old_sho の回答履歴

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  • 事実と真実

    事実と真実の哲学的意味合いについてですが、僕は今まで独自の理解でこの二つを使い分けてきました。 事実とは、人が主観的に造り出す実で、 真実とは、そこに在る客観的な実だと考えていました。もちろん、辞書的定義とは違い、書物を読んだりせずに自分の頭の中で考えたものなので、矛盾が生じたり立ち行かない時もあります。 この間、このような理解の下で、この二つの語を使い、質問をしたところ、事実でも真実でもないとの回答を受け(詳しくは質問をご覧ください。またよければ回答も是非。)、混乱したので、辞書で確認したところ、以下のような定義となっていました。 ◆事実・・・本来、神によってなされたことを意味し、時間、空間内に見出だされる実在的な出来事または存在。実在的なものであるから、幻想、虚構、可能性と対立し、既に在るものとして当為的なものと対立し、個体的、経験的なものであるから論理的必然性はなく、その反対を考えても矛盾しない。 ◆真実・・・※電子辞書の広辞苑で調べましたが、哲学的定義は載っておりませんでした。ちなみに、〔仏〕仮でないこと。究極のもの。絶対の真理。真如。※ みなさん、どうか、「事実」と「真実」の一般的な哲学的定義を分かりやすく教えてください。 そして、「当為」という言葉もよく分かりません。併せてよろしくお願いします。 また、自分の中に独自の哲学的定義を成すことはしてもよいのでしょうか。 それでは、多くの回答をお待ちしておりますので、よろしくお願い致しします。

  • 西洋での自然観について

    『近代科学を超えて』村上陽一郎著 での一節で気になる記述があります。 (Z会 現国問題集より抜粋) 西洋的発想に立てば、人間も自然の一部(被造物)である以上、人間の営みだけを人為として自然から切り離すことを不自然と受け取るー (中略) ー 日本や東洋に対して、機能としての両者(注1)の本質を、後者(注2)よりも融合的に見なす、というのはパラドキシカルかもしれないが、ー (注1)「両者」は自然と人間を指します。 (注2)「後者」は日本や東洋を指します。 質問なのですが、西欧では本当に人間も自然の一部または自然そのものとして考えられているのでしょうか? 旧約聖書では神は人に対して「地上の全てを人に支配させよう」というようなことを言ったのではなかったでしょうか? ですので人と自然を同一視するはずがないと思えます。 人が自然の範疇内であれば、自然という言葉には勝手に変化する意味合いもあり、それはまるで地球を遠くから眺めた時にあたかも人を微生物のように見るという印象を受けます。つまり人を自然に組み込むと結局は人間不在の考え方になるかと。 被造物すなわち自然、という定義もどうかと思います。 詳しい方のご意見をお待ちしております。

  • アリストテレスの間違いは実験により検証すべきなのか

      かつてアリストテレスは「重いものは軽いものより早く落ちる」と教えたそうである。 もちろんこれは間違いであり、後にガリレオは落下実験を行ってアリストテレスの教えが間違いであることを実証しました。 しかしながらアリストテレスの考えは実験するまでもなく、論理的に間違いであることが分かるのである。(理由:重い物体と軽い物体を紐で結んで一つにすると、合体した物体は最初の重い物体より重くなるのであるから一番早く落ちなければならないことになる。しかし合体した物体は中にある軽い物体によって落下速度にブレーキが掛かるのであるから、この点から考えると最初の思い物体よりは遅く落ちなければならないことになる。従って「重いものは軽いものより早く落ちる」という考えは論理矛盾を生む) さて質問ですが、アリストテレスの間違いはガリレオが行ったように実験によって証明することが重要なのか、それとも実験の必要は無く論理的間違いを示すことがより重要なことなのかいずれでしょうか。 何故このようなことを問うのかと言うと、ここに示したアリストテレスの間違いの類は現代にあっても様々な形で様々なところに登場しているからです。例えばその典型としてビッグバン有限宇宙論の間違い、STAP細胞ペテン、・・・等々いろいろあるからです。    

  • アプリオリということについて

    アプリオリということについてお尋ねします。カントが使っているような意味を含みますが、一般に人間が生得的に持っている-という意味としてここで取り上げておきます。 アプリオリという言い方がなぜ必要なのかということを考えてみました。それは、主体が世界(事物)を客体として眺めるからだと思います。この時、主体の認識が客観的であることを保証するものを求めようとすると、どうしても無限遡航を生じさせてしまいます。  そうさせまいと思えば、デカルトのように神の保証を頼むか、カントのようにアプリオリな認識機能を想定するしかないように思います。デカルトの行った神の存在証明は間違っているので、結局アプリオリな認識機能を想定するしかないと思います。  また、科学の(実証主義的な)考え方においても、やはり、対象となる世界の事物は客観的なものと想定されているように思われます。そして、ある仮説が妥当であることを示すために実証(確認)作業を繰り返すわけですが、その際に、妥当だと判断する際の拠り所となるのは、最終的には実証者の確信に置かれるのではないかと思います(例えば、計測器具の数値を読み込む際の判断する場合や、実験データを組み合わせて何かを判断する場合など)。  その確信の拠り所となるのは、人間にアプリオリに備わっている認識機能あるいは知覚機能を想定するしかないと思うのです。あるいは、アプリオリに備わっている合理性にその根拠を求めるべきなのかも知れません。この考え方でよろしいでしょうか?  もう一つ、認識の際に前提とされている主観-客観関係を取り払ってしまった時、アプリオリということはどういうふうにとらえるべきなのでしょうか。世界内存在という存在態勢は、根本的な認識態勢でもあるはずです。この時、世界内存在という態勢そのものが人間にアプリオリなものなので、認識能力だけをアプリオリなものとして取り上げることにもはや意味がなくなっているように思うのでしょうが、いかかでしょうか?言い換えると、認識能力だけをアプリオリなものとして成り立たせている(存在させている)ものが世界内存在という態勢なのだと考えてよいのでしょうか?  

  • アプリオリということについて

    アプリオリということについてお尋ねします。カントが使っているような意味を含みますが、一般に人間が生得的に持っている-という意味としてここで取り上げておきます。 アプリオリという言い方がなぜ必要なのかということを考えてみました。それは、主体が世界(事物)を客体として眺めるからだと思います。この時、主体の認識が客観的であることを保証するものを求めようとすると、どうしても無限遡航を生じさせてしまいます。  そうさせまいと思えば、デカルトのように神の保証を頼むか、カントのようにアプリオリな認識機能を想定するしかないように思います。デカルトの行った神の存在証明は間違っているので、結局アプリオリな認識機能を想定するしかないと思います。  また、科学の(実証主義的な)考え方においても、やはり、対象となる世界の事物は客観的なものと想定されているように思われます。そして、ある仮説が妥当であることを示すために実証(確認)作業を繰り返すわけですが、その際に、妥当だと判断する際の拠り所となるのは、最終的には実証者の確信に置かれるのではないかと思います(例えば、計測器具の数値を読み込む際の判断する場合や、実験データを組み合わせて何かを判断する場合など)。  その確信の拠り所となるのは、人間にアプリオリに備わっている認識機能あるいは知覚機能を想定するしかないと思うのです。あるいは、アプリオリに備わっている合理性にその根拠を求めるべきなのかも知れません。この考え方でよろしいでしょうか?  もう一つ、認識の際に前提とされている主観-客観関係を取り払ってしまった時、アプリオリということはどういうふうにとらえるべきなのでしょうか。世界内存在という存在態勢は、根本的な認識態勢でもあるはずです。この時、世界内存在という態勢そのものが人間にアプリオリなものなので、認識能力だけをアプリオリなものとして取り上げることにもはや意味がなくなっているように思うのでしょうが、いかかでしょうか?言い換えると、認識能力だけをアプリオリなものとして成り立たせている(存在させている)ものが世界内存在という態勢なのだと考えてよいのでしょうか?  

  • アプリオリということについて

    アプリオリということについてお尋ねします。カントが使っているような意味を含みますが、一般に人間が生得的に持っている-という意味としてここで取り上げておきます。 アプリオリという言い方がなぜ必要なのかということを考えてみました。それは、主体が世界(事物)を客体として眺めるからだと思います。この時、主体の認識が客観的であることを保証するものを求めようとすると、どうしても無限遡航を生じさせてしまいます。  そうさせまいと思えば、デカルトのように神の保証を頼むか、カントのようにアプリオリな認識機能を想定するしかないように思います。デカルトの行った神の存在証明は間違っているので、結局アプリオリな認識機能を想定するしかないと思います。  また、科学の(実証主義的な)考え方においても、やはり、対象となる世界の事物は客観的なものと想定されているように思われます。そして、ある仮説が妥当であることを示すために実証(確認)作業を繰り返すわけですが、その際に、妥当だと判断する際の拠り所となるのは、最終的には実証者の確信に置かれるのではないかと思います(例えば、計測器具の数値を読み込む際の判断する場合や、実験データを組み合わせて何かを判断する場合など)。  その確信の拠り所となるのは、人間にアプリオリに備わっている認識機能あるいは知覚機能を想定するしかないと思うのです。あるいは、アプリオリに備わっている合理性にその根拠を求めるべきなのかも知れません。この考え方でよろしいでしょうか?  もう一つ、認識の際に前提とされている主観-客観関係を取り払ってしまった時、アプリオリということはどういうふうにとらえるべきなのでしょうか。世界内存在という存在態勢は、根本的な認識態勢でもあるはずです。この時、世界内存在という態勢そのものが人間にアプリオリなものなので、認識能力だけをアプリオリなものとして取り上げることにもはや意味がなくなっているように思うのでしょうが、いかかでしょうか?言い換えると、認識能力だけをアプリオリなものとして成り立たせている(存在させている)ものが世界内存在という態勢なのだと考えてよいのでしょうか?  

  • 合意について

    よく合意という言葉を聞きます。例えば、科学の方法において、ある理論を検証するためにテストを重ね、その結果、その理論を妥当なものと認めようとするとき、テスト実施者達の間で妥当だとする合意が必要だと思われます。  ところが、合意がきちんと正しくなされているかどうかをどうやって確認するのでしょうか? その確認を実証的に行おうとするなら、今度は、その際の実証作業が正しいか(妥当か)どうかの確認作業が必要になります。その作業をさらにまた実証的に行うのであれば、実証作業を無限に行わなければなりません。  合意がきちんと正しくなされているかどうかの確認を合意によって行うのであれば、この場合、その際の合意が正しい判断によって行われたかどうか確認する必要があります。この確認も合意によって行うのであれば、上にあげた実証作業の場合と同じく、合意の無限反復になります。  (私としては、科学の方法の揚げ足を取ろうとしているわけではありません。厳密に考えてみたいだけなのです。)  結局、(様々な考えや感じ方を持った)できるだけたくさんの人によって合意がなされることによって、妥当性あるいは有効性を高めるしかないということなのでしょうか?

  • ヘーゲルは国家を本気で神格化したのでしょうか?

    ヘーゲルが国家公務員の集団を擬似神学的な仕方で神聖化したのには多少の誇張があるにせよ、… という記述をとある哲学書の中で見つけ、ちょっとキモチ悪いと思いました。 ヘーゲルが国家を社会の最高の価値を体現するもの~みたいに見なしていた、ということは聞いたことがありましたが、言いかえると上記のような考え方になるんですかね? 国家公務員の集団を神聖化、とは個人的にはキモいですね~ 最近、萱野さんなどが国家論で述べているように、国家なんてある見方からすれば単なる暴力装置ですよね? 暴力装置=神なんて大そうな転倒、パラドックスじゃないか?と思ったのですが、その辺、ヘーゲルは自説には何の疑問も抱かず、こういう思想を展開し続けたのでしょうか? ていうかヘーゲルにはある意味ミーハーというか、力のあるものは良いんだ!みたいなニーチェ的?な発想があったんでしょうか? その辺、ヘーゲルはどういう思想の持ち主だったんでしょうか?

  • プロレタリア独裁から共産主義社会への移行

    マルクスによれば、共産主義革命を実現するためには、一度プロレタリアートが権力を掌握しなくてはならない(プロレタリア独裁)のですよね。 このプロレタリア独裁が共産主義社会への過渡期となるそうですが、この独裁体制が一体どのようにして共産主義社会へと移行するのでしょうか? マルクスは、プロレタリア独裁から共産主義社会へと移行するメカニズムをどのように考えていたのでしょうか。

  • プロレタリア独裁から共産主義社会への移行

    マルクスによれば、共産主義革命を実現するためには、一度プロレタリアートが権力を掌握しなくてはならない(プロレタリア独裁)のですよね。 このプロレタリア独裁が共産主義社会への過渡期となるそうですが、この独裁体制が一体どのようにして共産主義社会へと移行するのでしょうか? マルクスは、プロレタリア独裁から共産主義社会へと移行するメカニズムをどのように考えていたのでしょうか。

  • Bさんの論理、おかしくありませんか?

    一番論理的な思考をする人が集まっていると期待してこのカテで質問させていただきます。 日常よく遭遇する論理なんですが、簡略化してみました。 A「皆さん、私の作った料理、食べてみて批評して下さらない?」 皆さんと呼ばれた客の一人のBさんが食べて、それを批評しました。 B「Aさんも料理研究家なら、私の作った料理も食べて批評して下さいよ」 A「私は料理研究家じゃないから、とてもそんなことは出来ないわ」 B「私も料理研究家じゃないのに、貴方の料理を食べて批評までしてしまいました。とんだおせっかいをしてしまいました。私が食べたこと、私の批評はなかったことにして下さい」 Bさんの最後の言葉、何か腑に落ちないのですが、どこか論理がおかしいですよね?それともコレをすんなり受け入れられない私の脳の構造がおかしいのでしょうか? Aさんの「・・・とてもそんなことは出来ないわ」までは日常でもよくあることで殆ど違和感を感じません。論理的につながっているからでしょうか。しかしBさんの最後の言葉には「何だこりゃっ?」と反応してしまいました。Bさんの最後の言葉は論理的に正しいですか? まあ、会話は感情に支配されますから、そして感情は論理的とは限りませんが、それを言っちゃおしまいよ、ですから、なるべく論理を主体にした回答をお願い致します。

  • 真偽の判断基準は何でしょうか

     日本語を勉強中の中国人です。タイトル通りですが、真なのか偽なのか、真偽の判断基準は何でしょうか。  また、質問文に不自然な表現がございましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

  • 確立の問題 (パラドックス的な・・)

    隣家に新しく一家が引っ越してきた。 子供が2人いることはわかっているが、男の子なのか女の子なのかはわからない。 隣家の奥さんに「女の子はいますか」と聞いたところ、答えは「はい」であった。 一人は女の子確定です。 もう1人も女の子である確率は? 色々と解説見たけど、1/2 1/3 と答えが別れるのですが、結局どうなの? 普通に1/2派なんですが・・ いまだによくわからなくくやしいです。 って聞いても、色々な答えが来てまたグチャグチャになる予感

  • 確立の問題 (パラドックス的な・・)

    隣家に新しく一家が引っ越してきた。 子供が2人いることはわかっているが、男の子なのか女の子なのかはわからない。 隣家の奥さんに「女の子はいますか」と聞いたところ、答えは「はい」であった。 一人は女の子確定です。 もう1人も女の子である確率は? 色々と解説見たけど、1/2 1/3 と答えが別れるのですが、結局どうなの? 普通に1/2派なんですが・・ いまだによくわからなくくやしいです。 って聞いても、色々な答えが来てまたグチャグチャになる予感

  • 確立の問題 (パラドックス的な・・)

    隣家に新しく一家が引っ越してきた。 子供が2人いることはわかっているが、男の子なのか女の子なのかはわからない。 隣家の奥さんに「女の子はいますか」と聞いたところ、答えは「はい」であった。 一人は女の子確定です。 もう1人も女の子である確率は? 色々と解説見たけど、1/2 1/3 と答えが別れるのですが、結局どうなの? 普通に1/2派なんですが・・ いまだによくわからなくくやしいです。 って聞いても、色々な答えが来てまたグチャグチャになる予感

  • 弁証法について

    --最近、弁証法に関心を持って勉強しようとしているところです。若き頃は、自称マルキスト達から弁証法について聞かされ、煙に巻かれていました。ところが、最近、弁証法について考えるに、これはただの問題解決のための方法にすぎないのではないかと思うようになりました。 問題解決の方法としては古来より試行錯誤法があります。どちらも、有力な方法として意識的に使用されてゆくうちに、試行錯誤法なり弁証法なりの名がつけられたものと推測されます。  試行錯誤法の場合、考えをたくさん思いついて、それらを全部試せば、より有効かつ精度の高いものになるはずです。ところが、それには時間がかかります。それに、直感的に、また経験的にこのやり方はダメだとわかるものまで試してしまうことになります。  弁証法であれば、全部試さなくとも、最初の時点で有効な考えが大体絞り込めるのであまり時間をかけなくてもよいと言えます。ただし、思いこみや偏見が混入する余地があるように思います。  結局、どちらのやり方にもそれぞれにふさわしい局面があるのではないかと思います。弁証法で説明すると結果的にうまくいくような場面においてのみ、弁証法がうまく働くというふうに感じています。逆に結果的にうまくいかないような場面において使うと、粗雑で強引なものになったり、場合によっては詭弁に堕するのではないかと思います。この理解で正しいでしょうか。  もう一つ、問題解決が現実になされるためには、現実の日常生活のレベルや社会生活のレベルの問題でなければ解決はあり得ないと思います。よって、神とかかわることや、人間の持つ不変の理性(ヘーゲル的な意味での)といったものを問題解決の方法とで、つまり弁証法で扱うことに意味がないのではないかと思うのですがいかがでしょうか。  以上の2点についてご教授願えればありがたいです。また、それ以外の論点でおかしな点があればご指摘をお願いします。  それと、問題解決の方法でもっと有力なものがあるようなら、簡単に紹介して頂けるとありがたいです。

  • 資料と形相とは

    哲学で「形相」と「資料」と言うものがあるみたいなんですが、とても興味があります。 ですがそこで語られている概念があまりよく分かりません。。 例えば、 レンガの家があるとして、 レンガが資料、 家がレンガが取る「形相」である的なことを書いてあるのを拝読したのですが、 レンガが取る「形相」と言うのは、レンガがどのように積み上げられたか、と言う事なのでしょうか? それとも、家の「形相」、と言う抽象的な概念自体、真実(イデア?)みたいなもの自体があって 実際のそのレンガの家はそれのコピー的な事を言っているのでしょうか? どれもはっきりと「形相」の定義みたいなことが理解出来ません。。 哲学に関してウェブサイトで見た浅はかな知識しかない全くの素人なので、どなたか「形相」と「資料」を易しく説明していただけませんでしょうか? 後、そう言う概念を勉強している学問とは哲学でなんと呼ぶのでしょうか? よろしくお願いいたします。

  • 資料と形相とは

    哲学で「形相」と「資料」と言うものがあるみたいなんですが、とても興味があります。 ですがそこで語られている概念があまりよく分かりません。。 例えば、 レンガの家があるとして、 レンガが資料、 家がレンガが取る「形相」である的なことを書いてあるのを拝読したのですが、 レンガが取る「形相」と言うのは、レンガがどのように積み上げられたか、と言う事なのでしょうか? それとも、家の「形相」、と言う抽象的な概念自体、真実(イデア?)みたいなもの自体があって 実際のそのレンガの家はそれのコピー的な事を言っているのでしょうか? どれもはっきりと「形相」の定義みたいなことが理解出来ません。。 哲学に関してウェブサイトで見た浅はかな知識しかない全くの素人なので、どなたか「形相」と「資料」を易しく説明していただけませんでしょうか? 後、そう言う概念を勉強している学問とは哲学でなんと呼ぶのでしょうか? よろしくお願いいたします。

  • 弁証法について

    --最近、弁証法に関心を持って勉強しようとしているところです。若き頃は、自称マルキスト達から弁証法について聞かされ、煙に巻かれていました。ところが、最近、弁証法について考えるに、これはただの問題解決のための方法にすぎないのではないかと思うようになりました。 問題解決の方法としては古来より試行錯誤法があります。どちらも、有力な方法として意識的に使用されてゆくうちに、試行錯誤法なり弁証法なりの名がつけられたものと推測されます。  試行錯誤法の場合、考えをたくさん思いついて、それらを全部試せば、より有効かつ精度の高いものになるはずです。ところが、それには時間がかかります。それに、直感的に、また経験的にこのやり方はダメだとわかるものまで試してしまうことになります。  弁証法であれば、全部試さなくとも、最初の時点で有効な考えが大体絞り込めるのであまり時間をかけなくてもよいと言えます。ただし、思いこみや偏見が混入する余地があるように思います。  結局、どちらのやり方にもそれぞれにふさわしい局面があるのではないかと思います。弁証法で説明すると結果的にうまくいくような場面においてのみ、弁証法がうまく働くというふうに感じています。逆に結果的にうまくいかないような場面において使うと、粗雑で強引なものになったり、場合によっては詭弁に堕するのではないかと思います。この理解で正しいでしょうか。  もう一つ、問題解決が現実になされるためには、現実の日常生活のレベルや社会生活のレベルの問題でなければ解決はあり得ないと思います。よって、神とかかわることや、人間の持つ不変の理性(ヘーゲル的な意味での)といったものを問題解決の方法とで、つまり弁証法で扱うことに意味がないのではないかと思うのですがいかがでしょうか。  以上の2点についてご教授願えればありがたいです。また、それ以外の論点でおかしな点があればご指摘をお願いします。  それと、問題解決の方法でもっと有力なものがあるようなら、簡単に紹介して頂けるとありがたいです。

  • 資料と形相とは

    哲学で「形相」と「資料」と言うものがあるみたいなんですが、とても興味があります。 ですがそこで語られている概念があまりよく分かりません。。 例えば、 レンガの家があるとして、 レンガが資料、 家がレンガが取る「形相」である的なことを書いてあるのを拝読したのですが、 レンガが取る「形相」と言うのは、レンガがどのように積み上げられたか、と言う事なのでしょうか? それとも、家の「形相」、と言う抽象的な概念自体、真実(イデア?)みたいなもの自体があって 実際のそのレンガの家はそれのコピー的な事を言っているのでしょうか? どれもはっきりと「形相」の定義みたいなことが理解出来ません。。 哲学に関してウェブサイトで見た浅はかな知識しかない全くの素人なので、どなたか「形相」と「資料」を易しく説明していただけませんでしょうか? 後、そう言う概念を勉強している学問とは哲学でなんと呼ぶのでしょうか? よろしくお願いいたします。