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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:意地と誇り)

意地と誇り

kamejrouの回答

  • kamejrou
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回答No.4

こんにちはisoken さん 下書き保存は良いことを教えていただいた 適当な段落で保存を繰り返していけば少々時間はかかってもショックで倒れない 誰かさんにお詫びを 三馬鹿兄弟とは私もいささか言葉が過ぎた、申し訳ありません 頭がおかしいんじゃないか?そう思えなくもない三人と言うべきでした ただ私にしては褒め言葉でもあるのですがね 見栄を張る、見得を切る虎親分の御高説まことにごもっとも❗ 親分もたまにいい事を言う ただ、見栄を張るについて少し補足させていただけば 男は心のうちで泣いて見栄を張らなければいけない時もある 親分の言うのはそれはただの「見栄っ張り」、 私に言わせれば男たるもの見栄を張れなければ男ではない❗ 見栄を張れてなんぼとも言える 「武士は食わねどたか楊子」と言う言葉もある 男は痩せ我慢が出来なければいけない 虎親分、女を連れて「オラは今日持ち合わせが少ないから割り勘にしてクンロ」、 そうは口が腐っても言うまい、私も言わない 家財道具全部売り払っても 「女が財布に手をかけるでネ❗オラにまかせてケロ」胸を叩いて、それでさすがに上州の虎 男じゃないかと言われる フーテンの寅さんが言う男はつらいのです さて、虎ちゃんとの馬鹿話で長くなりましたが キャプテンハーロックは知りませんが誇りと言うものの本質的なものを知ってる 何時も馬鹿なことばかり言ってるが本当は誰よりも賢いのかも知れない❗ 恐ろしい奴だ❗ Isoken さんは虎ちゃんのような人間はおそらく好きでしょうね?アハハハハ Isoken さんが歴史絡みの質問をされるのは久し振りでしょうが 上杉が徳川に楯突いたのは意地と誇りである 仰るとうりでしょうし私もそう思いますが ただ一面、五大老の一人としては前田利家亡き当時の状況下では 家康の専横ぶりは実に目にあまる立たざるを得なかっとも言えるでしょうか? おそらく上杉景勝、徳川家康何ほどのことがある? それは意識のなかに当然あったでしょうし たかだかに出来星大名ではないか? 謙信公の大上杉であれば本来歯牙にかける相手でもないのでしょう 長くなりますので少し端折りますが 上杉景勝、意地を通したまでは私は頷きも出来る 家康、三成の挙兵の知らせを聞くや引き返すわけですが あれを追撃すればおそらく日本の歴史は少し変わったものになったかも知れませんね 景勝の武将としての誇りがそれを潔良しとしなかった Chacha さんが武田の撤退進言について言っておられる おそらく直江兼続、追撃については強硬に進言もしたでしょう でなければ兼続の「直江状」の説明がつかない さて結論ですが意地と誇りは我々は身をどのような境遇におこうと それは持たなければいけないし、でなければ人間でなくなる 「一寸の虫にも五分の魂」と言う それなくばただの虫ケラに堕ちてしまう人も同じでしょう 長くなったついでです、最後にもう少し勘弁していただく 私はisoken さんが好きな武将が伊達政宗であることは承知しております長いお付き合いだ 私も嫌いではないし好きな武将ではありますが やはり上杉景勝、 一日何も言葉のないこともあったほど寡黙な殿様であったと言います 身体は小太り、決して大きな人ではない ただ、家臣領民への情愛は滲むがごときものであったと言う 仰るように景勝の誇りはとてつもなく大きな代償ではあったが まことに厄介ではあるがこれほど魅力的な男もおりませんね 政宗、秀吉のように舞台で見得を切ることも出来ませんが むしろそのけれんみのないところに私は好感を持つ Isoken さんはもちろんご存じですが 前田慶次郎、数千石であまた声があるなかで「我が主は景勝しかおらぬ」、 捨て扶持で生涯を終えた 直江兼続、この馬鹿殿と思ったでしょうかねえ でも涙が出るほどに好きであったに違いない私はそう思うのです 前田のことは又機会でもありましたらお話したいものです ここいらで

isoken
質問者

お礼

kamejrou さん、こんばんは。 >私に言わせれば男たるもの見栄を張れなければ男ではない❗ >見栄を張れてなんぼとも言える 仰る通りだと解釈します。 >Isoken さんは虎ちゃんのような人間はおそらく好きでしょうね?アハハハハ これもまたその通りです。 >おそらく上杉景勝、徳川家康何ほどのことがある? >それは意識のなかに当然あったでしょうし >たかだかに出来星大名ではないか? >謙信公の大上杉であれば本来歯牙にかける相手でもないのでしょう 謙信公の最盛期には軽く300万石はあったでしょう、かの信長ですら靴を舐めんが如く腰を低くして機嫌を取り結びました、それこそ島津と並んで日本最強の軍団でありましたから、如何に260万石 大老首座にあるとはいえ、徳川何するものぞ・・という気概はあったろうと思います。 >上杉景勝、意地を通したまでは私は頷きも出来る >家康、三成の挙兵の知らせを聞くや引き返すわけですが >あれを追撃すればおそらく日本の歴史は少し変わったものになったかも知れませんね 会津の上杉を軸に展開された、あの当時の北関東~南奥羽に至る角逐は本当に興味深いものがあります、煮ても焼いても食えない諸将が顔を揃えましてね、伊達・最上そして佐竹・・。 一方関ヶ原がああいう結果に終わりましたから、彼等の動向は歴史の必然と思われがちですが、仮に西軍有利の長戦になれば、佐竹はもとより伊達・最上も恐らく上杉を盟主に押し立てて、江戸を突く程度の選択肢は用意していたろうと思います、彼等は心地良いほどに完全な面従腹背ですから・・。 そして何より御指摘の追撃・・、仰る通りで或いは歴史を変えたかも知れません、ただ背後の伊達・最上、そして対上杉の抑えに残された結城秀康の存在を思えば、挟み撃ちに合うよりは最上併呑の後、兵を返して徳川を追うというのもあながち間違った選択ではなかったとも思えます。 関ヶ原後矛を収めたのもそう、そこには直江兼続とは違った立場があった・・つまり名家の当主であるが故、現実的な選択肢を取らざるを得なかったのでしょう、それこそ何時ぞや kamejrou さんが言われた一所懸命。 >やはり上杉景勝、 >一日何も言葉のないこともあったほど寡黙な殿様であったと言います 身体は小太り、決して大きな人ではない >ただ、家臣領民への情愛は滲むがごときものであったと言う >仰るように景勝の誇りはとてつもなく大きな代償ではあったが >まことに厄介ではあるがこれほど魅力的な男もおりませんね 謙信公とはまた違った魅力があります、どういうんでしょうね、不遇に負けない逞しさとでもいう趣きが景勝にはある。 そもそも戦国乱世の中にあってすら、最も激流動乱のあの時代を生き抜いたのが不思議なほどです、何しろ御館の乱に於いて何とか上杉の名跡を継いだ頃、景勝の所領は30万石あったかどうか・・。 肝心の越後は完全に内乱・・つまり虫食い状態にありましたし、謙信の時代服従した他国への影響力は、ほぼ無いに等しい状況にありましたから。 それがあの苦境を乗り切り、太閤を魅了し且つ諸侯を憚らせる訳で、遥か後世に生きる我々にとって、カッコイイ上杉という印象を植え付ける上で彼の功績は誠に大きいでしょう。 >政宗、秀吉のように舞台で見得を切ることも出来ませんが 慧眼ですね、秀吉と政宗は同種の人間であると感じておりました、つまり似過ぎているが故の近親憎悪・・。 器量に大きな開きがあったのはそうでしょう、何せ往時の秀吉は何百年に一人出るかどうかの人物、一方の政宗に天下を取る器量は恐らく無かった、それはその通りだろうと思います。 ただの若き独眼竜にはワルなりの爽快感がある、やった者勝ちという価値観もそう、太閤引き立ての諸侯には無い、転んでもただでは起きない逞しさと魅力があったのではないでしょうか。 >前田慶次郎、数千石であまた声があるなかで「我が主は景勝しかおらぬ」、 >捨て扶持で生涯を終えた >直江兼続、この馬鹿殿と思ったでしょうかねえ >でも涙が出るほどに好きであったに違いない私はそう思うのです 前田慶次郎・・面白い人であったのでしょう、と同時に家名を残すという責任を放棄した武将でもあった、故に好き放題に生きる事が出来た側面が無いではないのだろうと思います。 回答ありがとうございました。

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