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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:意地と誇り)

意地と誇り

雷 むぐちょ(@raimugurin)の回答

回答No.3

こんばんは はーい3おバカトリオの1人どえーす 他の2人に失礼だろっ オラが言ったんじゃないやーい :オラなんて意地と誇りの間に生まれたんじゃなかろうかというほど :いじっぱりだんべぇ、 見栄、外見を気にして自身以上に魅せようとする者 :オラじぇんじぇん自分の見てくれなんて気にしないもんねぇ :オサレじゃないしぃ ;たぶんみえっぱりじゃぁねぇーとおもうだんべ ミエは張るものじゃない。切るものだ。”見栄を張る”という言葉と、”見得を切る”という言葉がある。 :おおー 前者は、自分の身の丈以上のことをしようとして、背伸びしている状態。こういう人は往々にして、よく失敗し、後悔する。こういう人は、弱いのを包み隠すのがそもそものその態度の理由だから、いざという場面では実はすぐに音を上げて、役に立たない。 :オラは何が起きても負けねぇーど ;しっぱいしたってぇぇ役に立たねぇーって言われたってぇぇ ;負けねぇーどぉぉぉー :だって男の子なんだもの :アタックゥゥーあたっくぅぅーナァァーンバァァーわぁぁーん 後者は、歌舞伎で使われる言葉だ。いざという場面で、格好をつける。自分がどんな状況にさらされていようが、やるべき場面で、やるべきことをしっかりとやる。これが、その言葉の意味だ。 :オラは仕事だきゃぁやるだんべぇ ;だんちょ・・座長にも言われてるだんべぇさー 見栄っ張りだからな。これからはミエの在り方を理解したはずだ。ミエは張るものじゃない。切るものだ。 :はーい •俺様は偉い •私は称賛されるに値する •俺のセンスは抜群だ •僕は大事に扱われて当然だ :だ・か・らオラ見栄だきゃぁねえだんべぇー :だってオサレじゃないしぃお馬鹿なんだもの :ちっさい事は気にしないっわかちこわかちこぉぉ これらの見栄を持っていると、そうでない現実に直面するたび、怒りが自分を支配する。これを、プライド誇り、矜持だと誤解してしまっている。 これが見栄ならどうだろう。これが、プライドでなく見栄だったと知ったら、どうだろか。 本当にプライドが高い、誇り高い人間とは、自分のことを一番最後に考えることが出来る、矜持のある、高潔な人間のことを言うのではないだろうか。 :オラはそんなキャプテン・ハーロックになるっ。 :そうなりてぇぇぇーどえーす。 またまたKJ座長様のQを逃してしまいましたぁー しばらくは、めっちゃんこいそがすぅぃーんだもの うほほぉぉーい

isoken
質問者

お礼

虎ちゃん、こんばんは。 >はーい3おバカトリオの1人どえーす 愛情の裏返しという事ですね、 kamejrou さんにそこまで言ってもらえる人はそうはおりません、勲章なんじゃないですか。 >:オラじぇんじぇん自分の見てくれなんて気にしないもんねぇ 少しは気にしましょうよ、その方が生きてゆく上で楽な事もありますから・・。 >前者は、自分の身の丈以上のことをしようとして、背伸びしている状態。こういう人は往々にして、よく失敗し、後悔する。こういう人は、弱いのを包み隠すのがそもそものその態度の理由だから、いざという場面では実はすぐに音を上げて、役に立たない。 いやいや 痛いとこを突くなぁ~、私はそれです、全てが当てはまるもの・・。 ただ男って背伸びしてナンボだとも思います、弱さを見せられない事もある、泣く泣く財布を逆さに振る事だってあるはずです。 >これらの見栄を持っていると、そうでない現実に直面するたび、怒りが自分を支配する。これを、プライド誇り、矜持だと誤解してしまっている。 怒りとはポテンシャルを引き出す為の導火線だと思います、人間を突き動かす最大の動力でもある、自分を高みに置いて追い込む事もたまには必要なんじゃないでしょうか。 >本当にプライドが高い、誇り高い人間とは、自分のことを一番最後に考えることが出来る、矜持のある、高潔な人間のことを言うのではないだろうか。 生きる上での基本線が違う人が稀におられる、高倉健さんみたいな人でしょうねぇ、余りに自分と違うものだから魅かれてしまうんです、私なんて。 回答ありがとうございました。

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    関ヶ原の戦いですが、山岡荘八の小説によると、「家康にとって大博打であった」としながらも、家康自身は、平地に陣取っていることを確認してから「戦闘は半日で終わるだろう」と言っています。当日は雨が多く土がぬかるんでいるので、山から降るのには時間がかかる。戦は臨機応変に動くべきで、その点(戦略)での勝利を確信していたという描写です。 また、西軍は毛利輝元を総大将に担ぎながらも東軍と全面対決するのは本意ではない、という書状を家老の吉川広家が送っていることや、有名な小早川秀秋の裏切りなどあり、一致団結とは言い難い状況にありました。対して家康は、関ヶ原の一ヶ月前に奥州の上杉景勝を攻めるという名目で大軍を動かしますが、わざとゆっくり進軍し石田三成が大阪で決起することを待ちました。そうすることで自分についてきた日和見の諸大名を一致団結させ、東軍に従わせることが出来た、という描写になっています。 数字の面で行くと、両軍の総勢では大差なかったといいます。しかし西軍から東軍に寝返った軍一万五千、成り行きを山上から見守っていた軍は二万五千ということで、東軍の中で実際に戦闘に加わっていたのは半分に満たなかったとのことで、これが勝負を決めたようです。 こうして見ると、決戦が開始される前にすでに勝負はついていたという見方も出来ますが、実際はどうだったのでしょうか?家康および徳川の重臣たちは、この決戦に対してあらゆる手を打ち尽くした上で臨んだから、勝利の自信があったというこでしょうか? あるいは、周到に準備していたとはいえ、博打であるには変わりなかったでしょうか? 徳川家康が政治の手本としていたのは武田信玄で、戦の手本としていたのは山県昌景だったと言われ、部下の井伊直政に赤備えの軍団を作らせ、大久保長安に武田家の政治のやり方を真似させたのは有名な話ですが、信玄本人は「戦闘が開始する前に八割方決まる」みたいな発言をしていたと思います。(ナポレオンも言っていたような) 関ヶ原に臨む家康も、そうした準備があったということでしょうか? また、このあたり(関ヶ原の事前の駆け引き・攻防)に詳しい書籍などありましたらご紹介頂けますと助かります。よろしくお願いします。

  • 豊臣政権、秀吉死後のIF

    関ヶ原の合戦が起き、徳川政権が興ったのはなるべくしてなった結果だと後世から観たら思います。豊臣秀長や前田利家といった豊臣政権内での調整役の死。それによる文治派(近江派)と武断派(尾張派)の対立。豊臣秀吉自身、有力な武家出身でないために死を覚悟して尽くしてくれる譜代の家臣(徳川家康でいう鳥居元忠や本多忠勝ら)もいません。また秀吉・秀長ともに継子に恵まれず秀吉の晩年に秀頼が生まれましたが、8歳の子供に政権が担えるわけがなく、秀吉の死後、有力な大名からなる五大老・五奉行による合議制によって政治が執り行われました。(秀吉の天下統一の過程でほとんどの有力大名を残し、滅亡したのは関東の北条氏ぐらいでした。それにより豊臣政権は大名による連合政権ともいえ、それを秀吉自身の能力やカリスマでまとめ上げていたといえます。)また、2度の朝鮮半島出兵により西国大名、特に豊臣恩顧の大名が疲弊してしまいます。結果、政権を担うことができるのは関東に250万石以上の領地を持ち、朝鮮出兵を経験せず戦力・財力を温存でき、戦国武将として桶狭間合戦以来の経験を持つ徳川家康しか残らなかったと思います。(この時代大名はすでに経験の浅い2世世代に移っていた。秀吉死後、残った人物の中で家康がNO1であるという評価が当時あったのかもしれない。)さて、ここで質問です。豊臣秀長や前田利家が秀頼が成人するぐらいまで元気で長生きしていたら歴史はどうなったでしょうか。(1610~1615年ぐらいまで。政権内で発言力があり、親豊臣政権・親秀頼が絶対条件)また、蒲生氏郷・堀秀政や小早川隆景らも元気に長生きしていたらどうなっていたでしょうか。例えば、秀吉死後の五大老が徳川家康・豊臣秀長・前田利家・蒲生氏郷・堀秀政・毛利輝元・小早川隆景(これでは七大老)ならば、家康もあれほど好き勝手はできず、史実のような政権奪取の野望も持ったなかったかもしれません。また、史実どおり合戦が起きたとしても、西軍総大将兼現地総司令官が豊臣秀長で現地副司令官が蒲生氏郷と堀秀政(蒲生・堀の領地は史実と違い近畿・中部・北陸で50万石以上が望ましい。)、軍監は黒田如水(説得して西軍に親子共々協力させる。大谷吉継は黒田の補佐。)で前田利家は西軍副大将兼大阪城留守居として大阪城に入城させる。石田三成は大阪で兵站奉行として全軍の兵站に専念させる。上杉は史実通り会津で挙兵させる。(蒲生が会津で、上杉が越後で挙兵でも可。その場合、関ヶ原現地副司令官は堀秀政のみ。水戸で佐竹も挙兵させるのが望ましい。)歴史のIFになりますが、その後どうなったと思われますか?皆さんのご意見を聞かせてください。