- ベストアンサー
仮面ライダーの当時の製作状況について
- 仮面ライダー関係の本やサイトを見ると、当時の製作状況が明らかになっています。
- 低予算での製作であり、ロケ地も限定されていたようです。
- 番組の人気にも関わらず、テレビ局からの予算が十分には支給されていなかった理由が不思議です。
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
昭和55年に朝日ソノラマから発売された「ファンタスティックコレクション・仮面ライダー」 昭和60年に同社から発売された「仮面ライダー・変身ヒーローの誕生」という書籍を参照。 仮面ライダーの製作スタッフは、当時倒産した日活と大映の映画製作スタッフと、東映の労働交渉で干されたスタッフで構成されたそうです。 撮影場所の生田スタジオも、プロデューサーさんたちが正規ルートを使えず、必死に探し出したもの。 スタジオとは名ばかりの小屋だったのをスタッフみんなで補強したそうです。 いわばゲリラ的に作品を作っていたので、子供番組ということもあり、予算はほとんどつかなかったそうです。 当時はテレビの仕事はありあまっているわけではなく、仕事を干されていたスタッフが起死回生のために「絶対成功させる」とがんばったそうです。 また、当時マーチャンダイシングはそんなにおおきな比重があった訳ではなく、スポンサーは製作が決まってから探したといった状態。 そして最大の難問は、当時の裏番組が「巨泉の頭の体操」という高視聴率番組だった事です。 一文字ライダーになってから「変身」のポーズとかけ声で人気が急上昇しました。 一文字隼人役の佐々木剛さんが、柔道一直線での風祭右京というライバル役で大人気だったこともあり、 認知度が上がっていったのです。 藤岡弘さんの怪我による一時降板が、マイナスにならず、スタッフが一丸となり、プラスに変えた。 予算がもらえなくてもがんばった結果だそうです。 仮面ライダーの製作スタッフの殆どは、「柔道一直線」からの移行です。 仮面ライダーを楽しむには、まず柔道一直線を見るのが早道。 変身ベルトは、ポピーより前にタカトストイスから商品化されましたが、 「光る!回る!変身ベルト!きみも変身ベルトを締めて強くなろう!」のCMが ポピー(バンダイ)の勝利を決定しました。撮影スタッフに試作品がプレゼントされ、 新1号時代になると、これを元にした変身シーンでのタイフーンが出てきます。 当時をふりかえって、ということで、平山プロデューサーが執筆なされています。 以上、ご参考までに。
その他の回答 (1)
- kogechibi
- ベストアンサー率52% (1899/3587)
補足。 1970年後半に日本列島を襲った、「オイルショック」による物価高騰が、大きく影響しています。 石油関係製品を多く扱う造形・特撮関係はもろに影響を受け、予算削減どころか、製作すら危うくなりました。 もともと、予算がないので造形を「怪人」にして、タイツを基本にした着ぐるみを使いましたが、 人気が出て、造形が派手になり、怪獣みたいな全身着ぐるみにちかい状態になってしまい、相当苦心したそうです。 もともと予算が少ない。物価高。予算をあげても造形や火薬で使い切ってしまう。という状態だったのではないでしょうか。
お礼
どうもありがとうございます。 とても参考になりました。 そうですね、石油ショックの影響もありますね・・・ 高度経済成長がこの時期に終わったと、本にも書いてありました。 私も仮面ライダーの書籍は何冊がもっているのですが、関連書籍をそろえると、本棚1ぱいになるとおもいます 汗 仮面ライダーが等身大特撮ヒーローの原点というと、いろいろ意見がわかれるかもしれませんが、その後のキカイダーやレインボーマンなど、さまざまな特撮ヒーローが生まれて、今に至っているのは、とても恵まれた時期にテレビを見れて良かったと思います。 いくらヒーローが登場しても、結局は原点に戻っていきますから。
補足
どうもありがとうございます。 とても参考になりました。 でも、仮面ライダーの人気が爆発して社会現象までおこしたのに、それでも予算をもっと増やして、出してもらえなかったのでしょうか・・・??