(1)対象が存在するか否かというのは一般に回答が困難な問題。たとえば2002年4月1日午前5時7分にrichanという人間が提起した質問というものが実在するか、という問題を考えてみる。
(2)上掲の質問を少なくともcogitoは読んだ。そういう意味では、2002年4月1日午前5時7分にrichanという人間が提起した質問というものは実在したと考えられる。
(3)しかしたとえば、このOKWebの存在を知らない、あるいはネットをやらない数十億の人間にとって、2002年4月1日午前5時7分にrichanという人間が提起した質問というものは実在するのか否か・・・ここをrichanはどう認識するかが実は大きい。
(4)ある対象は存在を認識されて初めて存在すると言えるのかどうか。認識されなくとも存在すると言えるのかどうか。これも大きな問題。
(5)たとえば、richanにとっては、リトアニア共和国の首都ビリュニスの市長というのは存在するか?
(6)上記(5)にたいするrichanの考えをお聞きしないことには、神の存在についての話しは進まない。ただ、ここのマナーとして、議論、論争は避けるべきだと考える。
(7)ちなみに「神は人間の想像力がつくりだした産物」と断定する者もいる。
(8)さらに、ちなみに、聖書には「みだりに神の名を口にしてはならない」とも記されている。
(9)最後に、神学者の言説と牧会者の言説のいずれに真實が存在するか、という課題を提示して、おわりにしたい。
(10)Venez a mois, vous tous qui peinez sous le poids du fardeau, et moi je vous donnerai le repos.(Matthieu 12:28)
お礼
いえいえ。すいませんでした。 僕もただの気まぐれで聞いていますので