カントの純粋理性批判における「我思うゆえに我あり」の「我」とは?

このQ&Aのポイント
  • カントの純粋理性批判において、「我思うゆえに我あり」の「我」と認識される現象について解説している。
  • カントは、「認識主体としての我」と「現象としての我」の違いについて述べているか
  • 「我」という概念に物自体・現象という基準を適用させていない可能性がある。
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純粋理性批判(Q7)

純粋理性批判(Q7) 「空間と時間という直観の形式によって(よるのだから)、客体は物自体ではなく現象として認識される」として、あくまで例としてですが、 「我思うゆえに我あり」の、「我(思う)」が認識の主体で「我(あり)」が現象と言えると思われます。 この場合、デカルトは(よく知りませんが)どちらも同じ「我」と考えていたことになるのか、という気もしますが、それはさておき、 「認識主体としての我」と「現象としての我」についてカントは何か述べているでしょうか。 いるとすれば、その概略を教えていただけないでしょうか。 それとも「我」という概念には、物自体・現象という基準を適用させてはいないのでしょうか。 前提に間違いがございましたら、それもご指摘いただけるとありがたいと思います。     

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.1

『カントの自我論』というタイトルで、中島義道氏が書いています。 但し、彼は、どちらかと言うと、反主流ですし、難解です。 たしかこの本では、私の記憶違いでなければ、 カントの場合「身体」は物自体です。 「我」はすでに現象の中のです、私の意見では、言語で語られています。 下の質問もそうですが、細かなことに拘りすぎて、大きな流れを見逃していませんか。 例えば下の質問は、私自身、カントに詳しくないですから、ハッキリとは言えませんが、 「有るから見える」を「見えるから有る」にひっくり返したコペ転の立場からの客観性と言うことを考えれば、客観性を得るために、悟性のカテゴリーの先験性が必要になるのが、カントの立場だと言うふうに理解できると思うのですが、どうでしょうか。

hakobulu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >カントの場合「身体」は物自体です。 「我」はすでに現象の中のです :一応わかりました。 >細かなことに拘りすぎて、大きな流れを見逃していませんか。 :真摯に受け止めたいと思います。 >「有るから見える」を「見えるから有る」にひっくり返したコペ転の立場からの客観性 :ということを考えるわけですか。 「悟性のカテゴリー」に則って判断したからといって、必ずしも客観的とは言えないのではないか、というのが当初の疑問でした。 咀嚼しながら進みます。 まとめてのご回答ありがとうございました。   

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