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「自責の念」はエゴイズムの産物だと思いますか?

皆さんは「自責の念」はエゴイズムの産物だと思いますか? 私は先日、他の利用者による以下の質問に回答しました。 ・自分のことより相手のことを考えるなんてできる?  http://okwave.jp/qa4851130.html (回答12:fuss_min) 私はこの回答の中で、 「自責の念」はエゴイズムの産物だと書きました。 痴漢でっち上げ事件で、犯人の女が自首したのは、 「でっち上げがバレて、責任を追及されたらどうしよう。」 という恐怖心から来るストレスから 自分を守るという女自身のエゴイズムが、 この女を自首に駆り立てたのだという自説を述べました。 歴史を振り返ると、 権力者達は自分に都合の悪い言動を行う人を弾圧するため、 架空の罪をでっち上げることにより、 無実の市民を逮捕して処刑したりしてきました。 権力者達がこのような残虐な行動をなし得たのは、 権力者達に「自責の念」が無かったからではないでしょうか。 上で述べた痴漢でっち上げ女の場合とは違い、 彼らは最高権力者の地位にあるがゆえに、 どんな悪事でも責任を追及されることが無かったため、 「自責の念」を持つことが無かったと考えます。 ここから私は、「自責の念」というのは 自己保身の欲求という一種のエゴイズムが 生み出す感情であると考えています。 これについて皆さんはどう思いますか? 「自責の念」とは一体どこから来るものだと思いますか?

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  • localtombi
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回答No.1

自責感というのは、自分で自分を責めさいなむことを言いますが、「自責の念」で思い出すのが、福知山線の事故です。 奇跡的に生き残った乗客の何人かが、あの惨事で大勢の人が亡くなったのに自分だけ生きていていいのだろうか?という念にかられて、精神的に苦悩したことがあります。 周りがあまりにも悲惨な状況で、自分だけポツンとこれからも生きていられること、これは本来「生きていて運がよかった」と喜ぶべきでしょうが、それ以上に「お前だけ生き残って、これからもヌクヌクと生活していける」と思われること、そして、「自分が生きていることで、他の人が一人亡くなったんだ」と思ってしまうことに対する「恐れ」が先行することで、ある種の「申し訳なさ」の意識が生まれて、自責の念に結びついていくのだと思います。 その意識が段々エスカレートしてしまうと、自分に罰を与える自損・自傷行為に至ってしまいます。 前置きが長くなりましたが、そこで、おっしゃっている >「自責の念」というのは自己保身の欲求という一種のエゴイズムが生み出す感情 ですが、先ほどの福知山線の例を挙げれば、自責の念というのは、確かに見方を変えれば、“自分で自分を責めさいなむ姿を見てもらいたい”“本来生き残って喜んでいいはずなのに、意気消沈している自分を慰めて(誉めて)”みたいなことも言えるかも知れませんが、実際に悲惨な状況に出くわした精神的状況を考えると、(おっしゃっているニュアンスは非常によく分かりますが)必ずしもエゴイズムとは言えないような気がします。 多分、自責の念が自分の中で完結する場合、要するに他人に(自分の感情・心中を)披露する必要がない(その機会がない)場合はエゴは出てこないと思います。 エゴイズムの感情が出るかどうかは、周りの見方、見られ方にかかっているのではないでしょうか。

fuss_min
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 なかなか難しい問題のようですね。

その他の回答 (5)

  • kottinQ
  • ベストアンサー率37% (220/587)
回答No.6

こんにちは。 質問者さんは、本能=エゴイズムとお考えのところがありますね。 船が沈んで海に放り出された。一人しか使えない浮き輪が目の前にある。この時、他人を突き放してでもこの浮き輪を自分のものにする。 これは「生きたい」という本能に突き動かされた行為で、とがめられるものではありませんし、これは、エゴイズムではないと考えます。 エゴイズム=利己主義。本能による行動は、「主義」を超えたところにあります。 人間の第三の本能に「社会的安定」があります。 人に認められ、社会の中でしっかりとした存在感を持ちたい。安定した居場所が欲しい。これは人間の本能的欲求なのです。 同時に人間は、社会性を求められます。社会性を磨かれた人ほど、自責の念が強くなると思います。 私の会社は、印刷関係です。 いろんな状況でミスが発生します。 ミスによっては、とんでもない損害を出すことがあります。ミスが出たとき、今後に生かすために発生原因をみんなで考え、それぞれに報告書を書いてもらいます。 そうすると、交通事故ではありませんが、過失割合のようなものが見えてきます。Aは50%、Bは30%、Cは10%、DEは5%というふうにね。 この5%の人間がどう考えるかですよ。過失5%は、5%の低い確率ではあるが、ミスを事前に発見することが出来たということ。そこで自責の念をもてるかどうかです。 自責の念を持つということでは、A~Eみんな同じなのです。 「人より罪が軽いからいいんだ」などと考えているようでは、成長は望めません。 1%でも自分がそのミスを防げるチャンスがあったのにと、自責の念をもてる人は素晴らしいです。報告書を見ながら、そのへんを読み取らせてもらっています。 長くなり申し訳ありません。 会社の経営陣にいるものは、こんなことを考えています。

fuss_min
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 4番さんへのお礼と重なりますが、 何をエゴイズムとするかが難しいです。 自己保存のための行動も、意識的に行うものと、 無意識的・本能的に行うものがあります。 前者のみをエゴイズムとするか、それとも、 後者も含めてエゴイズムとするかによって、 話はだいぶ変わってくると思います。 私はここではエゴイズムとは 後者を含めたものと定義しています。 〔追伸〕 ご回答の後段で経営学的な視点から 指摘されている「自責の念」については、 「社会的責任感」と言い換えることも出来ますね。 当質問の趣旨とは若干ずれるような気もしますが、 社会生活を営むに当たっては必要なことであり、 とても参考になるご指摘でした。

noname#92301
noname#92301
回答No.5

「自責の念」 罪を犯した以外でも自責の念はあると思います。 自分の生命の揺らぎ、自分の生に確固たる自信のようなものを築けなかった、または損なってしまったなど。 自責の念から自分を解放し、輪郭を取り戻す行為自体は、エゴイズムかもしれません。 どこからくるのか… 絶望、あるいは失望などからではないでしょうか。

fuss_min
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

noname#84210
noname#84210
回答No.4

私は、「自責の念」は人がエゴイズムを捨て去ったときに起こる感情なのではないか、と思います。 私が考えるエゴイズムとは、自分の行動の根本に、自分の利害があるということです。 つまり、自分にとって不利益なことは、行わないということです。 そう考えると、痴漢事件の女性が自首したのは、エゴイズムではないと思います。彼女が自主したのは、自分の罪を認識したためだと思います。また自分の言動が無実の人を罪に陥れてしまったことへの深い反省があると思います。そして、それこそが自責の念の表れだと考えます。 こうしてみると、私が考えるエゴイズムの中には、自己保身というものは含まれていないようです。エゴイズムと自己保身は似ているようでもありますが、私としては、また別のものだと思っています。 ただ、fuss_min様がエゴイズムの中に、自己保身という感情があるとするのであれば、fuss_min様が主張されていることもわかるような気がします。 結局は、エゴイズムという概念は何か、その捉え方によって、変わってくるように思います。

fuss_min
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 おっしゃる通り、何をエゴイズムとするかが難しいです。 自己保存のための行動も、意識的に行うものと、 無意識的・本能的に行うものがあります。 前者のみをエゴイズムとするか、それとも、 後者も含めてエゴイズムとするかによって、 話はだいぶ変わってくると思います。 私はここではエゴイズムとは 後者を含めたものと定義しています。

noname#84871
noname#84871
回答No.3

一つの言葉に対して一つの見方、一つの事象に対して一つの見方しか出来ていないように感じました。 自己保身の欲求という一種のエゴイズムが生み出す感情=自責の念。 であれば「自責の念に駆られての自殺」は 自己保身の欲求という一種のエゴイズムが生み出す感情に駆られての自殺。 でしょうか。 私には矛盾があるようにも取れます。 取り様によっては「名」を守るために無になった。とも取れます。 しかし、「自己保身」だけでは「自らが己の身を保つ」が一番すんなりきますので「自らが己の身を保つことを目的に命を絶った」と捉える方が多数でしょう。 言葉は1+1=2ほど簡単では無く人の心はさらに複雑だと私は考えています。

fuss_min
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。

  • e271828
  • ベストアンサー率16% (3/18)
回答No.2

素人です。見当違いかもしれません。 東大の国語の試験問題で取り上げられた文章だったと思うのですが、日本人は昔から死んだ人の祟りを恐れてきたそうです。その祟りにより自分や仲間が死んだり悪影響が及ぼされるのを恐れ、おはらいや清めの儀式を行ってきたのだと。自首がおはらいや清めにあたるとすれば、(その場合は)古来からの習慣かもしれません。それが現在では結果的にエゴにとらえられると。(エゴ・保身も結局、自分の寿命を縮めるストレスを消すためで、生き物が生き続けようとする原始的な原理からくるものなんじゃないかと生物学をやって思いました) 飛躍しすぎかもしれませんが、生き物が生きるために自責の念が生まれるというのが私の今の考えです。その一つとして、エゴがあるのではないでしょうか。

fuss_min
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 参考になりました。

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