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霊も、死後の世界も、宗教も信じていないのにお墓参りをするのは・・・

霊も、死後の世界も、宗教も信じていないのにお墓参りをするのは・・・ これは私自身のことです。 無宗教だし、死んでしまったら「無」になるだけで死後の世界などないと思っています。 でもきちんとお墓参りには行きますし、毎日仏壇にお線香をあげ手を合わせます。 それどころか、それをやらないと「バチが当たる」とか「ご先祖様に申し訳ない」とか本気で思ったりしていて、こういう矛盾した自分自身の気持ちがとても不思議です。 日本人は無宗教の人が多いですが、私と同じような人って多いのでしょうか? それとも、死後の世界はあると信じて先祖の供養をされてる方のほうが多いのでしょうか? お彼岸を控え、皆さんはどうなのか聞いてみたくなりました。 それから、死後の世界などないと言いながら一方でバチが当たると恐れてしまう、私のこの矛盾した気持は何なのでしょう? 代わりに説明していただける方がいらっしゃいましたらよろしくお願いいたします。

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  • cucumber-y
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回答No.9

そこに大切なものがあるからではないでしょうか。 私も信心深いわけで無いし死後の世界に本気で期待はしていませんが、交通事故で右足を切断した時、切断した足1本を病院に任せて廃棄物(ゴミ)として処理してもらうか、役所で手続きしたうえで火葬(?)してからうちの墓に入れるかの二択を問われましたが迷うことなく骨壷に収めて墓に入れました。 切断した右足など理性的に考えれば、故人と比べることも出来ないくらいただの肉塊ですよね。 例え霊魂が存在してもそれは本体である私のほうにあるもので、肉塊に宿るとは考えられません。 それでも、私も私の家族もそれを『生ゴミ』として処分することは出来なかった。 理屈以上の人の心のどこかが判断しているように思います。

noname#125237
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 普段から回答者さんの質問や回答はよく見させていただいていましたので、今回、右足を交通事故で切断されたと伺い本当にびっくりしました。 本当につらい体験をされていたんですね。 この度のお話はとても考えさせられるものでした。 もし私が同じことを体験したら、やはり自分の体の一部を『生ゴミ』として処理するなんてとてもできません。 おそらく・・というか絶対に私もお墓に入れてもらっていたでしょうね。 「霊魂など信じていない」と言いながら、心の中では無意識のうちにそのようなものの存在を信じているのかもしれません。 初めてそのことに気づかされたような気がします。 >理屈以上の人の心のどこかが判断しているように思います。 この言葉が私の気持ちを表してくださっているように思います。 理屈ではないものが心の中にはあるのでしょうね。 「矛盾」と感じていたもの。それは矛盾なのではなく「理屈以上のもの」が心の中にあることに気づいていなかっただけなのかもしれません。

その他の回答 (9)

回答No.10

日本人のアンケート調査では「自分を無宗教である」とする回答が多い結果が出ていますが、 これはキリスト教や新興宗教のような宗教を信仰していない、という意味での無宗教であって、 先祖崇拝や自然崇拝などの宗教を信仰している人が多くいると思います。 これらの信仰は、一神教からは宗教と見なされていませんが、世界中では、 アメリカのネイティブアメリカン(インディアン)、オーストラリアのアボリジニを初め、 アニミズム、シャーマニズムを信じている社会は沢山あります。 また、先祖崇拝(先祖が神となり子孫を守ってくれる)は東南アジアの一部で信仰されている 宗教であると、宗教関係の本に書かれていました。 キリスト教や新興宗教のように布教をしたり、熱心に宗教活動するものだけが宗教では ありません。 日本人の多くの人は、先祖の供養を大切に考える先祖崇拝の信仰を持ってますし、 あなたがその信仰心を持っているのであれば、その心を大切にした方が良いと思います。

noname#125237
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 >日本人の多くの人は、先祖の供養を大切に考える先祖崇拝の信仰を持ってます なるほど。こういうものも「信仰」と言えるのであれば、確かに私も「信仰者」となるのかもしれませんね。 小さい頃から家の人が仏壇に手を合わせたりお墓参りに行ったりしているのを見ているだけで、自然とそういう「信仰」が身についていたのかもしれません。 皆さんの回答を一つ一つ読んでいて、自分は「無宗教」と思い込んでいたのがそもそも間違いであり、そこに自分の気持ちとの矛盾が出ていたということがわかったような気がします。

  • k_kota
  • ベストアンサー率19% (434/2186)
回答No.8

私は完全なる科学主義者というか、まあ霊的なものは感じたこともないですし、死後の世界も期待していません。 でも、墓参りは行きます。 別に矛盾も何も無いです。 先祖に礼を尽くすと言うのは割と自然な考え方だと思います。 また、祈ると言うことは、死後の世界でなく、私の中の「先祖」と言う存在への祈りでもありますし、 やがては死んでしまう自分自身への祈りもあるのかも知れません。 つまり、生きている人間の中にある「死後の世界」に向けて祈ると言い替えても言いかも知れません。そういう意味では死後の世界と言うのは実在しますからね。 いずれにせよ、私はそれがすべきであるしよい行ないであると考えて実施しています。 別に本人の言い方の問題ですが、毎日のお線香と合掌をしていれば、立派に仏教徒 だと思います。 宗教と言うのはカルトみたいなものでもなく生活に根付いてこそのものだと思うからです。 まあ、違うと思うならそれは別にいいですけどね。

noname#125237
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 >別に矛盾も何も無いです。 先祖に礼を尽くすと言うのは割と自然な考え方だと思います。 お墓参りや仏壇に線香をあげることが宗教的行事ではなく「先祖に礼を尽くす」行為と考えればいいのですね。 仏壇に線香をあげ手を合わせる行為などは、毎日当たり前のこととして行っていますが、お彼岸やお盆の行事、特にお坊さんが家に見える日などがパートと重なった日には休暇をもらい、お茶菓子を用意したりいつもより念入りに掃除をしたりしてお坊さんが見えるのを待っていたりすると、そのようなものが「面倒だ」と思ってしまう自分がいます。 しかしそんなときに「こんなことを思ってはいけない。ごめんなさい。」ともう一人の自分がそれを打ち消したり謝ったりしているのです。 そしてふと、「霊はいないと思ってる自分なのに、なぜこんなふうに思っているんだろう」と不思議に感じてしまいます。

  • cxe28284
  • ベストアンサー率21% (932/4336)
回答No.7

お墓はMemorial park とも呼ばれます。その人が生きていたことを証しするもの記念するもの でもあるのではないでしょうか。 特に愛する人を失い静かに追憶したいその心のよりどころではないでしょうか。 私は年2回弟たちと家族で両親の墓に参ります。宗教の行事ではなく、苦労をかけた 両親にみんな御蔭様で幸せに生きています。感謝は忘れません。と祈るのです。 いつも母の好きだった花を選んで持っていきます。そして帰りには一緒に食事をして、 子どもの頃の話、父の思い出母の思い出を語ります。それぞれの子どもたちも一緒に来るので、 私はこの行事をとても大切に思っています。

noname#125237
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 命日などに故人を偲び、回答者さんのような一日を過されることは素敵なことだと思っています。 それでですが、回答者さんは死後の世界を信じた上でこのような行事を過されていらっしゃいますか? それならそれで、矛盾はないのでいいと思うのです。 私の場合、両親はまだ健在ですが、例えば両親のどちらかが亡くなったとします。 そして命日には毎年、回答者さんのような日を過すとします。 ところがある年に、何か事情ができてそのような記念日を過すことができなくなったとしたら、私は「今年はできなくて本当にごめんね~」って、きっとものすごくすまない気持ちになってしまうと思うのです。 でも変なんです。 私は死後の世界を信じていないのにこう思ってしまう。 それがどうしてなのか自分自身でもわからなかったわけです。

  • 6750-sa
  • ベストアンサー率26% (438/1656)
回答No.6

習慣であり文化となってしまったものかと思います。 お葬式で線香あげるのも同じですし、もしかすると結婚式でのケーキカットなんかと変わらないのかもしれません。 バチが当たるという発想は宗教家(お坊さん)が庶民に教え続けてきた名残りです、死後の世界に行ったこともない坊主たちに檀家を増やすための脅迫暗示をかけられたのだと思っています。

noname#125237
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 私は無宗教かつ死後の世界を信じていないので、お墓参りや仏壇に手を合わせることは完全に習慣となってしまっていると思います。 なのにたまに仏壇に手を合わせる前にうっかり自分の食事を先にしてしまったりすると、「ごめん、ごめん」なんて仏壇に話しかけてる自分もいます。 バチが当たるという考えは子供の頃から刷り込まれてしまったものなんだろうなと思いながら、やっぱり無意識にそういう考えがよぎってしまうのですよね。

回答No.5

 私は無宗教で教義雑食派、死後世界も信じてはいませんが(汗) 日本人にとって自分のご先祖を敬う気持ちは、宗教や死生観とは無関係に あるものではないかと思っています。 まぁ、私にとって墓参りや仏壇の設置などは・・・ 死後世界を信じて行なっているというよりは、故人が信じていたで あろう死生観&拠り所にしていた物事を大切にしてあげたいという 感覚の方が強いですね。

noname#125237
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 何も信じていらっしゃらないとのことで、やはり私と同じですね。 >故人が信じていたであろう死生観&拠り所にしていた物事を大切にしてあげたいという感覚の方が強いですね。 ああ、もしかしたらこれなのかもしれません。 私が感じるのは、霊に対してという意識ではなく、「故人がやってほしいと願っているかもしれないのに、それをしないこと」に対する罪悪感なのなのかもしれませんね。 例えば、生きている人と何か約束をしたとします。 その人が見ていないからといって約束を破ろうとすれば罪悪感が生じる。 生きてる人との約束だから、霊も何もないし、見ていないからバレないにもかかわらず「悪いな」と感じる。 その気持ちと同じようなものなのかもしれません。

  • yotani0425
  • ベストアンサー率30% (1185/3898)
回答No.4

私も死後の世界も特定の宗教も全く信じておりませんが、命日には祖先や祖父母を祭った仏壇にお参り、年に一度の墓参りはしております。手も合わせますし数珠も持ってます。 宗教儀式(バチが当たるとか先祖に申し訳ない)というよりは祖先や祖父母への感謝(今の自分があるのも祖先のおかげ)の機会・思い出す機会と思って行なっております。 もう高齢の母がこの先亡くなったら、信者では無いのですが、やはり母がお参りしていたお寺に葬式を頼み、仏壇に線香をあげ、墓にお参りにいくと思いますよ。 まあ、老い先のほうが短くなってしまった歳ですが、死後は「無」としか思っておりません。ゆえに子供たち(子供たちも信心はありません)が私の死後、遺灰はどう扱うのかは知る由もないことになってしまいますが、多分、墓がある限りは墓に入れて墓参りくらいはすることになるのではないでしょうかね、そんなものかもしれませんよ。 バチが当たるというよりも感謝の気持ちから出てくるのでは?それを表す場所がたまたま仏壇であり墓であったというようなことではないでしょうか。(個人的な考えではありますが)

noname#125237
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 回答者さんはバチが当たるとか先祖に申し訳ないという気持ちではなく、ちゃんと感謝の気持ちから宗教儀式を行っていらっしゃるのですね。その気持ちは本当に素晴らしいです。 今、自分はどうか・・・と胸に手を当てて聞いてみると、私はなんとなく「義務」とか「習慣」のようになってしまっています。 特に、自分の実家のお墓なら「自分が今存在しているのはご先祖様のお陰」と思うこともできますが、嫁ぎ先のお墓となるとなおさら全く見も知らずの人が祭られているわけで何の感情も湧きません。 (夫が存在していることを感謝すべきなのはわかっているのですが) そして、こういう自分自身を「自分はバチ当たりだなあ」と思ってしまうのです。 本当、矛盾してますよね。 #1の方のところにも書きましたが、8年間「アーメン」と口にしてきた私が仏壇に手を合わせていることがおかしなことのようにも感じることもあります。

  • konata508
  • ベストアンサー率26% (514/1954)
回答No.3

先日、法要で和尚さんが述べた説法ですが基本的お経なども生きている人達に向けたものだと話してました。生きている人が先祖の霊の前で自分を振り返ったり、戒めたり報告したりして子孫が幸せになることが一番の供養だと言う持論らしいです。 そのくらいでいいと私も思います。

noname#125237
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 お経は生きてる人達に向けたものなんですか。 それは初めて知りました。 ただ、聞いていても内容がさっぱりわからないですが・・・ 実は誰にも言えないここだけの話しなのですが、法事などでお坊さんがお経をあげている最中、全く別のことを考えてしまっていることの方が多いです。 これは私が不信心であるがゆえでしょうかね。

  • KENUNO
  • ベストアンサー率66% (2/3)
回答No.2

私は無宗教です。1980年生まれの30歳です。 私たちは昔から「バチが当たるぞ」「お天道様が見てるぞ」とか、いわゆる『神様』という言葉は使わなくても、なんとなく『神様みたいな存在』というものを教えられてきたと思います。そういう『神様みたいな存在』が日本人の倫理観や生き方の支えになっているんじゃないでしょうか。そして、それに逆らうと何となく悪い事をした気になるんじゃないでしょうか。 そもそも日本の宗教は、明治政府が神仏分離令を出すまでは、お寺と神社が一緒になっているという独自の宗教体系が千年も続いていました。神社は神道ですから、アミニズム的な発想(自然崇拝的な信仰)、仏教はお釈迦様やヒンズー教などから受け継いだ、いわゆる多神教です。これら一緒になっていたんですから、何というか「神様」という存在は、絶対的なものでもありながら、一神教であるキリスト教のようにその存在をしっかりと定義づけられるものではなかったのかもしれません。そういう名残がおじいちゃんやおばあちゃんから受け継がれ、日本には「神様みたいな存在」だけが漠然と人の倫理観や生き方にそっと横たわっているんだと思います。 私は無宗教ですし、神様が何かをしてくれると思っていません。ただ、何となく「これはやっちゃいけない」「こうするべきだ」ということを私に言ってくる、「神様っぽいもの」は「自分の中に」あると思っています。

noname#125237
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 確かに、「バチが当たるよ」という言葉は、物心ついた頃からおばあちゃんやおじいちゃんから言われていたので、言葉は大げさかもしれませんが一種の「マインドコントロール」みたいな形になってるのかと思ったりもします。 >それに逆らうと何となく悪い事をした気になるんじゃないでしょうか。 おっしゃる通りです。 「信じていない」と頭では考えながら、それをしないことになぜか罪悪感を感じるんですよね。 >「神様みたいな存在」だけが漠然と人の倫理観や生き方にそっと横たわっているんだと思います。 そうですね。 「みたいな」とか「漠然と」とか・・・まさに私の心の中がものすごく曖昧な状態なんです。 「神様っぽいもの」の存在。まさに私の心の中も回答者さんと同じだと思いました。

  • igunition
  • ベストアンサー率22% (31/138)
回答No.1

脳が信じてなくても、自分の魂がこれはやらなきゃ、と思っているからです。 信じていない人に延々と説教するつもりは有りませんが、折角やっているんだからそのままやっときましょう。 死んだ後では遅いですよ・・・

noname#125237
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 回答者さんは信じてらっしゃるのですね。 もちろんこれからもお墓参り、お彼岸やお盆などの宗教行事はしていくつもりです。 実は私は中学から短大までの8年間をキリスト教主義の学校で過ごしました。 毎日礼拝をし、洗礼を受けた先生方のお話を聞きながら成長したにもかかわらず、結局信仰するには至りませんでした。 キリスト教の教えに素晴らしい内容はたくさんあると思いますが、どうしても死後の世界とか、「信じる者のみが救われる」とかいうものが信じられず・・・したがって「死んだ後では遅いですよ・・・」という言葉を聞いてもピンとこないのです。

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