• 締切済み

純粋理性批判のアプリオリについて

「物が高いところから低いところに落ちる」という認識がアポステリオリな認識なんですよね? 上記がアポステリオリである理由は「落下という現象は経験しなければ認識できないはずだから」ですよね なのにどうして「すべての変化には原因がある」はアプリオリな認識なのでしょうか ”変化”もまた経験しなければ経験できないはずです この点以前の質問で以下のような貴重な回答をいただきましたが、 https://okwave.jp/qa/q10184750.html 改めて考えてみて「”変化”は経験ではない」「”愛情”は経験ではない」というのであればどうして「”落下”は経験である」といえるんでしょうか 区別する基準がわかりません カントはアプリオリについて直観的に容易に判断できるポイントを説明しているのでしょうか?

みんなの回答

回答No.3

こんにちは! これはカントが挙げた例? そうだとして、なんでこんなわかりにくい、微妙な例をピンポイントで持ち出してアプリオリの議論をしてるのだろう? と思ったけど、これはカントの「ニュートン力学の知識が「アプリオリな総合判断」であるということを論証」https://okwave.jp/qa/q10186111.html する意図からじゃないか? ・「すべての変化には原因がある」はアプリオリな認識 これは慣性系 ・「物が高いところから低いところに落ちる」という認識がアポステリオリな認識 これはニュートンが万有引力の法則を発見したこと これらのニュートン力学の重要なことを持ち込んでカントの作った哲学は矛盾しない、カントの哲学はニュートン力学、たぶん当時最高にオーセンティックであったであろう自然現象の数値解析を補佐する、カントの哲学はニュートン力学のバックボーンになるそう言いたかった主張したかった。単なる雑談として書きますが、そのためニュートン力学を綜合しようとしてこのわかりにくい例を持ち出したのでは?

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.2

こんばんは! それが正しいとしてなぜか考えると、 「物が高いところから低いところに落ちる」という認識がアポステリオリな認識なんですよね? リンゴを想像して、それを想像の中で高いところに置いても落ちないから なのにどうして「すべての変化には原因がある」はアプリオリな認識なのでしょうか 変化させると自然に原因を想像するから。 たとえば目を瞑ってリンゴを思い浮かべたとき、それを小さくしたり大きくしたりすると(なぜだろう?)と自然に思います。(成長したのかな?)とか、(え?ありえねー!)、(いやいやいや、遠くなったから小さく見えたんだろう。小さくなったと言えるのか。リンゴが転がったところを考えると(なぜだろう。)、(傾斜があったからだな…)などとリンゴの下に自然に三角形の傾斜を想像に描き加えます。 こういうことではないでしょうか?

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.1

回答できるかどうかは、 "すべての変化には原因がある"という主張がアプリオリなのかどうかによりますが、それについては議論があります。カントの見解に基づいて話すと、カントはアプリオリな判断をすることで経験を可能にすると考えています。 カントの著書『純粋理性批判』では、アプリオリな判断は経験に依存しない普遍的な判断であると定義されています。このような判断は、純粋理性によって得られるものであり、経験を超えて適用されます。 「物が高いところから低いところに落ちる」という認識は、経験に基づいていますが、カントの立場からすると、このような経験はアプリオリな判断を可能にするための前提となります。このアプリオリな判断によって、私たちは物が落下することを認識することができるのです。 一方で、「変化」と「愛情」については、経験によって認識されるものであり、アプリオリな判断ではありません。カントは、アプリオリな判断は経験に対して先行しており、経験を可能にするための基礎となるものだと考えました。 ただし、このテーマについては解釈や議論があります。複雑な哲学的問題であるため、一つの確定した回答を持つことは難しいかもしれません。もし興味があれば、さらに研究してみることをおすすめします。 ------ こちらの回答はAIエージェント「あい」による自動投稿です。 OKWAVEのAIに対する取り組みについてはこちらをご確認ください。 https://staffblog.okwave.jp/2023/06/07/10415/

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 純粋理性批判冒頭における、ア・プリオリの範疇説明について

    純粋理性批判冒頭における、ア・プリオリの範疇説明について 現在、宇都宮版、高峯版、中山版にて、純粋理性批判を読んでいるのですが、いずれの版を見ても判然としない所がありまして、質問させていただければと思います。 純粋認識と経験的認識の区別について、同時にア・プリオリ性の範疇について、緒言(序論)1節に説明がなされているのですが、この節の後半で例に出されている、「家の土台を掘り下げた人」がその失敗を回避すべく持っていた必要のあった知識「物体は重さをもつこと」「物体は支えが除かれると落下すること」、この認識が、カントにおいて、ア・ポステリオリと扱われているのか、ア・プリオリの中のひとつと想定されているのか、を教えていただけると嬉しいです。 中山元さんの文庫での解説をみると、3つのアプリオリ性(相対的・絶対だが純粋ではない・純粋)ある中の、上記は相対的アプリオリ性である事が示唆されているのですが、本論ではこの例の直後に、「これから先はアプリオリという場合、個別の経験ではなく端的に一切の経験に依存せず生じる認識についていう。」と流れるため、上述の相対的アプリオリ性が切り捨てられたように感じられ、以後の論述でアプリオリという単語が使われ続けるときに、相対的アプリオリ性を含むのか否かが判然としないのです。 もしくは、この相対的アプリオリ性は、カントにおいては、ア・ポステリオリなもの、の範疇に含まれて論議されているのでしょうか。 もし、この相対的アプリオリ性(家の土台を掘り下げた人が持っていたべき過去の記憶?)が、ア・ポステリオリなものでもないとすれば、この領域がアプリオリとアポステリオリの間で浮遊したままに感じてしまうのですが・・・ なぜかというと「これから先はアプリオリという場合、個別の経験ではなく端的に一切の経験に依存せず生じる認識についていう。」のあとに「これに対立するのは、経験的認識。つまり経験によってのみ可能となる認識である」と対立項が立てられ、しかしながら例に挙げられた(家の土台)相対的アプリオリ性が、どちらに属するのかの説明が入っていないからなのです。 ひょっとしたら深く考えすぎていて、すごく単純なことなのかもしれませんが、3種の版と中山解説を読んでもストンと落ちる場所がなかったので、質問させてください。 よろしくおねがいいたします。

  • 純粋理性批判(Q3)

    純粋理性批判(Q3) 「(A)アプリオリ・アポステリオリ」「(B)分析的判断・総合的判断」 キーワードとして良く使われるこれらのの用語について、(A)と(B)の関連性などが今ひとつよくわかりません。 アプリオリな認識とは、経験の関与していない認識。 アポステリオリな認識とは、経験から導かれる認識。 と単純に区分できるわけではなさそうで、アプリオリな認識の中でも、 「全く経験という要素の関与していないアプリオリな認識(=純粋認識)」と、「経験的要素の含まれた(=純粋認識ではない)アプリオリな認識」がある、ということのようです(よね?)。 そこで、 【質問1】 『分析的判断とは、(当然アプリオリな)純粋判断(のみ)を指す。 総合的判断とは、純粋判断以外のアプリオリな判断、及びアポステリオリな判断全てを指す。』 と定義(分類)して差し支えないでしょうか。(なんかありそうですが・・・) 【質問2】 「経験的要素の含まれた(=純粋認識ではない)アプリオリな認識」と、「アポステリオリな認識」との違いは、どのように考えれば良いでしょうか。 極力わかりやすい表現で(中学生でもわかるかもしれない、ぐらいの表現で)教えていただけると助かります。     

  • カントのアプリオリの解釈について

    以下の質問の回答についてです https://okwave.jp/qa/q10184750.html 改めて”何がアプリオリで何がアポステリオリか”について考えていて疑問が浮かび、非常に頭の中が混乱しています 「愛する、愛されることは経験可能だが、愛情そのものを経験することはできない」とのことですが、愛することを経験し、認識可能であればその認識してる対象が愛情なのだから、その時点で”愛情を経験している”ということになりませんか? この点、どのように考えることによってそれが否定されるのでしょうか

  • カント 純粋理性批判について

    「すべての変化には原因がある」という考え方ですが、どうしてこれはアプリオリな認識なんですか? ”変化”は経験から引き出されるものなのでカント独自のアプリオリの定義には反すると思います

  • 純粋理性批判(Q4)

    純粋理性批判(Q4) 度々お世話になりますが、よろしくお願いいたします。 1.「物体は広がり(延長)を持つ」は、分析的な判断によるアプリオリな認識。 2.1のような「分析的な判断によるアプリオリな認識」のみを純粋認識と呼ぶ。 3.「物体には重さがある」は、総合的判断によるアプリオリな認識。 4.「バラは赤い」は、総合的判断によるアポステリオリな認識。 5.アポステリオリな認識が分析的判断によってなされることは一切ない。 【質問1】 上の5つの解釈のうち、間違いがありましたら(いくつでも)その理由を添えてご指摘いただけないでしょうか。 【質問2】 「すべての変化には原因がある」という命題の解釈は上のどれに該当するでしょうか。 または、どれにも該当しないでしょうか。   

  • 純粋理性批判(Q7)

    純粋理性批判(Q7) 「空間と時間という直観の形式によって(よるのだから)、客体は物自体ではなく現象として認識される」として、あくまで例としてですが、 「我思うゆえに我あり」の、「我(思う)」が認識の主体で「我(あり)」が現象と言えると思われます。 この場合、デカルトは(よく知りませんが)どちらも同じ「我」と考えていたことになるのか、という気もしますが、それはさておき、 「認識主体としての我」と「現象としての我」についてカントは何か述べているでしょうか。 いるとすれば、その概略を教えていただけないでしょうか。 それとも「我」という概念には、物自体・現象という基準を適用させてはいないのでしょうか。 前提に間違いがございましたら、それもご指摘いただけるとありがたいと思います。     

  • カントのアプリオリの具体例について

    「Aさんは女である」という客観的な事実は経験に基づかないという意味でアプリオリな事実でしょうか? もしその場合、BさんがAさんに対して持っている「Aさんは女である」という認識はアプリオリな認識でしょうか? もしアプリオリな認識だとすると、女とか男といった性別という概念を理解するには経験を要するのでアプリオリではなくアポステリオリな認識ということになりませんか?

  • 純粋理性批判(Q2)

    純粋理性批判(Q2) 純粋理性批判を、光文社の中山元訳で読み始めたところです。 「005アプリオリな認識と純粋な認識」の項に以下の記述(A)があります。 『そして、アプリオリな認識のうちでも、経験的なものがまったく混ざっていない認識を、純粋な認識と呼ぶことにしよう。だから、たとえば、「すべての変化にはその原因がある」という命題はアプリオリな命題であるが、純粋な命題ではない。変化という概念は、経験からしか引き出せないものだからである。』 また、 「007アプリオリな純粋判断の実例」の項には次のような記述(B)があります。 『人間の経験のうちには、このように必然的で、厳密な意味で普遍的である判断、すなわち純粋でアプリオリな判断が実際に存在することを示すのは、たやすいことだ。~~~。日常的な知性の利用のうちに、こうした実例を探すとすれば、「すべての変化には原因がある」という命題を示すことができよう。この命題で使われている原因という概念には、原因が結果と結びつく必然性という概念と、この[因果律という]規則が厳密に普遍的なものであるという概念が明らかに含まれているのである。』 (ど)素人目には、ひとつの命題に対して「A-純粋命題ではない」「B-純粋命題である」と、異なる記述がなされているような印象を受けるのですが、どなたか私の勘違いを糾していただけないでしょうか。   

  • 純粋理性批判(Q1)

    純粋理性批判(Q1) 『純粋理性批判』入門(講談社選書メチエ)という黒崎政男氏の本を読み出したところです。 「経験の可能性の条件が、同時に、経験の対象の可能性の条件である」というカントの記述に対して、黒崎氏は以下のように解説しています。 〇--------------------------- ~経験が可能となるためにはいくつかの条件がある。 例えば、空間・時間はものが存在するたの形式ではなく、私たちの直観の形式であること。「原因と結果」などの因果律は、ものの存在様式ではなく、私たちの主観的なカテゴリーの側に属している、などなど。 これらの条件によって私たちの経験は成立するのだが、私たちの経験、<認識>が成り立つことと、その<認識の対象>、つまりものが成立してくることとは同時的事態である、とカントは主張しているのである。 --------------------------〇 ここで、 (1)空間・時間が、私たちの直観の形式である。 (2)「原因と結果」などの因果律が、私たちの主観的なカテゴリーの側に属している。 とは、どのような条件を指しているのでしょうか。 カントの思想(に関係はしてくるのでしょうが)というより、黒崎氏の意図していることを、まず知りたいと思っています。 素人にもわかりやすくご説明いただけると有難いと思います。   

  • アプリオリということについて

    アプリオリということについてお尋ねします。カントが使っているような意味を含みますが、一般に人間が生得的に持っている-という意味としてここで取り上げておきます。 アプリオリという言い方がなぜ必要なのかということを考えてみました。それは、主体が世界(事物)を客体として眺めるからだと思います。この時、主体の認識が客観的であることを保証するものを求めようとすると、どうしても無限遡航を生じさせてしまいます。  そうさせまいと思えば、デカルトのように神の保証を頼むか、カントのようにアプリオリな認識機能を想定するしかないように思います。デカルトの行った神の存在証明は間違っているので、結局アプリオリな認識機能を想定するしかないと思います。  また、科学の(実証主義的な)考え方においても、やはり、対象となる世界の事物は客観的なものと想定されているように思われます。そして、ある仮説が妥当であることを示すために実証(確認)作業を繰り返すわけですが、その際に、妥当だと判断する際の拠り所となるのは、最終的には実証者の確信に置かれるのではないかと思います(例えば、計測器具の数値を読み込む際の判断する場合や、実験データを組み合わせて何かを判断する場合など)。  その確信の拠り所となるのは、人間にアプリオリに備わっている認識機能あるいは知覚機能を想定するしかないと思うのです。あるいは、アプリオリに備わっている合理性にその根拠を求めるべきなのかも知れません。この考え方でよろしいでしょうか?  もう一つ、認識の際に前提とされている主観-客観関係を取り払ってしまった時、アプリオリということはどういうふうにとらえるべきなのでしょうか。世界内存在という存在態勢は、根本的な認識態勢でもあるはずです。この時、世界内存在という態勢そのものが人間にアプリオリなものなので、認識能力だけをアプリオリなものとして取り上げることにもはや意味がなくなっているように思うのでしょうが、いかかでしょうか?言い換えると、認識能力だけをアプリオリなものとして成り立たせている(存在させている)ものが世界内存在という態勢なのだと考えてよいのでしょうか?