今僕が努力できるのは、誰のおかげ?
20代です。
僕は何かやろうと決めた時、周りの人がビックリするぐらい努力することができます。
「もうそんなにやらなくていいんじゃない?」
っていうぐらい努力することができます。
最近になって、なぜ今僕が努力できるのか気になって、
僕が努力できる理由っていうのを真剣に考えてみたんです。
すると1つの出来事が頭に浮かびました。
それは、中学でのいじめです。
僕は当時入っていた団体球技系の部活で、同級生数名に陰湿ないじめを受けました。
その数名に、全然練習できなくさせられていたんです。
そこで僕は、どうすればこいつらにいじめられなくなって、普通に練習できる様になるのか必死に考えました。
そして出てきた答えが、「一生懸命努力しているところを見せ、そいつらに認められること」だったんだと思います。
僕は毎日一生懸命走って、努力にすることにしました。
そいつらにいじめられなくなるように、一生懸命頑張っていたと思います。
その努力の甲斐あって、徐々に走るのが速くなっていきました。
しかしながら、結局いじめの行為が無くなることはありませんでした。
部活が終わる中学3年まで1日たりとも楽しく部活ができる日はなかったんです。
ちゃんと部活に気持ちよく参加できる日は、1日もありませんでした。
ただ、その部活で「自分は努力することができるんだ」という実感得ることはできました。
そんな時を経て、今僕は自分でも「自分は努力できる男だ」って思っています。
ここで気になることが1つ。
今努力できるのは、そいつらのおかげではなく「自分が努力しようと思ったから」ですよね?
確かに、「一生懸命やっている所を見せたらあいつらにいじめられなくなるだろう」という考えがあったから努力した部分もあったと思います。
つまり、努力しようと決めたきっかけは「そいつら」だったと言うこともできます。
しかしきっかけは何であれ、努力したのは紛れも無く「自分が努力できる性格だったから」に違いない筈です。
たとえ「一生懸命やっている所を見せれば、あいつらに認められて普通に練習ができるようになるだろう」と思っていたとしても、努力できないやつはできません。
すぐに止めて、三日坊主になる人だってこの世には、特に中学生なら沢山いると思います。
よって、僕が努力できるようになったのは、紛れも無く「自分が頑張れる性格だったからだ」と言うことができる筈。
僕を散々いじめて、痛めつけて傷つけた輩の「おかげ」だなんて、みじんも思いたくない。
仮に僕がいじめられていなかったら、違う形で努力するきっかけが見つかったかもしれません。
例えば、普通に練習をしていて試合に出ることになって、そこで相手チームに負けた時。
「このままだと勝てない」
こう思って、努力しまくったかもしれません。
きっかけが、試合だったかもしれません。
そして、その努力は直接自分の幸せに繋がることなので、実際僕が中学にした努力以上の努力をしたかもしれません。
こう考えることもできるので、やっぱり僕が努力できるのは「自分が努力できる性格だったからだ」って思うんです。
前置きが長くなり申し訳ありません。
ここで質問です。
上記の文章を読んで、皆さんは僕が努力できるのは「そいつらのおかげ」だと思いますか?
それとも「僕が努力できる性格だったから」だと感じますか?
正直、とにかく今僕が努力できるのに違いはないんだから、別にここまで生真面目に考えなくていいと思います。
しかし、当時の憎き人間の「おかげ」で、今僕が努力できるなんて絶対に思いたくないという考えがあるので、今回質問させて頂きました。
では、回答の方お待ちしております。