old_shoのプロフィール

@old_sho old_sho
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  • 登録日2008/11/16
  • 事実と真実

    事実と真実の哲学的意味合いについてですが、僕は今まで独自の理解でこの二つを使い分けてきました。 事実とは、人が主観的に造り出す実で、 真実とは、そこに在る客観的な実だと考えていました。もちろん、辞書的定義とは違い、書物を読んだりせずに自分の頭の中で考えたものなので、矛盾が生じたり立ち行かない時もあります。 この間、このような理解の下で、この二つの語を使い、質問をしたところ、事実でも真実でもないとの回答を受け(詳しくは質問をご覧ください。またよければ回答も是非。)、混乱したので、辞書で確認したところ、以下のような定義となっていました。 ◆事実・・・本来、神によってなされたことを意味し、時間、空間内に見出だされる実在的な出来事または存在。実在的なものであるから、幻想、虚構、可能性と対立し、既に在るものとして当為的なものと対立し、個体的、経験的なものであるから論理的必然性はなく、その反対を考えても矛盾しない。 ◆真実・・・※電子辞書の広辞苑で調べましたが、哲学的定義は載っておりませんでした。ちなみに、〔仏〕仮でないこと。究極のもの。絶対の真理。真如。※ みなさん、どうか、「事実」と「真実」の一般的な哲学的定義を分かりやすく教えてください。 そして、「当為」という言葉もよく分かりません。併せてよろしくお願いします。 また、自分の中に独自の哲学的定義を成すことはしてもよいのでしょうか。 それでは、多くの回答をお待ちしておりますので、よろしくお願い致しします。

  • 西洋での自然観について

    『近代科学を超えて』村上陽一郎著 での一節で気になる記述があります。 (Z会 現国問題集より抜粋) 西洋的発想に立てば、人間も自然の一部(被造物)である以上、人間の営みだけを人為として自然から切り離すことを不自然と受け取るー (中略) ー 日本や東洋に対して、機能としての両者(注1)の本質を、後者(注2)よりも融合的に見なす、というのはパラドキシカルかもしれないが、ー (注1)「両者」は自然と人間を指します。 (注2)「後者」は日本や東洋を指します。 質問なのですが、西欧では本当に人間も自然の一部または自然そのものとして考えられているのでしょうか? 旧約聖書では神は人に対して「地上の全てを人に支配させよう」というようなことを言ったのではなかったでしょうか? ですので人と自然を同一視するはずがないと思えます。 人が自然の範疇内であれば、自然という言葉には勝手に変化する意味合いもあり、それはまるで地球を遠くから眺めた時にあたかも人を微生物のように見るという印象を受けます。つまり人を自然に組み込むと結局は人間不在の考え方になるかと。 被造物すなわち自然、という定義もどうかと思います。 詳しい方のご意見をお待ちしております。

  • アリストテレスの間違いは実験により検証すべきなのか

      かつてアリストテレスは「重いものは軽いものより早く落ちる」と教えたそうである。 もちろんこれは間違いであり、後にガリレオは落下実験を行ってアリストテレスの教えが間違いであることを実証しました。 しかしながらアリストテレスの考えは実験するまでもなく、論理的に間違いであることが分かるのである。(理由:重い物体と軽い物体を紐で結んで一つにすると、合体した物体は最初の重い物体より重くなるのであるから一番早く落ちなければならないことになる。しかし合体した物体は中にある軽い物体によって落下速度にブレーキが掛かるのであるから、この点から考えると最初の思い物体よりは遅く落ちなければならないことになる。従って「重いものは軽いものより早く落ちる」という考えは論理矛盾を生む) さて質問ですが、アリストテレスの間違いはガリレオが行ったように実験によって証明することが重要なのか、それとも実験の必要は無く論理的間違いを示すことがより重要なことなのかいずれでしょうか。 何故このようなことを問うのかと言うと、ここに示したアリストテレスの間違いの類は現代にあっても様々な形で様々なところに登場しているからです。例えばその典型としてビッグバン有限宇宙論の間違い、STAP細胞ペテン、・・・等々いろいろあるからです。    

  • アプリオリということについて

    アプリオリということについてお尋ねします。カントが使っているような意味を含みますが、一般に人間が生得的に持っている-という意味としてここで取り上げておきます。 アプリオリという言い方がなぜ必要なのかということを考えてみました。それは、主体が世界(事物)を客体として眺めるからだと思います。この時、主体の認識が客観的であることを保証するものを求めようとすると、どうしても無限遡航を生じさせてしまいます。  そうさせまいと思えば、デカルトのように神の保証を頼むか、カントのようにアプリオリな認識機能を想定するしかないように思います。デカルトの行った神の存在証明は間違っているので、結局アプリオリな認識機能を想定するしかないと思います。  また、科学の(実証主義的な)考え方においても、やはり、対象となる世界の事物は客観的なものと想定されているように思われます。そして、ある仮説が妥当であることを示すために実証(確認)作業を繰り返すわけですが、その際に、妥当だと判断する際の拠り所となるのは、最終的には実証者の確信に置かれるのではないかと思います(例えば、計測器具の数値を読み込む際の判断する場合や、実験データを組み合わせて何かを判断する場合など)。  その確信の拠り所となるのは、人間にアプリオリに備わっている認識機能あるいは知覚機能を想定するしかないと思うのです。あるいは、アプリオリに備わっている合理性にその根拠を求めるべきなのかも知れません。この考え方でよろしいでしょうか?  もう一つ、認識の際に前提とされている主観-客観関係を取り払ってしまった時、アプリオリということはどういうふうにとらえるべきなのでしょうか。世界内存在という存在態勢は、根本的な認識態勢でもあるはずです。この時、世界内存在という態勢そのものが人間にアプリオリなものなので、認識能力だけをアプリオリなものとして取り上げることにもはや意味がなくなっているように思うのでしょうが、いかかでしょうか?言い換えると、認識能力だけをアプリオリなものとして成り立たせている(存在させている)ものが世界内存在という態勢なのだと考えてよいのでしょうか?  

  • アプリオリということについて

    アプリオリということについてお尋ねします。カントが使っているような意味を含みますが、一般に人間が生得的に持っている-という意味としてここで取り上げておきます。 アプリオリという言い方がなぜ必要なのかということを考えてみました。それは、主体が世界(事物)を客体として眺めるからだと思います。この時、主体の認識が客観的であることを保証するものを求めようとすると、どうしても無限遡航を生じさせてしまいます。  そうさせまいと思えば、デカルトのように神の保証を頼むか、カントのようにアプリオリな認識機能を想定するしかないように思います。デカルトの行った神の存在証明は間違っているので、結局アプリオリな認識機能を想定するしかないと思います。  また、科学の(実証主義的な)考え方においても、やはり、対象となる世界の事物は客観的なものと想定されているように思われます。そして、ある仮説が妥当であることを示すために実証(確認)作業を繰り返すわけですが、その際に、妥当だと判断する際の拠り所となるのは、最終的には実証者の確信に置かれるのではないかと思います(例えば、計測器具の数値を読み込む際の判断する場合や、実験データを組み合わせて何かを判断する場合など)。  その確信の拠り所となるのは、人間にアプリオリに備わっている認識機能あるいは知覚機能を想定するしかないと思うのです。あるいは、アプリオリに備わっている合理性にその根拠を求めるべきなのかも知れません。この考え方でよろしいでしょうか?  もう一つ、認識の際に前提とされている主観-客観関係を取り払ってしまった時、アプリオリということはどういうふうにとらえるべきなのでしょうか。世界内存在という存在態勢は、根本的な認識態勢でもあるはずです。この時、世界内存在という態勢そのものが人間にアプリオリなものなので、認識能力だけをアプリオリなものとして取り上げることにもはや意味がなくなっているように思うのでしょうが、いかかでしょうか?言い換えると、認識能力だけをアプリオリなものとして成り立たせている(存在させている)ものが世界内存在という態勢なのだと考えてよいのでしょうか?