が”弥陀の本願”と適うように転じれば、それは”善性”と言えるのであるのですが、それは何によって、どのように成されるかというと、”人への他力を恃む心の欠けたる間”が”人への他力を恃めるような心”と成るように転じれば、”善性”へと成るのです。 注:理解し易いように、本文を漢字交じりと変えました。 私は、私の善性が自分自身の力によってのみ成ったとは思っていません。また、私が30を過ぎて愛を始めて己の内に見出せたことも、悲しみを10年ぶりぐらいに取り戻せたのも、己の力のよってのみ成ったとは思っていません。 私がそれらを認知出来るようになったのは、まぎれもなく、私がそこへ想いを傾け必死になっている姿を、周りの人々が小さく小さく拾い上げてくれ、小さく小さく評価してくれたり、小さく小さく声をかけてくれるようになったり、小さく小さく親しみを感じてくれるようになったこと諸々の、長年の積み重ねによると感じています。 己の評価は、他人によって成るものが大半であるのです。 これにより、あなたが幾つかの気付きを得られることを願います。 - です。 あなたがこれを受け止められないとなるのならば、ブレイクスルーは期待できないでしょう。ただし、保留しておいて、いつでも再考しようという構えを持たれたら、それはいつか期待できるでしょう。 考えるだけでなく、感じることがブレイクスルーの糸口なのです。そこには身体性、つまり、身体論が欠かせないのです。 また、お騒がせしてすいません。 追記:ブログにもほとんど同文を載せましたが、悪しからずにお願いします。
お礼
回答どうもありがとうございます。 私はkumosukeさん(こう呼ばしていただいてよろしいでしょうか)が回答を止めるといってまた回答をつけてくださったのに気づいてはいましたが、正直どう対応すればいいか戸惑っていました。 しかし、せっかく書いてくださったのでお礼をしたいと思い、大変遅くはなりましたがお礼を投稿させて頂きました。 わたし内田樹さんやkumosukeさんの仰る悪人説・善人説理解は出来ましたが、kumosukeさんが何が言いたいのかは分かることは分かりますが納得は出来ません。 じゃあどうすればいいのか全く分かりません。 おそらく他者との関係性とか仰ることは予想はつきますが、kumosukeさんのお話を聞いていると混乱してきます。 正直、私は他者から正しいことであっても指摘されると少なからず頭にきますが、その一方他者からお世辞では似としても誉められてもその人と今後接するのが苦痛なんです。 見しらずの私に対して丁寧な回答つけていただいていることについては感謝しています。 ありがとうございます。
ひとつ考えがまとまったので、あなたに聞いてもらおうと思いまして、押しかけるように、また再登録してしまいました。 今から書こうと思っているのですが、それをあなたが読みたいと思っているかは別だなぁと思いました。 ここに書いても宜しいでしょうか? 返答を待って、載せようかと思っております。 勝手で申し訳ない。
くどくなってしまいますが、人間はいずれ死ぬものでありますから、あなたも生き続ける事によって、自分にある生の形を探って行けば良いのではないかと、私などは思います。 私は再三再四に渡って恩を仇で返した彼女も許していますし、その生を否定する事は決してありません。 ご自分なりの生き方が、広い世界ですから、有ると、私などには思えますよ。 ですから、どうかお元気で。 私は自殺などでは死にませんでしたが、病に倒れるのかもしれませんね。でも、それも私の生の形でしょう。
了解してくれて、ありがとう。助かります。 この形式では、さらには、あなたのような形の問題を抱えている人には、伝える事は難しい。 私の書いた事は、あなたが思うほどに、水掛け論でもなく、中身が無いものでもないですが、正しいと断じ切れるものでもありません。それに私は一側面しか、ここではあなたに提示できていない。もちろん、あなたに求められる姿勢が有るとも言えない部分もあります。 あなたに必死があれば、参考とできるだけのものであると思いますが、そこは私の力の及ぶところではありません。 できれば、あなたに向かう心が有ると認められれば、力になり続けたいと思うところですが、私も顔の見えない人に、雰囲気を感じたこともない人に、そこまでのことは、なかなかにしてあげられません。 あなたを知った以上、今後も、心の中では、あなたの平穏を願い続けますが、やはり、当人の問題は当人がどこまで正対に向かえるかなので、そこにおいても私は常に無力です。 でも、あなたの心に平穏が訪れる事を願い続けるとは思います。 どうか、お元気で。 了としてくれた事に、感謝します。 では、さようなら。
あなたに対する自分の発言に、責任を持てない感があるので、いたずらにあなたの人生を狂わせたくはないので、ここへの回答を止めても良いでしょうか。 ひとつ言うとすれば、人間の生き方は多様であり、ただ、今の時代のあなたや私の世代は同調圧力が強過ぎる世代であるのだ、ということを念頭に入れておくと良いのではないかと思いました。 だから、私に言う事にも従う必要はないと、思いもします。
お礼
わかりました。 私にはとめる権利はありません。 今までどうもありがとうございました。
お礼
回答ありがとうございます。 共生ですか。 私は明らかに自分自身とも社会とも上手くは共生出来ていないですね。 自分自身をその欠点をも含めてそのまんま受け入れられる人がうらやましいです。 私は人格障害であれなんであれこの捻れ歪んだ性格を直さなければうまく世の中に対応出来ないとは思うんですが、それをするのはかなり苦しそうなので尻込みしています。 しかしこのままでは苦しいという腰抜けのジレンマです。 なんか最近全てがいやになってきました。