JoyWorld の回答履歴

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  • 哲学の意義について作文しました。添削してください

    前回はコレ↓ http://okwave.jp/qa/q7711979.html どのくらい読みやすくなったか評価して助言してください。 わたしは普段簡潔かつ断定的に短い文章で考えを述べてこそ、そも明白さが知性の表れなのだと考えて実践してきました。 このように言葉を膨らませて柔らかくする事は不慣れです。 どちらかと言うと国語的な質問ですがよろしくお願いします。 書店で入門用の哲学書を購入すると、特定の哲学者が著作者である場合には、まずその著作者特有の神との係わりに関する個人的見解と、そこから知性を発達させる手法に関して考え方が述べられています。神と個人の関わりの限りでは哲学であり、広く、神と人とのかかわりであればそれは宗教である。 おもにこのような手法をとる西洋哲学を理解しようとして、日本人が哲学を研究するとなると、文献を理解するためにキリスト教文化への見識が必要になります。 すなわち哲学研究が西洋の精神文化や宗教の研究と混在して日本を含むアジア人が知の探求に取り組むことを困難としています。 その哲学を私なりに定義すると、人間が知性を備えるという事実は哲学が表すように神の存在と関わり、神に対して真剣な答えを求めることが、哲学の問いかけそのものであった、 だからこそ日本人が独自に哲学研究する場合には西洋と同一の手法でありながら日本人としての信仰の風土を尊重し、仏教や神道に関して自らの考えを持つことが大事だ。 なぜなら自らの信仰心からしか神に問いかける事はできないからであり、それこそが人間が知性を持つことの果実だからだ。 知性とは神への言葉である必要があるのだ。 信じてこそ神と通じる。 その言葉は真となる。 そのように信仰を問うことが哲学の前提であり、日本人として自らの考えを正すために西洋から哲学を学ぶとすると、自らの信仰を明らかにする必要がある。 哲学を志とすれば、宗教そのものについて考えることと、哲学として考えることの違いがおのずから出てくるのだが、それは同一であり、哲学の起源から知性とは神を問うことに生かされ神の発見が人間知性の起源ではないかと類推します。今まで日本人が行った哲学は、仏教文化により無我でありながら、あえて我として考える、とでもいうような苦し紛れの言い回しがあったのでその点に焦点を当てようと考えています。

  • あなたのアイデンティティは?

    あなたのアイデンティティは何ですか? 「一言」でお願いします。

  • セントメディアという登録制の派遣会社にて、説明会と面接をしてきました。

    セントメディアという登録制の派遣会社にて、説明会と面接をしてきました。 希望の仕事を紹介できる場合は当日の所定時間内に連絡があり、紹介できない場合は連絡がないと説明されました。 その時間内には連絡がありませんでしたが、当日に連絡があって他の仕事なら紹介できると言われて、詳細はまた後程お電話いたしますとのことで待ってる状態なのですが、一週間たっても連絡なくて不安です。 どなたか同じような経験をお持ちの方、登録制の派遣会社に詳しい方がいましたら色々お話聞かせてください。

  • 確率の解釈

    確率に解釈が必要な理由を教えてください。 また代表的な解釈を教えてください。

  • 何故なお神を勘違いしたままでいるのか?

     人はなぜ 神を勘違いしつづけるのか?  A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜその《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?  D-2 特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。ただの心の表層の心理でありその共同化であるに過ぎない。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象してつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神とは何か?) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • 仏教の”空”とは何ですか?

     「空」という意味がわかりません。 日経朝刊4・29 最終面(文化)広告 右下 新潮新書 傷ついた日本人へ (ダライ・ラマ14世) ・嫌いな人を「空」としてみる と書いてありました。この意味がわかれば私もいやな思いをすることがなくなり本当に楽になります。 なんだか難しそうで、本を買って読んでも理解できないと思います。 ぜひこの意味を教えてください。

  • 思考も有機体の生化学反応なる物理現象に他ならない

        人間の行うあらゆる精神活動、哲学を含めあらゆる形の思考も有機体の生化学反応なる物理現象に他ならない。 このよーに考えて良いのではないか。    

  • 自己の居場所。

    カテゴリ違いでしたら申し訳ありません。 23歳学生です。 人生右も左も分からぬ、と胸を張るには些か年を取り過ぎていますが、人生がそれこそ右も左もわからないので質問させて頂きました。 自分は今、金銭にも娯楽にも価値を見出せず、かと言って学問に興じると訳でもなく、中身の無い人間です。薄っぺらい体面ばかりを気にして、それから逃げるように恥と外聞から耳を閉ざしています。親や周りの人間に迷惑ばかりをかけ、悪しき性格を自認して尚そこから抜け出せないのです。 精神科にも受診しましたが、答えはアダルトチルドレンと言う病気でも性格でもない非常に曖昧な診断を受けました。概して親の教育が子の歪んだ性格を規定する、と言ったものです。親に責任をなすりつけるようで(と言うのも自分の偽善の感情かもしれませんが)、相談も出来ないです。実際に苦しんでいる方には失礼になりますが、自分は精神病でありたかった事もあります。それは病院に行く前も偽れない程大きくなった感情です。精神病にカテゴライズすることが免罪符のように義務や責任を精神病に丸投げ出来ると思っていたのです。 先に人生がわからないと述べましたが、突き詰めるとやはり自分自身を見失っているのだな、と思います。大学生の流行病アイデンティティクライシスみたいな状態です。 地に足がつかず、ふわふわ浮遊している自己が落ち着きません。自分を同定する為に自分を認識すればするほど自分が遠ざかっているような気さえしてきます。 自己がどこにあるのか、全くわからないのです。 一般論でも経験論でも構いません。アイデンティティの居場所に関して、どなたかご教授お願いします。

  • 結婚して宗派が変わったのがいやです

    こんにちわ! 私の実家は西日本で一番メジャーとされる宗派(仏教)です。その宗派をA宗とします。 しかし結婚したら宗派が変わってしまいました。B宗とします。   当初、全く抵抗はありませんでした。別に元々、熱心な仏教徒でもありませんでしたし… ところが婚家はお寺関係者が多く熱心な信徒でした。 なんせ義母実家がB宗のお寺で、義父(元はA宗)と結婚してしばらくして、婚家の宗派をB宗に変えてしまったほどの信徒です。私にも詳しく教義を指南してくださいました。 ところが、教えてもらえばもらうほど????????な疑問を抱くようになりました。 なんか、納得いかないのです。教義が。なんか独善的すぎて。 自分の人生観からはかけ離れた考えです。 シンパシーどころか最近は嫌悪感まで持ってます。 最近、法事みたいなのに出席することも苦痛です。B宗すばらしいだろ~世界一だろ~と、同調を求められるのもうんざりです。もう祭事も欠席しようかと思ってます。 A宗が特別だとは思ってません。ただ考えを強要はしませんでした。 自分が納得する教えを探したいです。

  • なぜ人間には死を望む回路があるのか?

    進化論的に考えて、どう考えても淘汰されそうな回路なわけですが、 淘汰されずに残っている理由を、進化論を踏まえてお考えいただければ幸いです。

  • 進化論と創造論

    こんにちは。 私はクリスチャンです。 日本には進化論を否定する創造論者は居るのでしょうか? 私は現在の人間が今に至るまでのプロセスが進化論が伝える様なものであったのか、創造論者が伝える様な6日間で世界は造られ~という過程であったのかに対して明確な考えを持っていません。 しかし、私にとってそれらはあまり重要な事ではなく、進化という過程を経たにしろ土からいきなり人間として造られたにしろとにかく神が人を造ったという所に意味を感じています。 そんな私から見て、ムキになって創造論者と進化論者が争っている姿がよく理解できないのです。 私は聖書は真実/真理の書である事は疑いの余地無く信じています。でもそれが形而下的意味での事実の書であるか否かは解りません。私にとって形而下的事実と真実/真理は必ずしも同じではないからです。 神が人間を造った。これは事実です。この事実さえ解っていればその過程が1日もかからずに造られたのか進化論が伝える様な過程を経て造られたのか、はたまた全く別の過程であったのかはあまり重要ではないというのが私の考えです。 聖書に書かれている様に、愚か者は何をしても神を侮りますし、進化論者相手に創造論を証明できる方法がある様にも思えません。 つまり進化論者に創造論を主張する事自体が私から見てとてもナンセンスです。 そんな私から見て創造論者の方に一つの疑問があります。 「創造論が破れ、進化論が決定的な証拠を得たとしたら、あなたの信仰は揺らぐのか?」と。 もし創造論者の方がいらっしゃいましたら、私の考えに対するご意見と、上記の私の疑問にお答え頂けると幸いです。 よろしくお願い致します。

  • 神の存在証明についての本

    キリスト教学の授業のレポートで、神の存在証明についてレポートをかくことにしました。 しかし探してみたのですが、1人の証明法しか載っていなかったり、そもそもタイトルで『存在証明』と明記されているものが少なく、検索方法にも困ってしまいました。 そこで質問するという手段に出たのですが、どなたか存在証明について載っている本で「これが分かりやすいよ!」「いろいろ載ってるよ!」というのを知っている方がいらっしゃれば、回答していただけると幸いです。 授業では 目的論的証明 本体論的証明 宇宙論的証明 道徳論的証明 についてさらっと触れたので、これらの証明の話が(簡単にでも)載っている本だとより良いなと思います。 なおお手数ですが、図書館や本屋で手に入る本だとありがたいです。

  • 利他(他我愛)こそが世界を救う

    利他(他我愛)こそが世界を救う、と私は思います。 そして、それが「真の利己」だと思います(利己は利他を包含する) 皆様は、どう思いますか? どんなご意見も受け付けます。

  • 「魔女の宅急便」をみてユートピアを考えました。

    スタジオ・ジブリのアニメーション映画で「魔女の宅急便」というのがありますが、久しぶりのテレビ再放送をみて、ユートピアを考えました。 この作品は、魔女の一家に生まれたお嬢さんが13歳になった機会に親元を離れて、自分が選んだ町で自分の能力を活用して自活・自立しようとする浪漫的な劇画です。 この作品の主題は少女の自立なのかもしれませんが、愚拙の印象に残るのは、その背景になる町と、その町の人々の生活です。 町は、アドリア海に面する坂の町かつ石の町のイメージで、時代は1950年ぐらいでしょうか?町にはキリスト教会を彷彿とする時計塔があり、シトロエン風のトラクシオン・アヴァンや、運転手と車掌の2名乗務のディーゼル・バスが走っているかと思えば、白黒のブラウン管テレビの放送があったり、トランジスタラジオがあるとおもえば、パン屋はマキを燃料とする竈(カマド)でパンを焼き、1930年代のツェッペリン号のような飛行船が飛来したりする想像上の町です。 路面電車にはなぜかKumadenという表示があって、日本で言えば熊本のイメージも入っているのかもしれませんね。 私がこの映像をみて感じるのは、すべて過去に人類が実現した生活・技術の組み合わせでありながら、現代の人類が経験している、競争社会、ストレス社会、うつ病社会、孤立社会とは異なり、なにか人と人の繋がり(あるいは魔女と人のつながり)があって、実際に見たこともない街に郷愁を感じる事です。 もちろん、これは、宮崎駿さんやスタジオ・ジブリの創造であり、虚像であるわけですが、この虚像を実現できなかった理由はなんでしょうか? すくなくとも科学技術ではありませんね。 我々が未来に求めるユートピアも科学技術の進歩によってもたらせると考えるのは間違えで、現代の人、あるいは19xx年代の人類が享受した科学技術の範囲内で人々が幸せを感じるユートピアができなくちゃイケねぇんじゃないのか? キリスト教原理主義者がイスラム教原理主義者に劣化ウラン弾を打ち込むわけでもなし、18歳の小娘が売春をするわけでもなく、出家坊主が肉食妻帯で葬式ビジネスにまい進するわけでもない社会。 そんなユートピアを作るのに21世紀の科学技術は必要なくて、今以上の科学技術も必要なくて、スマートフォンは必要なくて、MRIも必要なくて、交換手扱いの電話と、古典的な笑気ガスの麻酔ぐらいで良いののではないか。 だとしたら、現代に生きる我々は、スマートフォンとMRIと劣化ウラン弾を手にした我々はなぜユートピアを実現できないのか? 現代の科学技術でユートピアを実現するためには何が必要なのか?われわれに欠けているモノは何か?みなさんのお考えをご教示願えれば幸いです。

  • 無が有を生むには、無限の無がなければならない

      無から有が生まれたとするビッグバン理論において、無が有を生むためにはビッグバン以前に既に無限の無が存在しなければならない。 つまり宇宙は無限でなければならない。 やはりどのよーに考えても宇宙は無限である以外にないのではないか。 あ~、    

  • 何故魂に入れ物があるんでしょう

    何故魂に入れ物があるんでしょう? それと、もしも生物が元はアメーバだったとして、進化する理由はあったんでしょうか? アメーバのままでも生きられるではありませんか。 アメーバのままなら争いも起きないと思います。 魂というのは存在しないんでしょうか? あなたなりの考えを教えて下さい。

  • ある能力において人は神を超えている

    人が作り出す道具、例えば車やコンピュータなどは移動能力、計算スピードにおいて人の能力をはるかに超えています。 もし、神が人の創造主であるなら恐らく私たちはある領域において神の力を超えた存在であるはずではないでしょうか。 恐らくそれは知性だろうと思われますがどうでしょうか。

  • ある能力において人は神を超えている

    人が作り出す道具、例えば車やコンピュータなどは移動能力、計算スピードにおいて人の能力をはるかに超えています。 もし、神が人の創造主であるなら恐らく私たちはある領域において神の力を超えた存在であるはずではないでしょうか。 恐らくそれは知性だろうと思われますがどうでしょうか。

  • とある仮説が思い浮かんだのですが、どう思いますか?

    こんにちは。 僕は平均的に普通の部類に入る高校三年生です。 進学の機会を失い、就職を目指してはいますが、哲学に興味があり、それなりに独学して『形而上学』の分野を調べたり研究(とは呼べるレベルではありませんが)したりしています。 ある日、アインシュタインの提唱した『特殊相対性理論』の世界線の図を眺めていて、一つの仮説が思い浮かびました。 言葉で簡潔に表現すると 『未来は『未来の因果律』により、過去の通過地点である現在が過去の因子に干渉しても同じ結果を生む』 という考えです。 つまり、未来はどんな選択をしても現在より過去に原因があるのならば、いくら改善を試みても同じ未来になる……つまり、未来はある程度決まっているのではないか? という考えです。 あまり知識は無いのですが、知り合いに仮説を証明するには『式』にせよと言われたので頑張った結果 {limC_n∋F=α limC_n∋F'=β}α≒β ※C=Causality F=Future 無限に広がる因果が集合したものが未来であり、因子の違いで僅かに違う並行世界が生まれたとしても相似した世界はほぼ同一の未来となる。 という式です。 本当はもっと簡潔にしたかったのですが、勉強不足であるためどうも改善策が思い浮かびません。 また、因果の集合=未来という理論の証明もしなくてはいけないと思うと、なんだか飛躍しているようにも思いますが、出来ればご意見があればお聞きしたいです。 若輩者の考えですが、この仮説はどう思いますか? ご感想をお聞きしたいです。

  • 《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?

     哲学として定義してくださいませんか?  宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。  質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。  1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。  7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。  10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。  12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。  15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。  16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。