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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:アプリオリということについて)

アプリオリな認識機能とは?

old_shoの回答

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  • old_sho
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回答No.6

feedersさんの2件の「と考えてよいのでしょうか?」に対して、答え得る者ではないし、前提とされている事に同意しかねるのですが、若干のコメントを。 まず、確認しておくべきだと思うのですが、feedersさんの考えて居られる「アプリオリ」は、「一般に人間が生得的に持っている」という意だとの事ですが、一般的な意味は、例えば大辞林では、 a prioriとは、近代では「先天的」の意。1)生物学・心理学などで,ある機能が生得的に与えられていること。また哲学,2)特にカントの認識論では,認識・概念などが後天的な経験に依存せず,それに論理的に先立つものとして与えられていること。 この大辞林の説明から「アプリオリな認識」という表現が可能になりますが、そこに言う「認識」とは、アプリオリな判断群、あるいは、或るアプリオリな判断から生成される判断群を指すでしょう。拡張して「アプリオリに正しい」と言う事も出来ますが、その意味はアプリオリな判断群のみから正しさを示す事が出来る、という事でしょう。すなわち a priori とは、まずは「或る判断」または「或る概念」に対して言うのですね。 では、feedersさんの言われている「アプリオリな認識機能」「アプリオリに備わっている認識機能」は、どう解すればいいのでしょうか。「人は認識機能を生得的に持っている」という意味は、生理的な能力(目で見、音を聞き、声を発する)を生得的に持っている、ではないですよね。大辞林の1)の意味ではないでしょう。「カントのようにアプリオリな認識機能を想定する」あるいは「カントの言うアプリオリは果たして論拠を維持できるのでしょうか」と続けて居られるのですから、2)の「論理的に先立つ」に接続されないと訳が分らん事になりますね。「認識能力だけをアプリオリなものとして取り上げる」「認識能力だけをアプリオリなものとして成り立たせている」という表現もどういう意味なのでしょうか。 その表現に近いのはカントでは、時間・空間は感性のアプリオリな形式である、でしょうか。それを、カントが何らかの考えのために「想定した」と言うのは、第3者的判断としてはあるとしても、本人としては「論証」している事ですよね。任意に「想定」した訳ではない。範疇群にしても、任意に設定した訳ではない。本人としては認識の機序を探求しているに過ぎない。 例えば、「幽霊」に就いて論じる時、「幽霊」という言葉があり、それが何らかの意味を持ったものである事は、前提でしょう。幽霊の存在は勿論前提にはされません。しかし、「認識」に関して論ずるに当っては、認識と呼び得る事が在るのは前提でしょう。論ずるというの事は認識を提示する事でもあるのですから、「認識」の先在性は否定出来ない。一般的に言って、何等の前提もない所では、何も論ずる事は出来ないのですからネ。「認識」の成立する論理的前提を探求する事を、「認識能力だけをアプリオリなものとして取り上げること」とは呼べないですね。 20世紀初頭、まだ新カント学派が健在であった頃は認識論は盛んであった訳ですが、その流れが存在論的転換をし、ハイデッガーなどが大きな顔をする時代があった。主観ー客観図式を廃却することとその転換はリンクするとして、ハイデッガーは存在に関するおしゃべりから、認識の成立を語れるレベルまでになっていたのでしょうか。それは知りませんが、存在から語るなら、存在関係の語彙が「範疇」となっている訳でしょう。言語分析こそが哲学として残る道だとする分析派は、言語関係又は論理学的公理を「範疇」としている訳だ。と、私は思います。 後一つ、一連のご質問で、一旦自然科学は保留し、人文系に限定するかのご意見でしたが、戻っていますね。方法論に無自覚な「科学信奉者」が「対象となる世界の事物は客観的なものと想定」している、という認定には同感ですが、その人たちにとっては、「主体の認識が客観的であることを保証」は要らない。私の疑問は、むしろ、feedersさん自身が何等か客観的な保証を求めているのか?という点です。如何。

feeders
質問者

お礼

--回答ありがとうございました。アプリオリということと認識ということについてはおっしゃるとおりだと思います。ご指摘ありがとうございました。  私は存在論の方により強く興味を引かれるたちで、認識論の方は勉強し始めて日が浅いのです。というか、認識の問題になると後回しにすることが多かったのですが、最近、やっと認識の問題も勉強してみようと思うようになったのです。ですから、言葉の定義や使い方にもいい加減なところがあるはずです。もっと厳密に考えることができるようになるにはしばらく時間がかかりそうです。 もっと勉強して研鑽を積んでから質問をしたいところですが、学びの途中でわからなくなることがあるので、不十分な知識を顧みずついつい質問をしてしまうわけです。 一つ気になることがあります。 -ハイデッガーは存在に関するおしゃべりから、認識の成立を語れるレベルまでになっていたのでしょうか。-ということですが、「カントと形而上学の問題」を読む限りでは、私の理解力では(理解力のレベルは低そうだという気がしますが、私なりの理解では)Yesとお答えしたいように思います。認識の成立に対して存在論的に根拠づけを行っているように思えます。 -存在から語るなら、存在関係の語彙が「範疇」となっている訳でしょう。言語分析こそが哲学として残る道だとする分析派は、言語関係又は論理学的公理を「範疇」としている訳だ。と、私は思います。-ということですが、カントが「範疇」という言葉を使うとき、認識主体は一体どこに存在しているのでしょうか?どのような存在の仕方をしているのでしょうか?  ハイデッガーによれば主体は空間の中にいます。世界内存在が主体の基本的な存在(実存)態勢です。ということは、世界を客観的に認識することを可能にする形式や範疇は、ハイデッガーにとっては意味のないものであるはずです。彼にとって、範疇とは実存論的なものです。sorgeという言葉で表されます。 世界を客観的に認識することを可能にする形式や範疇が意味のあるものであるとすれば、世界内存在という態勢のうちの一つの例外的態勢(主観-客観の対立する態勢)においてであると言えるように思います。いかがでしょうか?  返事が遅れてすみませんでした。

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