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意見と人格を切り離すべき?
ドワンゴの夏野剛が「意見と人格は切り離して考えるべき」という意見を述べていたことがありました。 夏野に限らず、海外経験のある人に多く見られる意見な気がします。 海外でディベートなどの経験を積むからでしょうか。 しかし、この意見は(芸術家を例外として)おかしいと私は思うのです。 現代社会において、私たちが最も重要視しているのは、「政治家や企業家の意見と人格が合致しているか否か」ではないでしょうか? 例えば、汚職事件を起こしてばかりの人間が「清廉潔白でなくてはいけない」といったら、我々は「お前がいうな」と感じますよね。 この感覚は、「清廉潔白というからには、その人の人格も清廉潔白でなければ説得力を持たないから」です。 あるいは、同じ「死刑を廃止せよ」という意見でも、自分の家族が死刑囚に殺された人と、死刑囚自身がいうのでは、全く意味が違ってきますよね。 つまり、意見と人格は不可分なのであって、「意見と人格を切り離す」なんてのは、ディベートなどという非現実的なゲームでしか成り立たないと思うのですが、どうでしょうか? ※もちろん、弁論術や議論のルールを学ぶ上で「意見と人格を切り離すべき」と教えるなら、私も納得します。 しかし、それを社会のルールであるかのように誤解して、「日本は意見と人格が不可分になっている」などというのは、的外れな意見としか思えません。 意見と人格が不可分になっているのは、日本以外の海外だって同じことです。 ※途中で「芸術家を例外として」と書いたのは、クリエイターは作品さえ優れていれば、作者の性格が悪くても評価されるからです。 もちろん、性格が悪いのに「現代の日本は人間性が荒れている」とか意見をいい出したら、この限りではありませんが……。
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- kannjyani
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日本のことわざに「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とあるように、日本人というものは偏向思考に陥りがちであると言えると感じています。嫌いな人物がどれほど素晴らしい意見を述べようとも、頑なに耳を傾けようとはしないなどは日常的に目にする光景ではないでしょうか。狭量とも思えてなりません。 しかし、そのように視野を狭めてしまうことは、正しい判断基準の妨げに成り得る。夏野氏はそれを説いただけに過ぎないと思います。 清廉潔白 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/123095/m0u/ 嘘のひとつも言えない人物が、政治や経済界で頭角を現せるものでしょうか。それはそれとして苦笑交じりに流しながら、真に云わんとすることに集中することが求められるべきあり方ではないでしょうかね。
- fuukakou
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湧けることは可能だと思う 本音と建て前 それはそれ、これはこれ みたいなもんじゃないの? 意見なら、何かの打開策をみんなが求めてる時に 貧乏人だから 大した教育受けてないから 捻た見方をしてるから 少数派だから とかで始めっから意見を除外しちゃダメだよ って事じゃないの? 人格の判断なんて文化でも違うし(物事の判断基準が変わるので)、自分の見たところだけで判断してるわけだし・・・ 人間って清廉潔白じゃないとね~ と言う意見が、悪さばかりしてる人のものでも 建前として言ってても、そうだなぁ、どっちかと言うとその方がいいよなぁ~ 言ってる事は正しいよなぁ と思うことは可能だし 自分が悪さばかりしてるから、心の中で辛いとか、憬れてるとか、なんでこうなっちゃったんだろうなぁ?、と思っての発言かも知れない。そうは見えなくても。 いい人に見せかける事も可能だし 人格は勝手に判断しがちだけど、意見の正しさ、有効性を問うなら誰が言ってても一緒って事じゃね? 正当性を感じるかと正しいかは別。 でも人間、教育とかで何を正しいと、有効と思うかは変わるんだよね~ それで選択をするんだよね~
夏乃はバカだからね。 キチガイの言うことなんかいちいち聞いてらんねぇ。
- qzec
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意見と人格を切り離すべきなんてのは特別な考え方でもなんでもなくて、一般的な考え方ですよ ビジネスマン講習などで教わりますよ。 ですが、これが出来ていない人が多いというのが現状で、その事を夏野氏は嘆いているのでしょう >夏野の意見は「意見の内容の是非」だけを見るべきだというものですが、意見の内容だけでいうなら、鳩山由紀夫元総理も「正論」をたくさん述べていますね。 >しかし、彼の「正論」を真に受ける人間は誰もいないでしょう。 ですから、これが良くない事だといっているのですよ この状況は、人格だけで判断されてるという事に他なりません 信用をなくしてる鳩山氏の意見だからといって何でもかんでも反対するんじゃなくて、 人格と意見は切り離して考えましょうよって事ですよ >意見の内容が正しいかどうかを判断した上で、さらに、その意見と発話者の人格が一致しているかどうかを見るべきです。 それはその通りですが、実態は上記の鳩山氏のように 意見の内容を正しいかどうか判断する前に、発言者の人格だけ判断する人が多いというのが現状です もっと身近なことを例にしますと 遅刻常習犯の社員A、同様に遅刻の多い上司B、遅刻はしない新人C、嫌われ者の社長Dがいるとします 上司Bが社員Aに「遅刻をするな」と言っても説得力がありません 社員Aからすれば「おまえが言うな」でしょう 新人Cが社員Aに「遅刻をしないでください」と言っても説得力がありません 社員Aからすれば「新人が指図するな」でしょう 社長Dが社員Aに「遅刻するな」と言ったら説得力はあるでしょうが 社員Aからすれば「誰がお前のいう事なんかに従うか」となるかもしれません このように、「遅刻をするな」という当たり前の意見でも 発言者の人格によっては説得力がなくなってしまいます が、こんな考え方をしていては社員Aは延々に遅刻がなくなりません それは言うまでもなく良くない事です なので、「意見と人格は切り離して考えましょう」って考え方が重要になってくるのです 発言力がないからといってその人の意見を切り捨てると、良い意見が無視されてしまい 状況によっては悪い結果を生みかねません 自分の事は棚にあげて意見するというのも必要なことですし、 発言者の人格に関係なく意見は意見として受け入れるのは 議論する上で、ひいては物事を成功させる上で大切なことなのです 質問者さんは「本文中で意見と人格は不可分」と書いてますがそれは紛れもなく真実です だからこそ、議論や意見する時には注意しなければいけないのです また、上司Bの立場で考えると、「遅刻をするな」という発言に説得力を持たせるには まず自分の遅刻をなくすということがのが大事になります なんでもかんでも意見と人格を切り離せばよいわけではありません 発言力を高めるために自分を磨く事というのも同様に重要なことです
- dell_OK
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質問者様が賛成と反対の両方の回答を受け入れ考察できる、と言う前提で回答しますが、どちらか一方の回答しか受け入れられなくても構いません。 質問者様の意見は、意見と人格を切り離すべきではない、ですね。 私の意見は、意見と人格を切り離すべきである、あるいは、切り離す事は可能である、です。 ついでに言うと、切り離さない事も可能である、となります。 言っている事(意見)とやっている事(人格)の違う人は多くあるのが理由のひとつです。 これは矛盾でもなんでもない、容易に理解できる事だと私は思っています。 つまり、おかしなのは確かだが、現実としてあるわけで、これがごく普通の事であると私は思っています。 もちろん、言っている事とやっている事が一致している人も多くあり、これもごく普通の事だと私は思っています。 質問者様が言われる「説得力を持たない」と言う感覚は、私にはあまり意味のないものだと思っています。 受け入れがたい、と言う気持ちは理解できますが、受け入れられないわけではないはずだと思います。 私は「お前がいうな」と感じた事がありません。 仮にそう感じた事が過去にあったとしても、それはなかった事にしてください。 「お前」が言うと納得できないが、誰か別の人が言ったら納得できる、のであれば、説得力は関係ないように思います。 言って然るべき人が言えば説得力があり、説得されるのでしょうか。 それは判断に誤りを生ずると私は考えます。 「清廉潔白でなくてはいけない」とふさわしい人が言ったら説得力はあるかも知れないが、「清廉潔白でなくてはいけない」と言う意見は誰が言っても同じ説であるわけだから、説得力がない人が言っても「清廉潔白でなくてはいけない」と言う意見には説得される可能性が大いにあるわけです。 誰が言っても変わらない文言に説得されるかされないかは、言った人には関係ないはずで、聞いた人が、どう聞き入れるかと言う違いなだけだと思います。 結果、どのような人格の人がどのような事を言っても、その関連性を意見の判断材料にするべきではない、つまり、意見を判断するに当たり、意見と人格は切り離して考えるべきである、と私は思っています。 例えるなら、人格に問題のある人が「1+1=2」と言ったら、そうなのか、どうなのか、そうかも知れないな、と思うし、人格に問題のない人が「1+1=1」と言ったら、そうなのか、どうなのか、そうではないかも知れないな、と思う、それが事実、真実、正論などなどであるかどうかは聞き手が考える事で、言った人の人格は関係ないと言う事です。 自分の意見との一致性によって判断するのであり、人格の評価、相性、好き嫌いで判断すべきではないでしょう。 「説得力のある(言って然るべき)人が言ったら聞く耳持つけど~」みたいな考えの人も多くあるので、それもごく普通だと思います。 でも、「じゃあ、誰に言われたら聞く耳持つのか」と聞きたくなるし、そんな人を連れてきて言ってもらっても、結局、わかってもらえそうにない人が、そんな風に言っているような気がする。 それは、私にとってとても歯がゆい事で、いやならいやと、最初から言えばいいものを、遠まわしにお断りするのが、「お前がいうな」って言葉になっているのだと思えてしかたない。 言っている事は正しいかも知れないけど、そんなに簡単にできないよ、って場合も、「お前がいうな」になってるように思う。 理想と現実の現実に負けかけている言い訳に、「お前がいうな」が使われているのかも知れないと思う。 こんな例もどうだろうか。 タバコを吸っている人に「タバコは体によくないからやめろ」と言われても「お前がいうな」だろうけど、 タバコを吸っていない人や、やめた人に同じ事を言われても、「そう言われても、やめたいんだけどね」となかなかできずにいる人や、「別にいいじゃん」って、最初からそんな気のない人もいるわけです。 誰に言われたかなんて、関係ないと思うわけです。
- 23tomo-u
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もっと簡単に考えてもいいのでは。 これは社会というコミュニティで生きる上では 多くの人がやっていることだと思います。 分かりやすい例でいうなら、例えば無能な上司がいるとして、 部下と意見が対立し、部下が上司の意見に不満があったとしても 「お前みたいな無能な上司と話してたらイライラする」 なんていったら社会生活、営めませんよね。 そこで意見を言いたいならまず上司の考えを肯定した上で 「そこで私からの提案なんですが、これこれこうしたらいかがでしょうか」 という前向きな意見を述べることだと思います。 誰だって敵意剥き出しで話されてもビックリしてガードするだけでしょう、 相手がいかにバカで安易なことをいったとしても、 そこですぐ感情むき出しで不満をぶつけるより、いったん気持ちを置いた方が 自分の意見を聞き入れやすくなります、処世術ってやつですね。 現実はこんな簡単でもないんですが、 質問の一文を見るとこういうことを言いたいなかなあ、と思いました。
>意見と人格を切り離すべき? くしくも芸術家の例を出されたように、 意見にも人格と切り離して考えるべきものと、 そうでないものがあるに過ぎないと思いますが。
その方の意見は引用しか見ることが出来ませんでしたが、その引用通りなら、その方はそういう事を言いたいのではないと思います。 議論の仕方を言っているのであって、その人の評価の話とは別の話だと主張しているだけでゃないでしょうか。 あなたの言っている例は言動を評価しているのであり、人格と意見は分けて考えることが出来ないという例にはならないでしょう。 さらに言えば、その人の評価で意見の解釈をころころ変えるなら人はいったい何を信じればいいんでしょうか。
- 漢字の苗字☆ 平仮名の名前☆(@minaotehon)
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簡単ですよ☆ 普通に考えりゃよろしいのでは? ☆普通を否定する事は変です☆ 順風満帆といかずとも優劣こだわった傲慢さが邪魔になるのではとも思いますね☆ 回答わかりにくいでしょうか☆
お礼
> 普通に考えりゃよろしいのでは? それは誰にとっての「普通」なんでしょうか。 > ☆普通を否定する事は変です☆ その前提はどこから導かれたものなんでしょうか? > 回答わかりにくいでしょうか☆ 回答になっていないので、次回からは質問文をきちんと読んでください☆
お礼
回答ありがとうございます。 > その方の意見は引用しか見ることが出来ませんでしたが https://twitter.com/tnatsu/status/125589725938585600 これですね。 > 議論の仕方を言っているのであって、その人の評価の話とは別の話だと主張しているだけでゃないでしょうか。 議論の仕方を教えるだけならその通りだと思いますが、この話を元に「だから日本人は議論が下手なんだ」という夏野の意見は全く無意味だと思います。 > さらに言えば、その人の評価で意見の解釈をころころ変えるなら人はいったい何を信じればいいんでしょうか。 意見の内容が正しいかどうかを判断した上で、さらに、その意見と発話者の人格が一致しているかどうかを見るべきです。 夏野の意見は「意見の内容の是非」だけを見るべきだというものですが、意見の内容だけでいうなら、鳩山由紀夫元総理も「正論」をたくさん述べていますね。 しかし、彼の「正論」を真に受ける人間は誰もいないでしょう。 理由は、彼の背景から人格から考えて、彼の「正論」に全く説得性がないからです。