• ベストアンサー

《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。

まづ信教・良心の自由にもとづく個人の信仰は別問題です。(わたし自身 信じている側ですらあります)。 要するに《現人神なり》と言っています。これは 哲学あるいは市民の常識からは どう扱うのでしょう。経験合理性には明らかに反しています。あいまいにし 放っておくのでしょうか。一定の見解を明らかにしないでしょうか。 なお 非合理ゆえに我れ信ずは 個人の信仰のことですから 別問題です。 けっきょく なぜ ゆるされているのですか。

noname#80116
noname#80116

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • mr-birn
  • ベストアンサー率18% (15/80)
回答No.12

  『現人神』は、理解できました。  では、一般に言われている『神』を貴方は、どう考えておられるか?(信じている側ですらあります)。と書かれてあります。・・・ が?  歴史的な事柄は、置いて現在から未来を考えて見たいと思います。例えば、地球温暖化と神、『現人神』には何の関わりも見出せませんが、現に問題は発生しています。又、地球の外側(天文分野)では≪暗黒星雲≫などの情報が、NHKの教育でも放送しています。何と、宇宙の65%位が≪暗黒星雲≫とかが占めていると言うのです。(不明の方が多い) ○○億光年とかの世界ですが、実在してるのでしょう。それらを、『神』の摂理とするでしょうか?私は、そう思いますが、その場合、『神』とは何を意味するか?  ※ 私には、社会現象・科学・天文学とばらばらにする思考と、絶対的な摂理を意識する人があると思います。人間が支配するか、別の次元に求めるか。  例え、同じ宗教・宗派・教会などでも個々人で理解は違います。けれども、尊重できる範疇なので目くじら立ててもしょうがない程度なのでしょう。  史実がどうこう言われるのは、歴史的裏づけが必要な時です。でも、事実は余り気にしない物語・絵本など子供向けの本もあります。著者は大人で対象が子供と言う違いはあります。そして内容的には、多少のぼかしや脚色はあってもポイントを得た(絞った)本が最近は多く見かけます。いじめをテーマにした物が有りましたが、大人が見ても面白いと感じます。  日本が戦争で負けて、天皇に対する見方が変化したのは、約60年前です。でも、日本の『神』が抹消した訳では無く、信教の自由の基に、生きられる訳で、仏教・キリスト教もです。但し、戦中は他国の宗教と言う事で弾圧した訳です。『建国記念日』や『靖国問題』など、史実は不明ですが、神話や祭り事のように思える事も含まれて現在があるように思います。ギリシャ神話でも言えそうです。  『神』に対する概念には、超自然・絶対者を求める人間的な本質があるように思います。ですから、その辺で考えると尊重(天皇が象徴である如く)する事で、人間社会が秩序を保っているように感じます。敗戦後そういう意味で天皇制が残されたと言われましたが、私の記憶では?  > けっきょく なぜ ゆるされているのですか。  私にも、分かりません。ギリシャ哲学も盛んな時代ですよね。当時の指導者が都合よく解釈したと簡単に言えません。火のない所に煙が発たないように、何かがあっての事と考えますが、ゆえに信仰の対象では?  >たとえば子どもたちに どう教えればよいか問題になりませんか。  問題ですね。でも、その問題の回答は子供に返すしか無いのでは?子供のレベルに合った説明をして、実は先生も分からない、研究中(ネットで調べている)。それが、きっかけでその子が学者になるかもしれないので、湾曲した説明は、逆に責任があるように思います。

noname#80116
質問者

お礼

なぜゆるされているか? ――わからない。 子どもにどう教えればよいか? ――先生もわからない。〔わかるような人が出て来て欲しい。〕 なるほどと思いました。そのとおりだと思いました。問題は残ったままなのですが。 神をどう考えているか?との問いもありましたので わたしの信仰にかかわらせて 上の事態を解釈するなら こうなります。 潮の満ちていくように 神をめぐる人間(人類)の時も 少しづつ 満ちていくのだと思います。その一つひとつの段階と日々の過程とをたどっていくのだろうと考えます。 でも ただ今でも 教科書は 何らかの説明をしているんですよねぇ。神が肉となったというのです。文学的表現であれば まだしも・・・。まあ 信教の自由は いいものですが。 ありがとうございました。

その他の回答 (21)

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.11

No.10です。 私も二人の人の書いたものを混同していました。 失礼しました。 >歴史的人物だとされるイエスについて 尋ねています。 >文献と史実の検証のほかにありましたら お聞かせください。 「実在のモデルがいたからこそ、12使徒たち、少なくもペトロやパウロは実在し、イエスの物語を語ったではないか。だから実在したはずだ。」 でしたら、さぁ・・・ です。 ヨセフスが強調して語ったところによると、頻繁に起こったローマ支配に対する反乱を扇動したのは、ユダヤ教の黙示録的伝統に属する指導者や預言者だったそうです。 彼らは義なる者と悪なる勢力の間に行われる最終戦争と、それに対する神の介入を語る幻視的思想家の流れを汲む者達。 これはユダヤ教におけるメシア的教義の重要な側面だったそうです。 こう聞いて浮かぶのが、クムラン宗団です。 彼らの終末の概念がそうだったから。 実際に20世紀になってから彼らの書物が見つかりました。 そこにそう書かれている。 ご存知だと思いますが、死海文書と呼ばれるものです。 クムラン宗団を率いていたのはツァドクの末裔。 ただし、一人のメシアではなく、二人のメシアを待望していました。 祭祀のメシアと王のメシア。 これに該当する人を無理やり私が当てはめるとすれば、アロンの血筋を引くとされる洗礼者ヨハネと、ダビデの血筋を引くとされるイエスです。(天の子と地の子) 彼らはイスラエルの選民が神との契約を遵守するようになるまで、最終的な贖いと悪に対する善の勝利は実現しないとし、メシアは選民を浄め、王のメシアは悪に対する戦争において彼らを勝利に導くとしていた。 後に成功しなかことで、文書が付け加えられたらしいです。 そう聞いて思い出すのが、人々はイエスにメシアであることを早く示せと詰め寄った一件。 クムランの宗団の一派が分裂して、キリスト教になっていったんじゃないかと。 クムラン宗団の考え方はキリスト教の考え方に非常に似ているが、三位一体などユダヤ教からすれば神を冒涜するような考えはしていない。 また、ヨハネもイエスという名前も出てこない。 義の教師と悪の祭祀は登場しますが、悪の祭祀が義の教師を殺したとなっている。 ちなみに義の教師は紀元前200年だったかそこらに実在したことになっているので、新約聖書のイエスではない。が、後世の人の創作する上でのモデルになったかもしれない。 別の人の見方では、義の教師、悪の祭祀はイエスが生きたとされた時代の人物で、義の教師は洗礼者ヨハネ、悪の祭祀はイエスだ、という解釈もある。 >たとえば子どもたちに どう教えればよいか  信仰という言葉を使わずに、ですよね。 逆だと簡単なんですけどね。 まず、神の概念を子供に教えなければなりませんが、あなたはどう教えます? 神の概念は一定でしょうか? 以前神という語彙をネットの辞書で調べたことがあります。 無い、ヒットしない。 いくつか辞書を変えてやっと1個ヒットした。 では定義が定まっていないにも関わらず、人は神という言葉を軽々しく使って語っているがどうしてなんでしょうね。 子供に語る上で、まず神の概念を定着させる必要がありますね。 「人間では推し量れないよくわからないもの」←説明になっていないので子供は「パパも知らないんだ。知らないものを信じろって変なの」ってなってしまう。 >信仰を明らかにして人に伝えるという表現行為までは自由だが  >相手の自由も尊重し しかも共同自治の領域では 信仰から自由に >ならなければいけないというふうに。 日本においては信仰は自由です。 日本で宗教をしている人の数は人口の2倍。 おおらかな日本ならではの現象かもしれません。 日本において神道は暮らしに根ずいています。 正月は初詣にいき、クリスマスはメリークリスマスと祝う日本人。 門松などは三位一体を表しているといわれていますし、カバラの生命の木を表しているともいわれています。 日本の辞書にどうして神の概念が書かれていないのか。 異教の神を食ってしまって取り込んでしまったからと思えます。 この食うをうまく表現しているのが、新世紀エヴァンゲリオンのサードインパクトだと思えます。 日向「デストルドが形而下されていきます。」 冬月「これ以上はパイロットの自我がもたんか」 青葉「ソレノイドグラフ反転。自我境界が弱体化していきます。」 日向「ATフィールドもパターンレッドへ」 青葉「リリスよりのアンチATフィールド、さらに拡大、物質化されます。」 日向「アンチATフィールド、臨界点を突破」 青葉「だめです。このままでは、個体生命の形が維持できません」 パクっ。 習合してしまった。 他で、三位一体について話をされていますが、三位一体の原型は三相一体で、これは女神の概念なんですね。 母系社会のときの概念で、それが父権社会に移行していくうち、「父と母と子」さらに母がはじかれ「父と子と聖霊」に変換していったわけです。 キリスト教もユダヤ教とローマ神話が習合している。 土地土地の伝承が違うのも、土着の神を取り込んでいったからだと思います。 思想においてはギリシャ哲学を取り込んでいる。 で、人間が神でもあったということを、どう子供に説明できるのか。 難しいですね。。。。 昭和天皇で書いたような感じでなら説明できますが。。。。 子供を一時的に納得させるのは簡単です。 クリスマスの夜にサンタがプレゼントを運んでくれるということを、子供に教えておいて、自分でプレゼントを枕元においておけば、目覚めた子供は「サンタさん ありがとう。パパの言ったことは本当だった。」となり、イエス様も サンタ様も パパ様も尊敬対象になれます。 だが、子供じゃなくなると、そのトリックは通用しなくなり、「パパの嘘つき トリックで神の実在を信じさせようなんて最低の人間だ。」となってしまうか。 なりませんよね。 寛容さを持って乗り越える。 キリスト教は不寛容によって成り立っていますよね。 というわけで、イエスを神だと教え込むには、不寛容さで教える。 例えば侵略先の土着を神を悪魔に摩り替えてきましたが、このように人々が信仰しているものを悪魔だと教え込むことによって、逆に自分が信仰しているものは逆の神だと信じ込ませることが可能。 歴史的にみてもそうですよね。 ただし、これも一時的なもの。 そのトリックを子供がいつか気づく時がくる。 その時、子供が親に対する信頼が揺らぐことになる。 そうなったときどうなるのか。 「パパ イエスが言った目が見えない人という意味は、盲目の人って意味じゃないんじゃない? ヘブライ語の慣用句でケチな人って意味でしょ。イエスは共同財産を説いたわけで目が見えるようになったという意味は気前がいい人になったって意味でしょ。」 「パパ メシアって意味は救世主って意味じゃなくて、聖別された人って意味で、ダビデもソロモンも祭祀たちも油を注がれ聖別されたメシアだったわけだけど、人間だったわけでしょ? じゃあ イエスも人間じゃない。」 「パパ 偉い人が油を塗られた理由は女神との結婚を表していて、女神と結婚することで、女神の力を手に入れられると信じられていたからでしょ。 だからルシファは女神の力を手に入れようと挑んで、地上に落とされたって話なんでしょ。 それがユダヤ教になったとき、それを象徴するのが頭に変わり、メシアは頭に油を塗られるようになったんでしょ。」 このような問いに答えられるようにならなければなりません。 ということで、イエスは神だったとうかつに言わないほうが無難かも。 教えないのに子供がそう思ったら、「パパ 事実はどうなの」って迫られることはない。 言った人に問いただしに行くわけなので。 結論、 イエスは神だったと子供に言わない。 「キリスト教の教えではそうなっている」と条件つきであることを言っておくにとどめる。

noname#80116
質問者

補足

重ねて答えてくださって ありがとうございます。わたしのこの質問は 素朴ながら 的を射るような問いであるように 我れながら 確認しています。 (1)或る実在の人物もしくは世界観としての想像じょうの人物が イエスのモデルになっているという背景を指摘されています。いまは 留意ということにさせていただきます。(史実の比定は むつかしいです)。 (2)《〔戦争を〕止められなかった原因は自分にあるとして、殺されてもかまわないが、国民には責任は無い と一人で罪を背負って崩御しようとしたわけです》の結果 ゆるされて そのあと あなたは 《自害する》か《生きて耐え抜く》かの二つに一つの選択を想定しておられますが しばらくして 退位・譲位すればよいとも考えられます。自分の意志だけで出来ないとしても その意志が伝わるまでは 言い続けるということも考えられます。そうでなければ 責任を負ったと言えなくなるように思います。 ですが なぜこのような議論をしたかと言いますと 時間的存在(つまり人間)の経験的行為は あくまで相対性のもとにあると言いたいためです。誰が誰のどの行為をどう言おうと 反面ではこうこうであると言えるということです。ですから 現人神の判定は 不可能であり 社会常識としては 判定してはいけないのだと考えます。徳育というふうに 神とのかかわりを多少薄めても 同じではないかと。 ですから――ちなみにですが―― キリスト・イエスをめぐって 善し悪しを述べられても わたしとしては ほとんど 触れて来ていないと思います。さらにちなみに 実在説の当否についても それとしては 議論を拡げないという方針でいます。 (3)《神》の定義から始めなければならないとおっしゃるのは まことに同感です。めづらしく意見の一致を見ましたね。それはいいのですが そして次の方(ANo.12)へのお応えを先に書きそこでも確認しあう形になったのですが けっきょく 気長に一つひとつ こなしていくことが肝心なのでしょうかねぇ。 (4)三位一体に対して 《原型は三相一体で、これは女神の概念なんですね。母系社会のときの概念で、》うんぬんと続けられていく文章は 説得的ではありません。その事情が問題なのではなく 三位一体説はすでに明確に出されているので その原型があってもなくても 問題にしなくてもよい事情説明だと捉えられます。 いまふと思ったのですが やはり 子どもにも そのままはっきりと明らかにしたほうがよいのかも知れません。判断は子どもに任せるのも一法かと。すでに書いたことですが 文学的な表現であるというのならば 何の問題もないのですが・・・。《「キリスト教の教えではそうなっている」と条件つきで》とおっしゃっても やはり伝えることになるわけですし・・・。 なお 褒めたことではないのですが アニメにかんしては まるっきり分かりません。ご容赦のほどを。(千と千尋の神隠しをテレビで見たことがあります)。 なお 今回の質問の過程で 落合仁司著《〈神〉の証明》(1998現代新書#1392。品切れとのこと)に出会いました。カントールの無限集合の理論で 神の受肉が説明できると言っています。(まだ読書途中です)。数学がわからないので 質問してみようかとも。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.10

No.6です。 >イエスと同時代のユダヤ人であるフラウィウス・ヨセフスに《ユダヤ戦記》があり これは いわゆる客観的な歴史書として 評価されています。 はい、古代のユダヤの歴史を知る貴重な資料ですね。 私はユダヤ戦記は読んだことがありませんが、ある小説では、ヨセフスは会ったことも見たことも無いと書いてありました。 彼が旅行中、「3人が磔刑に処されている風景が遠めに見えた。とはかかれているが、それがイエスらだとは言っていない。」と。 ピラートスはローマに反逆する疑いのあるものは、ただちに通報するよう命令していた。 ピラートスは、裁判なしに即処刑する男として名をとどろかせていた。 聖書にはピラートスは正しい人であったが、と書かれているが、サンヘドリンの要求に屈し、鞭打ちそれで開放させようとしたが、人々はイエスに死を望んだ。 ピラートスは正しい人であったので、恩赦制度を利用して、イエス・バラバとこのイエスのどっちに死を望むのかと問うたところ、人々はイエスの死を望んだ。 まるでギリシャ悲劇の一幕のようですが、、、、 即処刑する男として名をとどろかせていたピラートスが、殺人犯を拘留していた? 殺人犯とイエスのどっちを救うかと人々に意見を求めた? おかしいですね。 そのような人物などではないはずなのに。 なにより、ヨセフスがイエスに会ったことがある? イエスの実在を記録に残している? 今までの小説にはそんなこと出てこなかったぞ。 初耳だ。 というわけで、調べてみました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%82%BB%E3%83%95%E3%82%B9 【『ユダヤ古代誌』18巻63には「フラウィウス証言」と呼ばれるイエス・キリストに関する記述があることで有名であったが、現代では後代の加筆・挿入と考えられている。】 というわけで、西洋ではどの小説家も加筆だという認識だったので、小説にもヨセフスは実在を記録していると書いていなかったので、私もユダヤ戦記に書いてあると知らなかったわけです。 >もっとも 実在の人物でなくとも 歴史上の人物であるとした上で その人が神であるというとき その言説に対して 人は・あるいは社会は どう判断しておくべきかを尋ねています。  それは現代の人がですか? それとも当時の人がどう判断していたか ですか? 当時の人の考えから言いますと、ローマ皇帝は神の子という概念がありました。 ユピテルってご存知ですよね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%94%E3%83%86%E3%83%AB ローマはエルサレムの神殿にこのユピテル像を置こうとした。 ローマ皇帝は神の子とされ、ユピテルの子とされていたんです。  そのうち、ゾロアスターだったかマニ教だったかと習合することになって、太陽の子という概念に皇帝はなっていった。 だから衰えることのない太陽の帝国ローマ帝国となっていった。 ローマ帝国の概念にそういうのがあったんです。 で、<現代の人は社会はどう判断しておくか>ですが、、、 例えば、コンスタンティヌスのイエスの啓示により勝った つまりコンスタンティヌスはイエスによって選ばれた、というものは、後世の加筆。 と判断するのが妥当じゃないかと。 コンスタンティヌスは確かに実在の人物ですが、どうしてそのような話が作られたのかを考えると、、 XPの文字、これ、マニ教だったかゾロアスター教だったか他の宗教だったか覚えていませんが、とにかくそのシンボル。 キリスト教のシンボルじゃなく、コンスタンティヌスはそれによって、兵士を奮い立たせ、数では圧倒的に不利な戦に勝ったわけです。 という風に、一つ一つを検証していくのが、現代人が判断する上で最低限必要なことなのではないかと。 じゃなきゃ 盲信するしか、「そんなわきゃない 理由はないが自分はそう思わないからそうじゃないとする。」と言うしかないです。 どうしてそう思うのかを出してもらい、その反証を別のものが出す。 こうやって哲学は成り立っているわけです。 既に決定されたことを、本当にそうなのか吟味し、修正していくのが、現代の哲学ですから。 それには神話も吟味の対象になりうる。 全くなんの根拠もなく神話はできるわけない。 何かあったはずです。 例えば、ペトロに鍵を渡したという記述。 これも理由があった。 勢力争いで、自分達の集団こそがイエスの教えを受け継いでいると、他のキリスト教の集団を退けるために聖書に加筆された。など。 このように吟味していくと、明らかにされてきて、もやに包まれた姿なきものが、実は姿をもっていたとわかってきますよね。 幻を取り除いていけば、実体なきものとしたものの実体が見えてくる。 これが現代人の判断に必要なものじゃないのでしょうか。 どう判断するかは、徹底的に幻を取り除く作業が必要。 取り除ききったと思っても、実はまだ実体を見ていなかったりするわけで、こうやって書けば「否」って反論がきて、それを本当にそうなのかさらに吟味して、精度を高めていくわけです。 ただ、ここ議論しちゃいけないので、うまーく議論じゃないようにして、進行していかないといけないという。 ということで、あなたの質問に、私が知っている情報を返答として返すということを今回やってみました。 まどろっこしいが、そのやり方しか思いつかない。

noname#80116
質問者

お礼

http://www.members.aol.com/fljosephus/testimonium.htm 最初に出て来たウェブ記事ですが これによると クリスチア二スムの用語や表現(《メシア》など)は 後世の加筆であろう と同時に もともとヨセフスの原書にも イエスのことが 歴史として 触れられていたのではないかという そのような見解が紹介されています。 『ユダヤ古代誌』18巻63のほうは 知りませんでした。上の議論は 《ユダヤ戦記》のほうについて なされています。わたしは その中のイエスの部分を読んだだけでした。見解を異にするのですが 資料の判定については信頼していた田川健三に拠って イエスの実在性を前提にしていました。 けっきょく ここでの問題は 実在性を超えて しかし歴史的人物だと想定して その人間が 現人神だと述べられたとき その言説をどう扱うかです。 歴史的人物ではないということを証明していくという対処の仕方を提案されていると理解しました。 気長に しかし 慎重に堅実にというところですね。 趣旨と異なりますが ピラトうんぬんのところは わたしの考えでは 脚色があるという説明で済ませます。 一つ前の欄に書いたのですが たとえば子どもたちに どう教えればよいか 問題になりませんか。とりあえず思い浮かぶのは 現人神にかんして そのとおりに教え と同時に 信仰の領域と社会行為のそれとで 分けて扱うというようなことですが。信仰を明らかにして人に伝えるという表現行為までは自由だが 相手の自由も尊重し しかも共同自治の領域では 信仰から自由にならなければいけないというふうに。

noname#80116
質問者

補足

訂正としての補足です。 《ユダヤ古代誌》と《ユダヤ戦記》とを 間違えています。勘違いでした。 質問は あらためてこうです。 ピラトのもとに 磔の刑で死んだというイエスなる人が そのいわばイエス教徒たちを散らそうとしていたサウロという人に 死後に現われ なぜ迫害するのかと問いかけた。のち このパウロと改名した人が イエスはキリストであり子なる神であると説かれるまでの内容をもった文章を遺した。 このようにして 歴史的人物だとされるイエスについて 尋ねています。文献と史実の検証のほかにありましたら お聞かせください。 人間宣言を ローマ教会なりに迫るというのも どうなのでしょうか。信仰の領域だと言われれば おしまいです。社会との接点は どこにあるのでしょう。

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.9

7番です。 やはり解釈を誤解されているようです。 >神である言葉がキリストと呼ばれており 肉はイエスという名の人間です。 上記のように解釈したのが、単性派の考え方です。 当然質問者のように解釈する人は、後々単性派を形成しました。 しかし、そうは解釈しなかった人もいるわけです。 肉体を持ったのは、神のごく一部であり、一部の言葉と肉体が合わさって1つになったものがキリストであるとした人々が、多数派を形成しキリスト教において、三位一体派を形成してゆきます。 つまり、三位一体派においては、キリストは神の一部と人間の肉体が混じった存在であると考えるわけです。 つまり、神そのものではないと。 >この日本風に言ったところの《現人神》の思想を 直接には批判せず たとえば 政教一致を完全に排除するといった形と領域で 対処するということなのか そこのところを伺っています。哲学は 積極的には何も言えないのか 教えて欲しいところです。 現在のキリスト教世界において、単性派は異端とされてはおらず、キリスト教の一教派として認められています。 そのため、キリストは神であるとしても、全く問題無いわけです。 また、キリスト教において、異端とされるモルモン教、統一原理、エホバの証人、クリスチャンサイエンスなども、社会的には、信仰の自由が保障されているため、信ずる事は自由です。 しかし、それは哲学や宗教の問題ではなく、社会学や政治の面での話しです。 政治的なものを、どのようにして哲学的に説明できるのでしょうか?

noname#80116
質問者

補足

父なる神は 子なる神を生みたまうた。また父なる神は 人間を生みたまうことが出来る。父は この権能を 子なる神を生むとき 子なる神が 量的・質的な差なくして 持ちたまうように 授けた。父が子を生んだというのであるから 経験的な概念で言っても 父は子を愛したまうた。子を愛したまうたと同じように 人間を愛したまうた。そして父は子に 人間を愛する権能をも 十全に 欠けることなく 授けたまうた。 父が子を生みたまうことと 愛したまうこととには 量的・質的な差異がないと考えられる。言いかえると 生みたまい得る存在ということは 愛したまう存在であることに等しく 父である権能は愛である能力と同じであり この愛は 子である権能にも等しい。 父が子を生みたまうたとき 何らの時間的なへだたりなくして そこに――つまり言いかえると 父から及び子から つまりさらにあるいは 父と子との交わりから――愛が 父や子と同じ存在・同じ力として 発出したまう。 子の父は 父の子を および 両者のまじわりである愛を 人間の世界に 派遣されたと考えられる。子は 人間となって派遣された。つまり みづからを空しくされ 肉となって現われたまうた。それは かれの神性を欠如させてではなく そのまま 父なる神の独り子なる神として現われたまうたと察せられる。言いかえると 第三の愛なる神を発出したまう神として この地上にやって来たまうた。 第二の子なる神が 人間となってやって来る前にも 父と子は 愛つまり言いかえるとこの第三の聖霊なる神を 同じくこの地上に派遣したまうたと考えられる。子なる神がやって来て 人間の言葉でこれらの神のみ心を 告知したのであると。つまり 聖霊は 人間に派遣され 人間の肉に宿りたまうのであると。子なる神は人間となられたが 聖霊なる神は そうはならなかった。聖霊も子も 互いに等しい神であられるが 聖霊が 固有の意味で神の愛として 人間に与えられ人間の内に宿りたまうのであると。 この父と子と聖霊の三位格(ペルソナ)の一体性は 光にたとえられる。光の 光源(父)と発耀(子)とその明るさ・暖かさ(聖霊)の一体性にたとえられると。三位一体とは 各個が各個に等しく 各個が全体に 全体が各個に等しい存在であると。つまり 真実の光なる神は 一つなる本質(存在)でいましたまうが 三つのペルソナを持ちたまう。父とか子とかその交わりである聖霊とか これらの表現は 関係として言われるのである。言いかえると 子の父も 父の子も そして聖霊も それぞれ本質として 聖であり霊であり愛であるということ。 人間は この三位一体なる神に似せて造られた存在であると考えられた。 神は 光であり そのうちに関係として三つのペルソナを持ちたまう一つなる真実の神であると 人間は記憶する。この記憶は 記憶が記憶に帰るとき つまりあるいは 人間がその記憶に尋ねるとき そのようにその内容を知解する。つまり 記憶がこの知解を生む。そして なぜなら 記憶し知解するとき そこに これら言わば父のような記憶と言わば子のような知解とを結び合わせる第三の行為能力である意志を持っており この意志は 人間が神の愛を分有させられてのように 記憶と知解の行為の初めに はたらいたと 記憶され知解される。この人間の 記憶と知解と意志の一体性は 神の三位一体の似像(にすがた)なのであると考えられた。 人間の 記憶は いわば精神の秩序であり 知解(知識)の宝庫である。記憶の宝庫から精神が知解するとき 意志が発出されていると考えられ この意志は人間の持つことが出来る愛である。自己の記憶と知解と意志なる三一性は 他者のこれらの三一性に 同じものであると考えられる。このとき 自己の意志 自己の愛は 他者の愛――他者への自己の愛 および 他者じしんの自己の愛――と同じであると考えられる。 人間は 三位一体の似像なる存在として 人格(ペルソナ)として 一つの本質(存在) 一つの生命である。 ――この中で 子なる神が 人間イエスとなる つまりまたは イエスなる人間は〔メシアないしキリストとも呼ばれるようになった〕神であるというのは 哲学や社会常識にとっては 考えうるところから かけ離れています。いわゆる論証・実証し得ないドグマです。これの扱いは どうなるのか 知りたいと思っています。たとえば教科書などは どう扱っているかと思います。(自分で調べなくて いま 発言してしまいましたが)。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.8

仏教では国を治める現人神を転輪聖王といいますがこのようなお方が存在すれば国を治めるのは政教一致が一番いいのでしょう。しかし、そのようなお方はまれにしか姿をあらわしません、そこで孔子は秩序を維持するために序列の大切さを解きました。現代では教育も行き届いているので民主的な合議制あるいは多数決という手法をつかって秩序を守り国を治めています。これは最高の方法ではないがベターな方法であるということですね。しかし、理論的には現人神、転輪聖王、は存在しうると考えられますので政教一致を否定する必要はないように思います。 釈尊は転輪聖王としての《現人神》ではなく仏陀としての《現人神》を選ばれ、ナザレのイエスも救世主として神の権限と権能をもって現れたおかたですから《現人神》といえますね。 神道で《現人神》といわれたお方は天御中主の神でしょうか。神道の司祭の長すべてを《現人神》と称することは政治的な意味で理解はできますが実際はどうかですね。内村鑑三先生はイエス様以外はがんとして認めなかったわけですが。 つまり、本当に神あるいは神近くの霊が宿った人間を《現人神》と称することには常識的に抵抗はないように思えるといいたいだけです。  論点をはずしているかもしれませんが。

noname#80116
質問者

お礼

こんにちは。回答をありがとうございます。 現人神を誤解しています。個人の信仰にとってのそれではなく 社会常識としてのそれが問題であって その場合には 取り違えが起こっています。 現人神がいるとなれば それに仕える人びとが その権威を着て ほかの人びとに対して 何をするか分からないという問題があります。 また 或る人にとっての現人神は 他の人にとっての現人神であるとは限りません。 ですから 社会が全体として 一人の人間をそれに当てると どうなるかです。もし秩序が保たれたとすれば それは 諦めと死んだ振りによってだと思われますが いかがでしょう。 おっしゃっているのは 理想として頭と心の中にある物語のようなものではないでしょうか。 神の霊が宿るというのは ふつうに人間がその霊をいわば分有するということを言っているのではなく 神そのものが全体として人間であるという事態ですよ。つまり 神というのは その存在を 否定もできませんが 肯定も出来ず まったく分からないものなのですから 言うだけなら 誰でも自称できるし 誰かを神としてまつりあげることも簡単にできてしまいます。といったことなのですが。 議論するというのも 合っていないようですが ほかの方の見解も聞いてみたいと思います。

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.7

3番です。 質問者の方は、キリスト教における三位一体を理解されていないようですので、その事を学ぶ事をお勧めします。 この三位一体説は、現在のキリスト教の根本的原則論で、これを理解していませんと、キリスト教が全く理解できません。 (キリスト教において、三位一体を否定する教派の人もおりますが、全キリスト教徒の5%程度でしかありません。) キリスト教においては、「神 = キリスト」ではありません。 神とキリストとは、別であるという事を理解してください。 トリエントの公会議において、「神には崇拝を、三位一体(キリスト)には礼拝を、聖人には崇敬を、聖母マリアには超崇敬を行う」と規定しています。 つまり、キリストは、神の子ではあるが、神そのものではありません。 神と聖母マリアのハーフとして認識されているのです。 よって、質問者のお礼で引用されている部分に関しましても、なんら矛盾も問題点も見当たりません。 (どこにもキリストが神だとは書いてない) >ちなみに 三位一体説で《決着のついた》とおっしゃるのは どんな内容でしょうか。 451年のカルケドンの公会議で決着がついています。 >人が神であるというのは 科学を超えており しかも 社会にとっての問題でもあるでしょう。ひととおり常識を形作っておくのがよいのでは? 現在の科学では、神の存在も否定もされていません。 何を根拠に、「科学を超えており」といえるのでしょうか? 宗教の世界に、科学を持ち込む事は、誤りであると思っております。 >死ねば神となるという通念が 影響しているでしょうか。 キリスト教において、上記のような概念は存在しません。 >死んだあと 弟子たちが イエスについて神であると言っても  弟子たちが、イエスが神だと述べた事はありません。 (単性派を除く) >父と子と聖霊とのうち 子なる神が 肉(要するに 人間)となって この世に来たということではないでしょうか これも勘違いです。 父なる神と子なるキリストは別人です。 ですから、神へは崇拝、キリストには礼拝を行うのです。 キリスト教に関して、もう少し学習してください。 でないと、またおかしな質問や発言を繰り返す事になります。 >そうではなくこれを 哲学は・もしくは市民の常識は どう扱うかについて 伺っています。 現人神に関しては、政教一致の神聖政治の社会体制において、表れる事があります。 代表的なのが、日本の国家神道であり、インカ帝国です。 これは、皇帝・王権の確立のために言われた考え方で、似た考え方に「王権神授説」があります。 これらの考え方は、民主主義社会においては、否定されています。

noname#80116
質問者

補足

ヨハネによる福音の第一章をよく読んでください。 《言葉は神であった》その《言葉が肉となって 世に来た》のです。この肉つまり人が キリスト・イエスです。神である言葉がキリストと呼ばれており 肉はイエスという名の人間です。 ウィキペディアでは  《カルケドン公会議において・・・両性説といわれる説を採用した。それはキリストの人性は神性に吸収されてしまったのではなく、その二つの本性を、混合することも分かれることもなく、唯一の位格の中に有するという思想である》 と解説しています。 或るプロテスタントのウェブサイトでは同じくカルケドン信条について 「われらの主イエス・キリストは、唯一同じなる御子であって、神性においても完全であり、また人性においても完全である。まことの神にして、同時に理性を有する霊魂と肉体から成るまことの人間である。神性においては父と同質であり、人性においてはわれらと同質にして、罪を除くすべてにおいてわれらと等しい」。 と解説しています。むろん いづれも 三位一体の内容として 子なる神(《言葉》)のことを明らかにしたものです。 この日本風に言ったところの《現人神》の思想を 直接には批判せず たとえば 政教一致を完全に排除するといった形と領域で 対処するということなのか そこのところを伺っています。哲学は 積極的には何も言えないのか 教えて欲しいところです。 信教・良心の自由のほかにも 表現の自由があって この〔ニュアンスがよくないかもしれませんが〕現人神の思想を 表明することも 自由だと思います。それと同じように この表明された言説について 自由に批評・批判するのも 自由だと考えられます。基本的な哲学としての見解を 明らかにすることも大事だと思いました。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.6

日本の天皇も現人神でしたよね。 この前まで、日本国民にそう信じられていました。 マッカーサーは昭和天皇に会ったわけですが、昭和天皇と会見する前までは、信じていなかったらしく、リサックスしたスタイルで写真を撮ったようです。 しかし、アメリカに戻った後言ったか書いた本の中では、「私は神に会った」だったそうです。 リラックスした撮影の後、昭和天皇とどのような会話をしたのでしょうね。 昭和天皇が人間宣言された後のマッカーサーの言葉ですから、なおさら意味深です。 人間宣言されるまで、国民は天皇は神だと信じていたわけです。 神だと信じるまではないまでも、雲の上の存在で、人々からすると、とても遠い存在で、まるで太陽や月や星のような存在だったと思います。 昭和天皇は、「自分は殺されてもいいから、国民には手を出さないでくれ」と言ったそうです。 「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・・・。」 戦争が起こった原因は軍の暴走だそうですが、天皇はその暴走を止めることができなかったそうです。 天皇たるものでも軍の勢いを止めることができなかった。 人間の暴走をどうにもできなかった。 止められなかった原因は自分にあるとして、殺されてもかわまわいが、国民には責任は無い と一人で罪を背負って崩御しようとしたわけです。 何百年かあとに、昭和天皇は神の子だった、となるのでしょうか。 私の中では昭和天皇は神だったと思います。 戦争責任をアジア諸国から凶弾され、たまごを投げつけられ、やじられながらも訪問する。 自殺せずに全てを引き受けるために行き続けた方です。 今まで責任者が責任をとって自害するというのが潔い氏で美しいとされてきた日本において、自害せず、全てを引き受けようと生き続けた。 あの当時の価値観からすると、普通の人は耐えられないほどのものだったと思いますが、昭和天皇は耐え抜きました。 あっさり死ぬより、生きて国民と一緒に耐える。 すばらしい考えです。 イエスも現人神とされています。 私は実在の人物なのか架空のギリシャ哲学、ローマ神話と混同された架空の物語なのか、はたまた、ゼロテ党のリーダーの一人で実際の人物を下地にして脚色されたのか、調べきっていません。 もっと詳しい学者がいるので、私ごときが調べられる程度は、もうとっくに学者で調べが済んでいると思います。 ソロモンもそうですが、イエスに関しても、ローマの歴史資料にはその名が記されていない。 ピラートスは記録があるのに、これほど有名になった人物の記録がローマにもどこの歴史の資料にも無い。 ソロモンもあれほどの栄華を誇ったにもかかわらず、その周辺地域の歴史の資料にそれらしき人物として記録が残っていない。 不思議なことです。 日本の昭和天皇は、実在の人物です。 昭和天皇は現人神だという信仰があって、実在の人物だったのか と外国の人に言われたら、「はい 実在したこの世に現れた神でした」と私は答えるでしょう。 イエスは答えられません。 それは2千年の開きがあるから、だけではない。 実在を示すちゃんとした証拠が無いからです。 福音書は4つですが、それぞれ内容に違いがあります。 3つは似ていますが、他のを参考に他の地域で書き直されたもので、その地域地域によって概念が違っていたので、それがそれぞれの福音書に反映してしまっていると思えます。 ヨハネの福音書。 これはヘレニズムの文化の濃い地域で書かれた可能性が高い。 何故なら、その概念があるからです。 ユダヤ教に無い概念が混入しているからです。 一つ私が知っているのは、イエスは70歳以上生きたという記録が、教会の歴史の資料に残っていた ということです。 現在その資料があるのか、あるとしたらどこにあるのか知りません。 また、使徒ヨハネの弟子も70歳を超えた生きたイエスにどこそこで会ったと証言していたらしいです。 ですが、聖書が編纂される前に膨大な2千を超えるイエスに関する書物があったにもかかわらず、熟年期・老年期のイエスの活躍を示す資料がどこにもない。 といっても、教会が焚書扱いにした書物が多数あり、トマスの福音書やマリアの福音書、ユダの福音書など、教会が焚書したはずの書物が出てきており、存在しているが発見されないだけかもしれませんが。 それとも、教会が都合が悪いから、磔刑後も活躍したイエスの資料を全部消滅させたのかもしれませんが。 イエスの教えとはなんだったのか。 実は誰も知らない。 人々は何をもって聖書の言葉がイエスが語った言葉だと信じているのか。 聖書を編纂する時、どの順序で並べるか決めたらしいです。 全く別なエピソードの一文を、別な章に混入させてしまうケースも人間ですからあったでしょう。 するとその章が全く別な意味に変わってしまう。 山上の教訓にも、三人称から突然二人称に変わっている部分があるそうで、恐らく山上の教訓ではない箇所を、そこに入れてしまったため、そういう話になってしまったのだと言われています。 イエスは一体どんな人物だったのか。 昭和天皇のような存在なら、現人神だったと言えるでしょう。 しかし、実際のイエス像がわからない以上、実在した現人神だったとは断定できない。 何故ならどういう人だったのか、誰も知らないからです。 実際はどういう人だったのかわからないのであれば、判断のしようがない。 実際が無いからです。 では実際が無いのに、神だった と言うのは問題か? 法律上は違法ではないです。 ただし、実際は違うのにそうだといって金品を騙し取った場合は、詐欺として告発されます。 ここが難しいところで、被害者が存在しないと、裁くことはできない。 自分は神だという人を信じて何千万と寄付をした人が、後に疑いを持ち、裁判を起こして寄付の返済を迫るというのは、日本でよくあるケースです。 実在する人物を相手に裁判を起こすわけですから、宗教の自由を認めている日本においても、それが巧みに寄付を誘導された結果であると認められたら、返還するように命令を下せます。 所詮、その自分は神だという人も、日本の法律の下に生かされているのだから。 「我は神なり 日本の法律は及ばない」と言ったところで、財産差押えなどの処分が下され、抵抗しても駄目です。 「どろぼー 勝手にもっていくな」と言うと、「どろぼーはどっちだ」となりますし。 というわけで、今回法律に関して、イエスが神であることが、法律に抵触するかというと、しません。 ですが、寄付しないと天国に行けないと言ったり、セックスをしないと罪が消えないと言ったりなどして、逃げがたいように、判断力を失わせるような誘導をして、目的を達成した場合は、日本の法律に触れますので、そういうことは言ってはならない と法律で制限を課します。 一番問題なのは、信者が疑う権利を奪うことだと思います。 疑いをもったら地獄に落ちるかのような印象がある。 疑うことに問題は無い。 疑わず盲信しようとしてできないが、疑えないで苦しむことに苦悩がある。 疑惑を徹底的に排除しないと、納得に至れない問題なら、徹底的に疑い疑惑を消去できるものは消去して、疑惑をなるだけ少なくし、確信を持つに至るようにするべきだと思います。 哲学は疑うことからスタートしますし、ねむりこくっている怠け者にこそ、針でつついて眠りから覚まして現実に帰っていただくわけです。 現在の哲学は、既存に決定されたことが、本当にそうなのかと吟味し、修正することで成り立っている。 キリスト教はギリシャ哲学で成り立っていますが、その哲学が一番の強敵なんですね。 しかしギリシャ語は抽象概念に満ちているので、どれだけでも問うことが可能だそうです。 従って終わりは無い。 というわけで、エンドレスになりそうな気が・・・・。

noname#80116
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 イエスと同時代のユダヤ人であるフラウィウス・ヨセフスに《ユダヤ戦記》があり これは いわゆる客観的な歴史書として 評価されています。イエスは 実在の人物だとされています。 もっとも 実在の人物でなくとも 歴史上の人物であるとした上で その人が神であるというとき その言説に対して 人は・あるいは社会は どう判断しておくべきかを尋ねています。  昭和天皇が 現人神であるというのは 個人の信仰ですから それは問題にしません。そうではなくこれを 哲学は・もしくは市民の常識は どう扱うかについて 伺っています。 歴史上の人物だということが あくまでも死後であるという条件のもとに捉えられると もう問題にならないというようなことでしょうか。みなさんの回答を読むと そういう要素もあるように伺えます。

  • mr-birn
  • ベストアンサー率18% (15/80)
回答No.5

私も、質問の意味が良く分かりませんが、全体を理解しての意見として。  >《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。  解釈:『人間イエスは神なるキリストと同じ』は正しいのか? との質問と思いました。この考え方は、ご存知だと思いますがキリスト教の教義です。一般的に理解することは難しいと思います。例えば、福音書と呼ばれる箇所(マタイ、マルコ、ルカなど)では、イエス・キリストの受胎(妊娠)を乙女(処女)マリアが聖霊により身ごもったとされています。普通の人間は、一般に性交なしで妊娠しません。ですから、イエスは人間と同じように女性から誕生したけれども、神の子と呼ばれます。最近、両性(男女?)と呼ばれるような分類をする事もあるようですが。  イエス・キリストは 神であり人間でもあるといった理解です。  先日、自称キリストと言う方が居られました。自称は、他者の意向はあまり関係ないという理解になります。2000年という歴史は、個人の人生から見るとかなり大きいと思いますよ。仏教で、お釈迦様が悟りになられた。それを弟子達に伝授する。布教する。そこに、多くの人が共通に理解できる思想や哲学が必要であったと思います。また、理解をするには、弟子、修行などのステップが必要だったと思います。算数、数学、微積分、応用などのステップや更なる専門の学びがあるように、算数からいきなり微積分は無理かと思いますが?  結論:許すとか許さぬと違い。月の表を見て話すか、裏を見て話しているか、両方旨く説明せずに話しているか。その方の視点とか、考え方で違うと思います。それでも、不思議と、子供も大人も納得できるベースがあると思います。だから、完全な否定は出来ない。それも、経験主義になり得るのでは?  

noname#80116
質問者

お礼

回答をありがとうございました。

noname#80116
質問者

補足

死ねば神となるという通念が 影響しているでしょうか。 死んだあと 弟子たちが イエスについて神であると言っても 抵抗感はなくなっているということでしょうか。 処女懐胎については それほど問題にせずともよいでしょう。すでに あるいは ただちに 明確になったということでなくとも 科学の視点で捉えていけばよいでしょうから。 人が神であるというのは 科学を超えており しかも 社会にとっての問題でもあるでしょう。ひととおり常識を形作っておくのがよいのでは?

  • tryouts
  • ベストアンサー率31% (126/404)
回答No.4

4世紀に決着のついた三位一体説で問題あるのでしょうか? カソリック、プロテスタント、東方教会のいずれにおいても、言葉の表しかたの違いは別として、同じ考えで統一されています。 キリスト教の教義であるともいえます。 (エホバやモルモン教などの新興宗教は別としてますね。) 父と子と精霊は、実態としては同一です。 創り救い導くの3つの役割(位格)の実態は1つであるとするのが、三位一体です。 哲学や信者の市民の常識ではなく、科学的見地から考えた場合には矛盾点があるかもしれませんが、宗教の教義を科学的に分析しても結果は出ないのであまり意味がありませんね(^^;

noname#80116
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 ANo.2のかたと同じように 《放っておく》になるでしょうか。 ちなみに 三位一体説で《決着のついた》とおっしゃるのは どんな内容でしょうか。 父と子と聖霊とのうち 子なる神が 肉(要するに 人間)となって この世に来たということではないでしょうか。(ヨハネ冒頭=つまり ANo.1へのわたしの応答を参照してくださいますか)。

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.3

質問の意味が理解できません。 >要するに《》と言っています。 こんな事は、どこで言われているのでしょうか? キリストが、何者であるかは、古来キリスト教世界で議論になってきました。 基本的には、「キリストは人間であり神ではない」というネストリウス派、「キリストは神の一部であり人間ではない」とする単性派、「キリストは、神と人間の中間的存在であり聖霊の役割をもった存在である」とするカルケドン派(三位一体派)があります。 しかし、歴史的に「現人神なり」と言っている教派は聞いたことがありません。 三位一体を説く教派(キリスト教のほとんどの教派)においても、キリストは神とは別であるとの認識でいます。 よって質問の、 >哲学あるいは市民の常識からは どう扱うのでしょう。経験合理性には明らかに反しています。あいまいにし 放っておくのでしょうか。一定の見解を明らかにしないでしょうか。 は、世間一般では、全く問題にならない事になります。

noname#80116
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 《現人神》という表現を出したのは 適切ではなかったでしょうか。 ANo.1のお礼欄にも書きましたが たとえば同じく《ヨハネによる福音》では 例の《サマリアの女との会話》でイエスは こう述べたとあります。 《かのじょは言った。 ――わたしは キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。そのかたが来られるとき わたしたちにいっさいのことを知らせてくださいます。 するとイエスは ――あなたと話をしているこのわたしが そのメシアだ。 と言った。》(ヨハネ4:25-26) メシアは もともとは 人間を称して言ったのだと思いますが ここでは キリストとして 神のことではないでしょうか。

  • mijinco
  • ベストアンサー率25% (87/346)
回答No.2

とりあえず、ほうっておきます。 ・直接会ったことがないので真実がわからない。 ・誰も直接会えないので見解を明らかにしないでも大きな問題に直面しない。 ・人に押しつけない限り大きな問題にならない。 もっとも、哲学の種類によっては見解を明らかにしていると思います。

noname#80116
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 いわゆる宣教の時代は 終わったと思われます。むしろ そのゆえでしょうか。秀吉なり徳川幕府は それとして対処したわけですが。今となっては 大勢に影響はないということでしょうか。 見解を明らかにしている哲学があるわけですね。

関連するQ&A

  • 《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。

    《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。  まづ前提として 信教・良心の自由にもとづく個人の信仰は別問題です。(わたし自身 信じている側ですらあります)。  要するにこの命題は 《現人神なり》と言っています。《神が人となった》と。これは 哲学あるいは市民の常識からは どう扱うのでしょう。  経験合理性には明らかに反しています。(あるいは 超えています)。あいまいにし 放っておくのでしょうか。一定の見解を明らかにしないでしょうか。  なお 非合理ゆえに我れ信ずは 個人の信仰のことですから 別問題です。  けっきょく なぜ ゆるされているのですか。  具体的には 教科書をとおして――いまどう書かれているか知らないで言うのですが 触れているはずでしょうから―― 子どもたちにどのように説明するのですか。

  • 《人間イエスは神キリストなり》なるドグマについて

     1. 《ナザレのひとイエスは そのように人間であると同時に キリストと呼ばれる神の子でありかつみづからも神である》という物語――つまり 命題としては論証し得ないドグマ――について問います。  2. 前提事項として 次を確認します。たとえばこのイエス・キリストが《真理である神を指し示した》というときそれは    (あ) 神はじんるいにとって全体としてひとつであり 名は違っても同じ《非経験の場》と想定されるナゾの何ものかであるということを語った。   (い) すなわちおよそ神ならば どんな名のそれであっても 互いに分け隔てはないということ。   (う) 真理である神は 経験世界を超えており このナゾを人間がその能力と努力によって知解することは不可能である。   (え) 言いかえると 《考えるや感じる》世界を超えており それはただその神の名を心に受け容れるということをとおして抱くことになりそう成った心の動態としての信仰をとおしてのみ いわば人間がかかわることのできる存在(または 非存在)である。そのようなわが心なる《非思考の庭》が 信仰である。   (お) この信仰からヒラメキなどの直感をとおして得た思いや考え これを思想として表現することがあり得る。これは オシエであり それをすでに集団化した者たちの教義とするなら そこに《宗教》が現われる。――この組織宗教は 個人の信仰の言わば蝉の抜け殻である。   (か) こういったことを語ったと思われる。――この前提事項をもむろんご批判ください。  3. さて問題は 次です。   (き) 《人間イエスは 神キリストである》は 思想としてはいわゆるアラヒトガミのことです。   (く) ただしイエスのばあいは 神そのものが《想定》に成るものですから キリストと呼ばれるようになったことも物語であり 命題としてはドグマです。――このことは 日本における現人神が どう捉えられているか・つまりドグマなのかどうかが分からないので ひとこと触れておくという意味にもなります。   (け) 日本人のあいだのいわゆる自然宗教――つまり実際にはその集団的宗教の問題ではなく 個人一人ひとりが自然にいだくに到っているそれとしての信仰のことです。つまり これは たとえば《もののあはれを知る》といったかたちで説明されます――をもって   もういちど繰り返すなら 個人の自然にいだくおのおの自由な信仰をもって 一般に欧米のクリスチアニズムに相い対するという交通のかたちで 要は足りるか? これがひとつの問いです。   (こ) むろんこのいま言った自然信仰は じっさいに生活に生きているその動態です。ですから 経済的・政治的また文化的な活動をとおして クリスチャンたちと相い向かい対話を展開するわけですが そのとき 信仰じたいの説明はどうなっているか? という問いが向けられたときには どうするか。こういう背景です。   (さ) そのときの対話交通においては わたしたちは クリスチャン側の《イエス・キリストなるドグマ》については 話の前提としてみとめた上でということになるのではないか? それとも ドグマなのだから 認めないという判断をすでに持ってのぞむのか?   (し) なぜドグマであっても 話の前提としてみとめるほうがよいと考えるか? これは 項目を次にあらためます。  4. 話を 《闇の中にいつづけていたひとが 光を知るにはどうしたらよいか》という問いから入るかたちとします。   (す) ひとつに衆生縁の慈悲があります。人びとの思いやりです。これをとおして 光を知る入口にまでみちびかれると思います。   (せ) ひとつに科学のチカラがあります。ものごとの世界の普遍的な認識としての知性的なチカラです。目の治療を例にとっても 光が見出され得ます。   (そ) 次には 《みづからがさささやかな光となることは出来るか。成るにはどうしたらよいか》という切り口ですが ひとつには 《ひとには 神の霊がやどる》という想定を持つことです。   (た) これは 必ずしも勝手なドグマではなく 神をナゾの何ものかとして想定したとき ほとんどそのことに付随していることだとも考えられます。   (ち) その《神の霊》は ブッダター(仏性)ともアートマンともルーアハともプシュケーやプネウマともアニマやスピリトゥスとも たましいとも言われます。〔これは (あ)(い)の前提事項です〕。   (つ) 問題はここからです。《みづからが光となる》のは その心にやどるブッダターによって人間みづからがその努力(ハカラヒ)によって成すのか?    (て) 言いかえると 《人間が人間であると同時に神である》というまぼろしの想定は 要るか要らないかです。要るというのは 人間がみづからのチカラによっては 心の燈心をともすことは出来ないという人間の限界をみる見方です。   (と) 思いやりなる光のようなものは 人間がその知性などのチカラで持ち得ます。ところが 心の燈心に火をともすことは 人間に出来るか? という問いです。(言わば永遠の火ですね。ロシアでは聖火が消えたそうですが)。   (な) 出来ないという見方に立つなら キリスト神話のドグマを話の前提としてみとめて 欧米人と話をしなければならない。と考えられます。   (に) 果たしてそうかという問いからご見解をもとめます。   (ぬ) 質問者は そうである(ドグマを認めざるを得ない)という見方に立っています。人間だと限界を見てしまうことがある。からという理由です。

  • Credo,quia,absurdumについて

    タイトル中のラテン語を普通は 不合理ゆえに吾信ず と訳しますね。平たく言えば「不合理だから(だからこそ)私は信じる」ということでしょうか。 この「不合理だから信じる」については、手持ちの辞典等では (1)逆説[英paradox]-1)一般に認められている見解と背反する、あるいは少なくともそう見える見解、奇をてらって人を驚かすために大した根拠もなく逆説が語られる場合もあるが、神の経験は尋常の言語では表現できぬと考えて、それを逆説をもって語る宗教的思索家の場合もある。教父テルトゥリアヌス(Tertullianus)の「不合理なるがゆえに信ず」という言葉などはその例。2)は略 岩波小辞典「哲学」44p (2)不合理なるがゆえに信じる[ラ credo quia absurudum est]-〈(キリスト教の)信仰には理性にたよるよりもキリストのオシエと権威に信頼をおくことが必要だ〉〈不合理な、リクツに合わない事柄をマルノミに信じてこそ、合理的なコトばかり信じるよりも大なる信仰が得られる〉という意味の、信仰第一主義を示す命題。《合理的に考えてもどうせ分からないのだから、グズグズリクツをこねずに頭から信じこむほかはない》という長いモノにはマカレロ的敗北主義を意味するものではない、とキリスト教神学では説明する。(この命題は2世紀中頃に生まれたテルトゥリアヌスTertullianusの語と、17世紀以降考えられ、またアウグスチヌスの言葉ともされた。しかし二人の著作をあらっても、こうした文句は見出されない。もっともこうした考えを示す箇所はある)増補改訂「哲学・論理用語辞典」三一書房 226-7p とあります。 もっと調べればいいのでしょうが、思うに、この文言のキモは「信仰は合理を超えたところにある」という解釈でよろしいのでしょうか。 すれば、当方のように「信仰から遠い存在」者には逆立ちしても「信仰」を理解することはできぬ、と考えるべきでしょうか。 また、このことについて解説してある著作などをご紹介いただければ有難いです。

  • イエスが なぜキリストか。

     イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には  ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。  ~~~~~~~~~~~~  * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~  ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。  ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~  わたしは乾いている地に水を注ぎ  乾いた土地に流れを与える。  あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ  あなたの末にわたしの祝福を与える。  ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~  主は常にあなたを導き  焼けつく地であなたの渇きをいやし  骨に力を与えてくださる。  あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ◆(α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  ◆(β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと 関係ないというところの《非思考の庭》がわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか?  ご教授ください。

  • イエスが なぜキリストか。

     イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には  ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。ぎゃくに言うと なぜこのコトに一般にクリスチャンは注目しないのか? と問います。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。  ~~~~~~~~~~~~  * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~  ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。  ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~  わたしは乾いている地に水を注ぎ  乾いた土地に流れを与える。  あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ  あなたの末にわたしの祝福を与える。  ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~  主は常にあなたを導き  焼けつく地であなたの渇きをいやし  骨に力を与えてくださる。  あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  (α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  (β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じであるというところの《非思考の庭》 このかたちがわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか? さまざまに展開しえましょうか?  問い求めます。ご教授ください。

  • 《カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい》

     まづこのイエスの言葉の出典は マタイ22:15-22 / マルコ2:13-17 / ルカ20:20-26です。  ただし 解釈を《ゆがめ》て 哲学の視点から問います。次のように解釈しますが それについて自由なご見解をおしえてください。  (ω) 《まつりごと(政治・宗教)》は社会の経験行為としてのまつりごとであり 《信仰》はあくまで内面の問題である。  (ω‐1) まつりごとが 人びとの信仰ないし内面にかかわる《まつり》に介入してはならない。  (ω‐2) ただしそのように言うときには 《まつり》が 個人と内と外との両面に分かれるかと思います。家族のにしろ社会全般のにしろ生活の奥や底に湧き起こったよろこびや祝いにかかわる個人の内面における《まつり》と ムラのまつりとです。  (初穂を神にまつる祭りは 共同体としての生活において 個人とムラとが一体であったでしょうか)。  (ω‐3) ですから 内面から外に出たムラのまつりを 内面の信仰ないしその《まつり》から自由なかたちでおこなうことが出来るか。これも問いのひとつです。《まつりごと》から自由であるのは 当然とします。    (ω‐4) 《まつり》は 神〔ないしけっきょくは同じ意味で神々〕との共食だととると分かりやすいようです。《まつりごと》は そのムラムラのまつりを二階から知ろしめし 収穫のいくらかの部分を吸い上げる仕組みであったようです。  (ω‐5) 現代にあっては 社会が国家としてありその家の第二階も存続していますので その《カエサルのまつりごとのものはカエサルに納めるべし》という見解が残っていましょうか?  ☆ 信仰と宗教とのちがいが ここでいちばんの問題であり問いの発端です。おわかりのように次の質問を継いでいます。そこでの質疑応答をも承けて 問い求めを自由に発展させてください。  【Q:信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5364088.html    日本人の哲学はここにありという言論を魅せてください。

  • 《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?

     哲学として定義してくださいませんか?  宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。  質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。  1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。  7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。  10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。  12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。  15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。  16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。

  • 我が神について語ってしんぜよう。

    私は仏と言う言葉を現代語に直すと人間と言う言葉だと思っていてな。 天啓のごとく悟った人間と言う言葉のそのような尊さを信じ、人と人が信じあう事こそ信仰だと考えていた。 多くの人々はひとを信じようとしない。 したがってこのように歩む道のりは困難であった。 しかし最も深い闇において、それでも信じると心が固まった時、光が舞い降りた。 仏教で言う無量光である。 それは神について知ろうとしなかった私にとって、神と名をつけることすらできない、無垢で純粋な光であった。 しかし私はその光と通じる事によって、私の方から、あえてその光をアマテラスと呼ぶ事を選んだ。 その光は本来、名も無き光であり、神と言う言葉すらも遠ざけるその無垢さが、すなわち無神論と言う信仰の在り方である。 以上は仏を信じ神を信じないとはおおむねこのような論理であると考えて構成しました。 このような哲学はキリスト教に由来した西洋の哲学とは別に、地に足の付いた哲学をしようと志していまして、宗教的な話とは違う趣旨手ご質問差し上げています。 信仰心を明晰な理性のまな板の上で料理するとするとあなたならどのような考えが浮かびますか

  • イエスが なぜキリストか。&宗教の解体について。

     イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には   ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。ぎゃくに言うと このことに一般にクリスチャンは注目していないと思われるのですが それはなぜか? と問います。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~~~~~~~~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。      *(註) 《聖書に書いてあるとおり》 について次のようであるようです。:   ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。   ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~   わたしは乾いている地に水を注ぎ   乾いた土地に流れを与える。   あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ   あなたの末にわたしの祝福を与える。   ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~   主は常にあなたを導き   焼けつく地であなたの渇きをいやし   骨に力を与えてくださる。   あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるというだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての研究やその成果 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  (β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じ普遍神であるということ。そのときには 信仰として《非思考の庭》なるかたちがわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  (γ) おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  ・普遍神とわれとの関係なる信仰の類型としては:    梵我一如ないし霊霊一如(これが 非思考の庭)すなわち     梵:ブラフマン神(神の霊):マクロコスモス     我:アートマン(霊我):ミクロコスモス  ・宗教の揚棄・解体については:        神道方式すなわち     ブラフマンやヤハヱ―やアッラーフや     アミターバ・ブッダやマハーワイロ―チャナ(大日如来)や      また《無い神》や何やかやの名にいっさいこだわらない。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか? さまざまに展開しえましょうか?  問い求めます。ご教授ください。

  • 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか

     (α) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないでしょうか?    (β) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の自殺行為ではないでしょうか?  (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないでしょうか?  (δ=α) 宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為であるゆえ その自由は認められないのではないでしょうか?  (ε=β) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為が完成するのでは?  *(ζ) 聖典と呼ばれる文章等の研究組織のみが残るのではないでしょうか?   *(η) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?