• ベストアンサー

豊臣秀頼の父は誰?

NHKのドラマを見てると、秀頼の父は石田光成ではないかと思ってしまいました。 歴史的(医学的?)に見て、秀頼の父は誰と考えていいでしょうか?(秀吉or光成or其の他?)

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • mn214
  • ベストアンサー率23% (306/1302)
回答No.3

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1896555.html 過去にも同じ質問が何度もありますよ。 秀頼は本当に秀吉の子なのか疑わしい、という話は昔からありますね。 結論から言えば、“確かに疑わしい部分があるが実際には解らない”、ということになってしまうかと思います。 当時は徳川幕府の大奥制度のような男子禁制ではなかったために、秀吉の側室である淀殿の傍に他の男が簡単に近ずくことが可能だった状況です。 しかも秀吉は女好きで有名であり、側室も数名いたのに子供がいなかったという人物であり、昔の史料では秀頼の他に1~2名の子が誕生したらしいが幼い頃に亡くなっているらしい(どこまで正確かどうか不明)。 しかも秀頼は体格など全体的に秀吉に似ていない等々。 様々な理由から必ずしも秀吉の子ではないのでは?という疑問が昔からありますね。 一般論から言えば最も怪しいのは側近である大野治長というのが通説です。 淀殿の傍にいつもいる乳母の大蔵卿局の息子であり、母親の後押しで豊臣家の側近になった人であり、淀殿が最も信頼していつも彼女の側にいた人です。 このように大蔵卿局&大野治長の母子は、淀殿個人の後ろ盾によってのし上がった人ですから、豊臣家への忠誠というよりも淀殿への忠誠だけのタイプかと思われます。 これに対して石田三成という人は豊臣家に忠誠をつくし豊臣家大事の人ですから、主人に当る淀殿にちょっかいを出すようなタイプではないと思います。 これまでの歴史物は一般的に大野治長と淀殿との密接ぶりを描いていましたが、今回の大河は石田三成と淀殿が怪しいような描き方をしていますので、テレビドラマは演出次第のようで、現在では真実は知りようもないですね。

korosuke8
質問者

お礼

参考になりました。 テレビを見ていたら光成の子のように思えましたが、大野治長の可能性がたかいですね。 ありがとうございました。

その他の回答 (2)

  • chie0608
  • ベストアンサー率0% (0/3)
回答No.2

豊臣秀吉であってると思います。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%A0%BC
korosuke8
質問者

お礼

ありがとうございます。 参考になりました。

回答No.1

諸説あるようです。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%A0%BC
korosuke8
質問者

お礼

ありがとうございます。 参考になりました。

関連するQ&A

  • 関ヶ原でなぜ西軍の総大将は豊臣秀頼でないのか?

    なぜ関ヶ原での西軍の総大将は豊臣秀頼でなくて石田光成なのでしょうか? 嫌われ者の光成でなく、秀頼が総大将だったらまた違ったのでしょうか?解説どうか、よろしくお願い致します。

  • 豊臣秀吉の子供は本当に豊臣秀吉の子供か?

    豊臣秀吉の子供は本当に豊臣秀吉の子供なんでしょうか。53歳で最初の子供が生まれたなど信じられません。あの頃の武将は子供を沢山もうけて、他の武将との政略に使うわけだったのに、若い頃に子供が出来ずに50何歳から子供がやっとできたなど、本当に豊臣秀吉の子供かと疑問に思います。秀頼など、石田光成の種なんではないでしょうか。もっとも、私は歴史音痴ですが。誰も今まで、疑問を呈していた人はいなかったのでしょうか。

  • 豊臣秀頼の最期

    大阪城を枕に討ち死にした秀頼の最期は、史実としてはどうなのでしょうか? かつてのNHK大河ドラマでは、隠れていた蔵に自ら爆弾を仕掛けて蔵もろとも淀君も一緒に自爆したことになっています。他のドラマでは詳しくは描かれていません。他の評伝やドラマや史料では?

  • もし豊臣秀頼が女だったら?

    私は豊臣贔屓で歴史シュミレーション小説等を楽しみにしているのですが、自分でも暇つぶしにあれこれ考えたりしています。 そこで最近考えているのがタイトルの件なのですが、もし豊臣秀頼が女児として出生していたら、その後の歴史の推移はどうなるか?ということです。 史実では秀頼は唯一の秀吉直系男子として、徳川幕府に滅ぼされてしまうのですが、この場合かなり違った歴史が展開されると思います。 具体的にはその姫に相応しい同年代の男子を豊臣家へ婿養子として迎えるという流れになるのでしょうが、その婿殿次第で私が考えられるだけでもいくつかパターンが考えられました。 例えば‥‥ I豊臣仙千代丸(豊臣秀次嫡男1590年生) 最も豊臣家との血筋が近い婚姻になり、周囲も納得しやすい人選。 秀次は姫の岳父になるため失脚事件が起こらず、関白職を続け最終的には自分の嫡男が後継者になることが予想でき、豊臣家の安定に繋がる。 (徳川家の勝率がかなり下がる) II松平忠直(結城秀康嫡男1595年生) 史実の秀頼・千姫の婚姻のように徳川家康を取り込むことで豊臣家ではなく、豊臣政権の安定を図るという人選。 忠直を選んだ理由は結城秀康が秀吉の養子だった事で、徳川家で最も豊臣に近い人物だから。 この場合は比較的史実に近い展開になりそうな気がします。 秀次は結局失脚し、秀康が比較的短命なため後見役を失った豊臣家は星治か武力の差はあれ、徳川家に政権を奪われてしまう。 他に徳川家からでは松平忠輝もありえるかもしれません。 III宇喜多秀高(宇喜多秀家嫡男1591年生) 姫の婿を選ぶ前に秀次失脚事件が起きてしまった場合に考えられる豊臣側からの人選。 父は五大老で秀吉の養子だった秀家、実母は同じく五大老の前田利家の娘で秀吉の養女でもあった豪姫。 直接の血縁はないものの秀吉の心理的に近い人物が関係し、対徳川を意識した婚姻だと思います。 最終的には徳川家との東西決戦になりそうですが、婿殿は高台院が実子のように可愛がっていた豪姫の実子であるため、この動き次第では史実より勝率は高くなりそうかなと。 以上が私が大まかに考えた有力候補なのですすが、ご興味を持たれた方がいらっしゃれば、(1)婿候補とその理由 (2)その後の展開等をお答え下さい。 よろしくお願いいたします。

  • 豊臣秀吉の子

    豊臣秀吉の子には、私の知っている範囲では、夭折した国松というのと、秀頼というのがいたように思います。 歴史には詳しくありませんが、ふと疑問がわいてきました。というのは秀吉は部類の女好きだったと小説などで理解しているのですが、それにしては、子供が少なすぎるように思います。 疑問点は2点です。 ほかに子供はいなかったのでしょうか???     国松と秀頼は本当に秀吉の子でしょうか???

  • 「秀頼が秀吉の実子ではなく、石田三成が淀殿と密通して生ませた子」

    「秀頼が秀吉の実子ではなく、石田三成が淀殿と密通して生ませた子」 と言う説がありますよね。 その事に関してどのような説があるのか知りたいのですが……。 宜しくお願いします。

  • 発掘されたことのある歴史上有名な人の遺骨ってありますか?

    歴史に詳しい訳ではありませんが、歴史には何かミステリ-を感じます。今まで史料でしか知らなかった遺構の大発見や有名人の遺骨発掘ってどんなものがあるのでしょうか? 今までに 伊達政宗、豊臣秀頼、石田光成、徳川将軍家、俊寛の遺骨が発掘された話や奥州藤原氏のミイラの写真を見たことがあります。

  • 豊臣秀次存命なら・・・?

    豊臣秀次は凡庸とされていますが、一説には、優柔不断であるが、思慮深く、機知に富んで、民思いであったという話もあります。 秀頼が一人前になるまできちんと関白を勤め上げ、その後の秀頼安定政権を望んでいたとも・・・ しかし、その人柄の良さが、秀吉の疑心暗鬼を生み、石田三成らを利用して、失脚させ、挙句の果てには切腹させたという悲惨なことに・・・ 朝鮮でのまともな軍事的活躍も、女子供を切り殺したと三成らに歪曲して秀吉に伝えられ、その怒りを増長したとも言われています。当然、秀長と同じく三成らにとっては、余計な人物だったのでしょう。 2代目、3代目の優柔不断さ(一発勝負はしない)は成功につながるとよく言いますが、もし、秀次の庇護のもと秀頼が、家督をまともな形で継いだら、豊臣政権ももう少し長く続いていたでしょうか? 家康は、どのような手を使ったでしょうか? ※真田丸の秀次さんは、好演されてますね~きっとあんな感じの方だったんでしょうね~

  • 大坂の陣の前に豊臣秀頼の官位は剥奪された?

    豊臣秀頼は、大坂冬の陣の前の時点で正二位・前の右大臣という高い官位を有していました。秀頼の父である秀吉、その養子である秀次は、いずれも関白任官の直前には「正二位内大臣」の官職にありましたので、秀頼の「正二位・前の右大臣」という官位官職は「関白任官待ちの状態」と言えます。 これに対し、 徳川秀忠 従一位 右大臣 征夷大将軍 徳川家康 従一位 前の右大臣 前の征夷大将軍 の両名が「鐘銘事件」をきっかけに「因縁をつけて」、豊臣秀頼と断交し、諸大名を動員して大坂城を攻囲するに至ったわけですが、その過程で * 徳川方が朝廷に工作し、豊臣秀頼の官位を剥奪させた。 * 同じく徳川方が朝廷に工作し、豊臣秀頼を追討することを正当化する文書を出させた。 などということが行われたとは聞いたことがありません。 「正二位の高位の公卿を討つ」という尋常ならざる事態ですから、 「予め、秀頼の官位を剥奪して無位無官の地下人に落としてから天下の兵で攻撃する」 といった手続きが要るように思うのですが、そのような手続きは踏まれなかったのでしょうか?

  • 豊臣家の子孫

    現代に「羽柴」と言う姓の人が居ます 名前も「秀○」だし 明らかに秀吉一族の子孫と思われますが 公式には豊臣家の血筋は秀頼で途絶えたとなっています 現代に残る羽柴氏とは何者でしょうか? 秀吉の直系…秀頼→国松で断絶 秀次の直系…六条河原で一家打ち首 秀長の直系…男子はおらず断絶 他にも 羽柴秀勝や秀保の子孫も途絶えています 徳川時代に豊臣及び羽柴家が再興されたとは聞かないし…