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考えることを知らない大学院生たち

takkochanの回答

  • takkochan
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回答No.8

元々、本来、自分で考えられる大学院生の数は、ある程度限られていたと思います。20年前(私が修士を出た時)は、国立で、理学部の化学の博士課程を持つところは、旧帝大、東工大、広島大、筑波大だけで、あとの国立大学は、博士課程を持っていませんでした。現在は、ほとんどの国立大学が持ち、定員も増加しています。あるレベルの人(自分で考えられる人)の数が、定員と比例して増えることは考えられませんので、全体としては、考えられる人の比率は減少します。 さらに、昔は、修士課程で定員割れしても、基準点で落としていた(私の母校)のですが、現在は、定員充足のため合格させるところも多いようです。実際私の研究室(いわゆるFランク大学です)から、旧帝大の大学院にも進学していますし、一応、卒研で鍛えてはいますが、彼らが大学院に行くことに対して危惧を覚えるのは事実です。 しかも、院生が増えれば、1人の教員当たりの指導院生も増加しますから、間違いなくレベルは低下していきます。個々に見れば鍛える努力をしていますが、全体のレベル低下を防ぐには、定員削減しかありません。 なお、大学院生が教員の手足か否かについては、いかにその院生が考えれるかにかかってきます。本人が考えることができなければ、手足になるしかなく、本人が考えれればおのずと新しいことが発見できると思います。 私自身(ちょっと古いですが)、他大学から修士課程に入り、前の4年生がやっていたテーマを引き継いだのですが、新しい発見をし、先日あった教授の退官記念講演で、驚いた研究例として紹介されました。頑張れば手足といわず、教授の出したテーマが自分のテーマにもなっていくものと思います(もちろん全くオリジナルなテーマが出せればもっと良いですが)。 いずれにしても、院生自体が、いかに考えれるかがポイントになると思います。