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新撰組

山南さんが意地でも自害しちゃった理由って何ですか? 皆は逃げろって言ってるのに・・・

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  • umpire-k
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回答No.7

すいません。多少訂正があります。 「ここで死なせば隊の規律が乱れる・・・」は「ここで山南を助ければ隊の規律が乱れる・・・」の間違いです。 「永倉や原田にも逃げるように迫られています」は「永倉や原田にも逃げるように諭されています」に訂正致します。申し訳ありません。

  • umpire-k
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回答No.6

私も新選組に関心をもっており山南敬助についても非常に興味があります。 さて、私も大河ドラマ上での話にて私なりに思ったことを述べたいと思います。今回の大河は三谷さんが作られていますよね。実際の史実とは多少異なっているようです。私が読んだ史料と、今回のドラマでの内容が多少違っていましたので。 山南は芹沢が斬られたあとに「総長」というポストにまわされています。この「総長」というポストを作ったのは土方であると言われているようです。 土方の中では「局長ー副長ー副長助勤」という形でスムーズに伝令ら命令などを伝えるのが理想だったようです。そこで副長が2人いたのではスムーズに行き渡らない。土方は山南が副長では困るという考えから副長から外して総長という新しいポストに異動させたのです。実際には総長の役目は局長の相談役のようなものだったらしいです。 山南は「局長ー副長ー副長助勤」というラインから外されたことに気づくのです。そのことに対して土方に確執が出来たのかどうかはわかりませんが、これが後に関わってくるのは間違いないでしょう。 それに加えて土方は山南の意見に耳を傾けようとしない・・・。近藤局長は土方の思いを理解していたのかどうかは定かではありません。ただ局長は山南総長に信頼を置いていたのは間違いないです。(ただ史実では異なっているようです) そして山南は意を決し脱走を図ります。そして大津にて発見され、追っ手の沖田総司とともに屯所に戻ってきます。屯所に戻った山南に対して近藤局長は「山南さんの気持ちに気づけなかった自分を恥じ入るばかりです」と言っています。到底、局長と山南の間に確執があったとは思えません。それに近藤さんもさりげなくふすまを開け逃げてくださいという合図を出しています。永倉や原田にも逃げるよう迫られています。そして源さんにはおにぎりまで用意されています。試衛館のメンバーは皆、山南に死んで欲しくはないんですよ。その気持ちが見事に行動に表れている。土方もドラマ上では本当は山南には死んでもらいたくない。しかし、ここで死なせば隊の規律が乱れる・・・。土方非常に複雑な気持ちだったはずなんです。新選組のためには山南を助けることは出来ない。しかし、山南は今後の大河のストーリー上、なくてはならないのです。しかしそうは行かない・・・。土方は誰よりも辛かったことと思います。 山南の心情は、新選組のためには自分は死ななければ規律が乱れてしまう。そして居場所のなくなった山南はこうするほかなかった・・・。山南自身は「私が切腹により果てることが、総長である最期の仕事である」と言っています。山南は新選組のことを思い、自ら意志を決めて果ててしまったのだと思います。 ドラマの終盤では近藤局長と土方は2人で男泣きをしています。それだけ山南の存在は大きかったのだと思います。山南は新選組に必要な人物だった。しかし今後のことを考えれば、自分は必要ないと考えたのだと私は思います。 しかし、山南はある意味幸せだったのかもしれないです。なぜなら、新選組の今後の内部紛争や分裂。試衛館時代のメンバーの死・・・。それらを見ずに死んでいったのですから。

参考URL:
http://www3.nhk.or.jp/taiga/index.html
回答No.5

 あくまであのドラマの枠内での話をしますが,私が思うに山南はあの時点では新撰組の中に自分の居場所はなかったと感じていたはずなんです。近藤も隊の運営については穏健な考え方で山南に近かったですし,永倉などは完全に山南側についていたから山南派を作って土方に対抗しようと思えば出来た(自分の居場所を作ることが出来た)と思うが,日本の将来,日本の運命がどうなるかわからないというのに新撰組の中で内部争いをしている場合ではない,自分のせいでそうなることは本意ではない,というように感じていたのではないかと思います。そこで江戸に戻れるなら,江戸に戻り自分の生き方,自分の居場所をさがそうと思ったが,沖田総司に見つかった時点で「この期に及んで逃げては新撰組の規律はますます乱れ,完全に崩壊しかねない」と考え,それならば命を賭して新撰組の隊規を正し,内部での争いを食い止めようと考えたのではないでしょうか?  まあ,結局はそんな彼の想いもむなしく新撰組は内部争い,粛清の歴史を築きあげていくわけですけど。

回答No.4

私は他のみなさんのように詳しいことは言えないんですが、逃げたのは土方さんと意見が合わず、そのやり方に不満を持っていたからです。 でも、逃げているところが見つかったらそれが自分の『運命』だと受け止めていたので、沖田総司を見たときに自分から出て行き自害したのだと思います。

回答No.3

私は歴史は詳しくないので、実際どうだったかはわかりませんが・・・ 下記のHPでは毎週新撰組について語られています。山南の切腹に関しては、「あの子供っぽい法度に対する抗議だったのでは」と話されています。 http://www.1101.com/2004_TV_taiga/index.html http://fake.rocket3.net/mitani/ また、こちらのHPの新撰組BBSでもいろんな方々が大河ドラマ新撰組について話されてます。それぞれいろんな見方があって、読んでて楽しいですよ♪

参考URL:
http://www.1101.com/2004_TV_taiga/index.html
回答No.2

ドラマと史実は違うようです。 さて、山南は本当に脱走したのか? 現在有力な説は、脱走の事実はなく、突然切腹して 果てたということです。 新選組では、隊からの脱退は禁じていても、正当な理由と認められれば、去就は許されていたのです。 西本願寺の寺侍で新選組の事情に詳しい西村兼文は、 永倉たちの話の二十年前に自書「新撰組始末記」で 「三南は憤激の余り一書を遺し丑三月下旬終に自刃に臥す」と記されてあり、脱走の記載はないのです。 池田屋事件の前に、山南は商家に押し入った盗賊と 切り合い重傷を負ったようです。その後は新選組の表舞台からはぷっつりと消息が消えます。 自分の働き場をなくした山南は、うつ状態にあったと 思います。体力面はともかく、頭脳で貢献したいという 山南の希望も、伊東甲子太郎の入隊により働きの場を 失っていきました。 西本願寺への屯所移転に際しては強行に異を唱えましたが、近藤や土方には、聞き届けられることはなく、 慶応元(1865)年2月23日、山南敬助は突如、切腹して果てたのです。(享年33歳) 抗議の自刃では隊士が動揺したり外聞も悪いので、 脱走の罪は犯したものの潔く非を認め「局長令により武士として見事な切腹を果たした」との形をとって、 体裁を繕ったと思います。沖田が郷里に送った手紙に「山南兄死す」とだけ書いてあったのも、そんな事情 からでしょう。 余談ですが、山南は一般的にはヤマナミと呼ばれて いますが、近年では、三南、三男という記録がある ことから、サンナンであった可能性が高いといわれて ます。

  • myume
  • ベストアンサー率25% (621/2470)
回答No.1

最後まで「武士」であり続けたかったのでしょう。 とても潔い最期でしたね。 源さんが食事を運んだ時、逃亡用におにぎりをお膳に置いてあった所で 私は号泣してしまいました。 土方さんと近藤さんが肩を抱き合って泣いていたシーンも素晴らしかったです。 山南さんのお別れに関してのURLを貼りますから、どうぞ見て下さいね。

参考URL:
http://www3.nhk.or.jp/taiga/topic/yamanami/f_yamanami.html

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