• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:アプリオリということについて)

アプリオリな認識機能とは?

old_shoの回答

  • old_sho
  • ベストアンサー率38% (20/52)
回答No.7

「お礼」へのお礼が遅くなりましたが、宿題を戴いたようでもあります。一般的な問いなのでしょうが、敢えて個的な問いと受け止めたコメントを。 >世界を客観的に認識することを可能にする形式や範疇は、ハイデッガーにとっては意味のないものであるはずです。 というお言葉に先立って、 >ハイデッガーによれば主体は空間の中にいます。 と仰るのは、論理的に整合していませんね。「主体が空間の中に居る」という認識は、それがアプリオリな直観形式においてある、と言うカントの主張を論駁した上でなければ、カント批判の言葉として成立たないでしょう。ハイデッガーはあるいはした積もりかもしれませんが、feedersさんはどうなのです。空間認識というヤツを何らかの存在態勢から導出出来るとお考えですか。 ハイデッガーの考えは、例えば和辻哲郎が受けて「風土」を論じていますが、ツンドラのブリザードの中であろうと、灼熱の砂漠地帯であろうと物理法則は変わらず貫徹するという科学観は打ち破ってはいないでしょう。 あるいは、 >カントが「範疇」という言葉を使うとき、認識主体は一体どこに存在しているのでしょうか? という問いに絡んで、「空間の中にいます」というのなら、それに対しては、 200年前にヨーロッパの一隅で書かれた論考を読み返し、その「範疇」を我々が理解するという事は、その論理は時空を超えている、というべきでしょう。何も永遠に正しいといっているのではない。ドイツ語で書かれたそれを日本語でも理解出来ているとしたらそれは、何処かに存在しているという言い方は不必要ではないか。言い換えれば、「その言葉を使う時、何処かに居なければならない」ということこそを説明されるべきではないか。 主観客観図式を、例外的態勢にするのは、それを例外だと呼ぶ事によって為されるのではなく、より汎通的な様式の確立をまってではないか。feedersさんには「世界内存在」という言葉が格別なものとしてあるようですが、素人の私には、特に関興の湧かない、どうとでも解釈の出来る、言ってみただけの言葉に見えます。現代世界を席捲している、近代西洋的思考の枠組みを情緒的な言葉だけで片づける事は出来ないでしょう。---いささか挑発的な物言いになってしまいましたが、素人の戯言とご容赦ください。

feeders
質問者

お礼

返事がおくれてすみませんでした。空間についてですが--大変申し訳ないことをしました。空間という言葉を使うに当たってあらかじめ言っておかなければならないことがありました。ここで登場させた「空間」は自然科学や実証主義の言う客観的な空間ではなく、またカントの言うような主観的な色彩の濃いものでもありません。世界内存在というときの世界とほぼ同じものと考えて頂いてよろしいかと思います。 --カントが「範疇」という言葉を使うとき、認識主体は一体どこに存在しているのでしょうか? という問いに絡んで、「空間の中にいます」というのなら、それに対しては、200年前にヨーロッパの一隅で書かれた論考を読み返し、その「範疇」を我々が理解するという事は、その論理は時空を超えている、というべきでしょう。何も永遠に正しいといっているのではない。ドイツ語で書かれたそれを日本語でも理解出来ているとしたらそれは、何処かに存在しているという言い方は不必要ではないか。言い換えれば、「その言葉を使う時、何処かに居なければならない」ということこそを説明されるべきではないか。--に対してお答えします。 --例えばデカルトの場合を例に取って説明します。デカルトは肉体のない精神に認識主体が宿っているかのごとき言明を行いました。肉体がないわけだから認識主体はこの世に存在することはできません。ということは、デカルトの認識主体は想像上の認識主観に過ぎないわけで、現実の世界の中で生きている主体にとってそのような認識行為は不可能なことです。  カントの場合、カントの説のままだと、認識主体がこの世に(世界に)存在できないとまでは言い切れませんが、少なくとも、認識行為が可能であるために、主体が世界に存在できる条件が整っていなければならないと思います。認識行為が可能であるためには、主体が世界の中で行為を行うための条件が存在するはずです。その条件が認識行為を可能にするのではないかと考えます。カントがそのような視野を持っていたようには思えませんが、そのような視野を持つべきだったように思います。 では、自然科学(実証主義)の場合はどうかというと、世界の事物を客観的に見ることが可能だという前提がおかれているわけですが、認識主体が事物を客観的にとらえたかどうかを実証することは不可能です。事物を客観的にとらえたと判断したとき、その判断が正しいことを判断するために、主体の外にさらに認識主体がいなければなりません。それは、不可能です。そのような仕方で人間が生きることはできません。 <カントが「範疇」という言葉を使うとき、認識主体は一体どこに存在しているのでしょうか?>という問いはそのような文脈で提出しました。 -200年前にヨーロッパの一隅で書かれた論考を読み返し、その「範疇」を我々が理解するという事は、その論理は時空を超えている、というべきでしょう。何も永遠に正しいといっているのではない。ドイツ語で書かれたそれを日本語でも理解出来ているとしたらそれは、何処かに存在しているという言い方は不必要ではないか。言い換えれば、「その言葉を使う時、何処かに居なければならない」ということこそを説明されるべきではないか。 --とのことですが、200年前にその論考の著者は確かに生きていたし、それを読む現代人も確かに生きている。両者共にしっかりした存在の基盤を持っていますとお答えしたいと思います。認識行為は生きている(存在している)ということに前提されると思うのです。いかがでしょうか? --主観客観図式を、例外的態勢にするのは、それを例外だと呼ぶ事によって為されるのではなく、より汎通的な様式の確立をまってではないか。feedersさんには「世界内存在」という言葉が格別なものとしてあるようですが、素人の私には、特に関興の湧かない、どうとでも解釈の出来る、言ってみただけの言葉に見えます。現代世界を席捲している、近代西洋的思考の枠組みを情緒的な言葉だけで片づける事は出来ないでしょう。---いささか挑発的な物言いになってしまいましたが、素人の戯言とご容赦ください。  --ということですが、例外的態勢という言い方はよくなかったかも知れませんね。世界内存在という態勢が取りうる様々な態勢の一つと言うべきかもしれません。もちろん、その時の存在態勢は、想像上のものでしかないと言えます。現実には生きることのできない態勢です。  言い方を変えてみます。科学者が何かを研究対象とするとき、彼はその対象に対して何らかの関心を持っています。関心を持つと言うことは対象との間に心理的な断絶が存在しないということです。その時、科学者と研究対象とのあいだに主観-客観は存在しません。ということは、 科学者が主観-客観図式で事物をとらえようとするとき、そうした図式を空想の産物として利用しているということになります。 だから、例外的態勢と言うより、空想上の存在態勢だと言う方が的確なのかも知れません。  以上です。認識論が成立する条件として存在論が必要だと思います。

関連するQ&A

  • 「アプリオリな認識」の実例

    カントが、経験に依存しないアプリオリな認識の実例として挙げているのは、 「時間」「空間」「因果律」などですよね。 しかし、私には、過去から未来へ連続的に流れる時間が実在するという認識も、 3次元的な連続的な空間が実在するという認識も、 ある結果はある原因から生起しているという因果律が存在するという認識も、 全て経験から派生してきたもののように思えてしまいます。 例えばもし、人間が今の世界とは違う、空間が頻繁にところどころ虫食いのよう欠けたり収縮膨大したりするような世界に生まれたり、安定した物理法則がない世界(斉一性の原理が成立たないような世界)などに生まれたら、その世界を経験後、世界をそのようなものとして認識するのではないでしょうか? 「点と点の最短は直線である」という命題が真であるという直感による認識も、 私たちがそのようなに、空間を解釈したほうが生存上有利であるということを経験上学んだにすぎないのではないでしょうか?実際はわれわれの住む空間は平坦ではないのに。 カントのいうアプリオリな認識って、現在ではどのように解釈されているのでしょうか? 感覚器官から入力された情報(光、音、匂い、温度、力)を処理したり記憶したりするための、生まれながら(先験的)に備えている能力のことでしょうか?

  • 純粋理性批判のアプリオリについて

    「物が高いところから低いところに落ちる」という認識がアポステリオリな認識なんですよね? 上記がアポステリオリである理由は「落下という現象は経験しなければ認識できないはずだから」ですよね なのにどうして「すべての変化には原因がある」はアプリオリな認識なのでしょうか ”変化”もまた経験しなければ経験できないはずです この点以前の質問で以下のような貴重な回答をいただきましたが、 https://okwave.jp/qa/q10184750.html 改めて考えてみて「”変化”は経験ではない」「”愛情”は経験ではない」というのであればどうして「”落下”は経験である」といえるんでしょうか 区別する基準がわかりません カントはアプリオリについて直観的に容易に判断できるポイントを説明しているのでしょうか?

  • 純粋理性批判冒頭における、ア・プリオリの範疇説明について

    純粋理性批判冒頭における、ア・プリオリの範疇説明について 現在、宇都宮版、高峯版、中山版にて、純粋理性批判を読んでいるのですが、いずれの版を見ても判然としない所がありまして、質問させていただければと思います。 純粋認識と経験的認識の区別について、同時にア・プリオリ性の範疇について、緒言(序論)1節に説明がなされているのですが、この節の後半で例に出されている、「家の土台を掘り下げた人」がその失敗を回避すべく持っていた必要のあった知識「物体は重さをもつこと」「物体は支えが除かれると落下すること」、この認識が、カントにおいて、ア・ポステリオリと扱われているのか、ア・プリオリの中のひとつと想定されているのか、を教えていただけると嬉しいです。 中山元さんの文庫での解説をみると、3つのアプリオリ性(相対的・絶対だが純粋ではない・純粋)ある中の、上記は相対的アプリオリ性である事が示唆されているのですが、本論ではこの例の直後に、「これから先はアプリオリという場合、個別の経験ではなく端的に一切の経験に依存せず生じる認識についていう。」と流れるため、上述の相対的アプリオリ性が切り捨てられたように感じられ、以後の論述でアプリオリという単語が使われ続けるときに、相対的アプリオリ性を含むのか否かが判然としないのです。 もしくは、この相対的アプリオリ性は、カントにおいては、ア・ポステリオリなもの、の範疇に含まれて論議されているのでしょうか。 もし、この相対的アプリオリ性(家の土台を掘り下げた人が持っていたべき過去の記憶?)が、ア・ポステリオリなものでもないとすれば、この領域がアプリオリとアポステリオリの間で浮遊したままに感じてしまうのですが・・・ なぜかというと「これから先はアプリオリという場合、個別の経験ではなく端的に一切の経験に依存せず生じる認識についていう。」のあとに「これに対立するのは、経験的認識。つまり経験によってのみ可能となる認識である」と対立項が立てられ、しかしながら例に挙げられた(家の土台)相対的アプリオリ性が、どちらに属するのかの説明が入っていないからなのです。 ひょっとしたら深く考えすぎていて、すごく単純なことなのかもしれませんが、3種の版と中山解説を読んでもストンと落ちる場所がなかったので、質問させてください。 よろしくおねがいいたします。

  • 純粋理性批判(Q8)

    純粋理性批判(Q8) 「いかにしてアプリオリな総合判断は可能か」という問題設定をカントがした意味というか意図について教えてください。 「すべての出来事には原因がある」はアプリオリな総合判断だが、この文は、主語から述語が導き出される根拠があるわけではない(総合判断)にも拘わらず、アプリオリな(普遍的)判断に結果としてなっている。 その要因としてカテゴリー分類に基づく悟性というものの存在が想定されざるを得ない。 このような意図と考えてみたのですが、どうも理解力に乏しくてよくわかりません。

  • 個人的な疑問です。

    個人的な疑問です。 「客観的真理」の成立可能性(人間の認識と客観との一致の可能性)、一般に「真理」と言うものの成立可能性・必要性について、どう考えますか? デカルト、カント、ヘーゲル、ニーチェ考え方も入れながらどう考えますか?

  • カントの言う認識と判断について

    カントの言う認識と判断について  以前カントの認識と判断における純粋とアプリオリの違いについて説明したのですが2つ回答をした時点で分からなくなったことが一つありそれは認識と判断の違いです。この部分のなんとなくの違いは説明できるのですが回答として成り立つような説明が出来ませんでしたそこで妙に引っかかってしまい試行錯誤した結果次のような回答になりました。 ----- 認識と判断は不可分であり以下のような経緯により成り立つ 認識⇒判断⇒認識(不可分)、この経緯により認識と判断を不可分に行っている。 詳しく言うと判断し認識した、認識して判断した、などは判断した瞬間に認識しており認識した瞬間に判断しているというものである。この不可分な次元で認識はカテゴリーそのものを基準とした考えなので純粋である場合と非純粋である場合がありこれもまた不可分である。判断はその組み立てや妥当性における形成なのでその部分のみで言えば純粋である。しかし組み立ての材料そのものなどは認識により引き出されるのでそれを組み合わせればアプリオリな判断と言える、しかしここで逆を考えてみると奇妙なことに気がつくそれは認識するという行為は判断しているが故に派生させられる現象だからである。つまり色を認識するにも色を判断して同時に認識しているからである。つまり認識するにも判断が必要であるということで自明である。 --- と認識したのですがどうでしょうか?

  • 実存哲学

    ハイデガーの実存哲学(主義)とは現代存在論は同一のものなんでしょうか?いろいろ調べてみたんですがいまいちよくわかりません(>_<)それからカントやデカルトの(近代)認識論から(現代)存在論へと移行したということについてなんですが、どのように移っていったのかむずかしくて理解できませんでした!このことについても詳しい人、教えてくれませんか?お願いします!

  • 純粋理性批判(Q2)

    純粋理性批判(Q2) 純粋理性批判を、光文社の中山元訳で読み始めたところです。 「005アプリオリな認識と純粋な認識」の項に以下の記述(A)があります。 『そして、アプリオリな認識のうちでも、経験的なものがまったく混ざっていない認識を、純粋な認識と呼ぶことにしよう。だから、たとえば、「すべての変化にはその原因がある」という命題はアプリオリな命題であるが、純粋な命題ではない。変化という概念は、経験からしか引き出せないものだからである。』 また、 「007アプリオリな純粋判断の実例」の項には次のような記述(B)があります。 『人間の経験のうちには、このように必然的で、厳密な意味で普遍的である判断、すなわち純粋でアプリオリな判断が実際に存在することを示すのは、たやすいことだ。~~~。日常的な知性の利用のうちに、こうした実例を探すとすれば、「すべての変化には原因がある」という命題を示すことができよう。この命題で使われている原因という概念には、原因が結果と結びつく必然性という概念と、この[因果律という]規則が厳密に普遍的なものであるという概念が明らかに含まれているのである。』 (ど)素人目には、ひとつの命題に対して「A-純粋命題ではない」「B-純粋命題である」と、異なる記述がなされているような印象を受けるのですが、どなたか私の勘違いを糾していただけないでしょうか。   

  • 認識者を想定しない「客観的実在」とは?

    数学カテゴリでの回答者の方とのやりとりのなかで「客観的実在と人間の認識」が 話題になりました。 人間などの認識者を想定しなくても「客観的実在は存在する」というのは うなずけるのですが、それがどんなものなのか、なかなかイメージできません。 色、匂い、味、手触り、音色、寒い(暖かい)などは人間の五感がなければまったく 存在しない概念ですから、客観的実在とは言えないと思います。 形、大きさ、質量などになると、よく分かりませんが、これも認識者がいて 何かと比較するという思考がない限り成立しない概念だと思います。 とすると「認識者を想定しない客観的実在」「宇宙や世界における客観的実在」 とは何でしょうか? エネルギー? 情報? 法則? 時空間とそのゆがみ? 哲学的にはもっと違う答えが可能だと思うのですが。 どんな主観的な意見でもいいですからお聞かせください。 「客観的実在」の「主観的意見」なんて、変?

  • カントの思想について、アインシュタイン以後、この宇宙の時間と空間は伸び

    カントの思想について、アインシュタイン以後、この宇宙の時間と空間は伸びたり縮んだりする絶対的なものではないものだという概念にとって代わり、 ア・プリオリな判断形式が成り立たないのが現実世界であるわけだから、「純粋理性批判」は現代ではナンセンスだ… ということが立花隆氏の近著に書かれていたのですが、哲学の学問の世界でもそういう認識はあるのでしょうか? また、「いかなる経験もいかなる感覚も混入されない認識」をもって純粋な認識といい、そのような認識を得させる理性を純粋理性という…というところからカントの「純粋理性批判」は始まっているそうですが、立花氏はそれについても、現代の認知科学によると、人間の認識というものは、すべてが経験・感覚入力の基盤の上に成立するものであって、もし、感覚入力をすべて取り去ったら、認識能力そのものが崩壊してしまうということをたくさんの感覚遮断実験が証明している…と述べ、さも高級な意識のような、純粋理性などというものは存在しない、と論じていました。 この文章には、さすが圧倒的な勉強量を誇る氏ならではの議論だな~と、単純にスゴイスゴイと思って、確かに氏の言うことは筋が通っているんじゃないか、と、私自身は大した素養もないまま思ってしまうのですが、実際学問の世界の人から見たらこういう議論は妥当性があるのでしょうか?哲学の研究者には嫌われそうな議論だよな~と、何かと批判されることもあった立花氏が心配になったりもするのですが。(私に心配されても余計なお世話だと思いますが。) 哲学の歴史ではカントの存在は圧倒的に大きい気がするので、私もいつか時間ができたらカントの本を読んでみようとは思っているのですが、現代ではナンセンスだ、と言われると、ちょっとさみしいような気がします。 現在の世の中について何か論じたいと思ったら、思考のベースとしてクラシックな哲学をひも解くより、現代の思想家の本を読んだほうが良いのでしょうか?どちらにしても、現在の思想のルーツを確認するために、過去の思想も知る必要はある気もするのですが… ヘーゲルについても、アマゾンのレビューでもっともらしく批判されている方がいたので、思想史の貴重な資料としてはともかく、近代あたりまでの哲学は現代の思想、社会分析には直接は役に立ちにくいのかな…という不安もあります。どうなんでしょうか?