Piedpiping の回答履歴

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  • ソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である。

     ソシュールの《言語記号の恣意性》については まだ或る程度の《定説性》が残っていますが これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。  まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。   / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。  すなわり この / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。  (1) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ   すなわち 《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。   《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。   《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。   そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。   ちなみにここで例証の中身を示すならば ソシュール(ないし丸山圭三郎)の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く 恣意的に / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったと言っています。   / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 何ら自然でかつ論理的なきづなは無いという説なのです。  (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。けれども ここでも  / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュールの説では そんなことはあり得ないというものです。   nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)   naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)   naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く)    naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)  さらに語例を伸ばします。  (3) 《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。   nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)   nago-mu   和む     (障害が消滅していく)   nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)   negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)   nega-u   願う      (障害の消滅を希求)    *  どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。    ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。  オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。  郭公は その / k / の音素を鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。    日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。  あるいは例外としては いわゆる派生語の場合が挙げられます。これは 同じひとつの語根から派生するのであるからには 当然だと考えられます。  つまり   nagi 和ぎ   nago-ya-ka 和やか      nago-mu   和む  これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。という考察は すでに成されています。  (ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。  例外を別とすれば じんるいが言語を獲得したのは その語彙の全体を――その時点で―― 一気に得たのだと言います。個々の語は互いにその語としての差異によってのみ 関係しあいつつ 使い分けされているというものです。(語としてというのは 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》とが一体となったそれぞれの語としてです)。  あとで造語される語を別として 或る時点で語彙の全体を ひとつの体系として 得ることになったのだと説いています。  そうであるにせよ無いにせよ 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》として成る語には その関係性(つまり ∽ として示したそのつながり方)が 自然で論理的なきづなを持つと例証によれば考えられます。  さらにくわしい議論をおぎなわなければならないのですが こういった問題が ソシュール≒丸山圭三郎の理論にはあると言ってよいと考えます。  * おぎなうべき議論の一端として:    音素・・・・=・・・・意義素    _______________   / n /  = 同定相・否定相   / g /  = 反出相;反定相・疑問相・変化相  といった仮説を前提としています。  いま   / n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相)  といった複合によって   / nVgV /なる音韻(シニフィアン)     =《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ)  といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。  ただしここで 否定相の子音 / n / が 薙ぎにおいてはなぜ《伐採すべき草や木》を内容とする《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。恣意的に決められたとしか言いようがありません。  つまり 凪ぎや和ぎにおいてはそれぞれ《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。    * すでに問うたことがあります。けれども ジョウシキが間違っているなら 何度でも問うべきかと考えます。  【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html

  • ソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である。

     ソシュールの《言語記号の恣意性》については まだ或る程度の《定説性》が残っていますが これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。  まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。   / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。  すなわり この / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。  (1) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ   すなわち 《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。   《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。   《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。   そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。   ちなみにここで例証の中身を示すならば ソシュール(ないし丸山圭三郎)の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く 恣意的に / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったと言っています。   / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 何ら自然でかつ論理的なきづなは無いという説なのです。  (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。けれども ここでも  / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュールの説では そんなことはあり得ないというものです。   nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)   naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)   naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く)    naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)  さらに語例を伸ばします。  (3) 《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。   nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)   nago-mu   和む     (障害が消滅していく)   nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)   negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)   nega-u   願う      (障害の消滅を希求)    *  どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。    ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。  オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。  郭公は その / k / の音素を鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。    日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。  あるいは例外としては いわゆる派生語の場合が挙げられます。これは 同じひとつの語根から派生するのであるからには 当然だと考えられます。  つまり   nagi 和ぎ   nago-ya-ka 和やか      nago-mu   和む  これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。という考察は すでに成されています。  (ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。  例外を別とすれば じんるいが言語を獲得したのは その語彙の全体を――その時点で―― 一気に得たのだと言います。個々の語は互いにその語としての差異によってのみ 関係しあいつつ 使い分けされているというものです。(語としてというのは 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》とが一体となったそれぞれの語としてです)。  あとで造語される語を別として 或る時点で語彙の全体を ひとつの体系として 得ることになったのだと説いています。  そうであるにせよ無いにせよ 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》として成る語には その関係性(つまり ∽ として示したそのつながり方)が 自然で論理的なきづなを持つと例証によれば考えられます。  さらにくわしい議論をおぎなわなければならないのですが こういった問題が ソシュール≒丸山圭三郎の理論にはあると言ってよいと考えます。  * おぎなうべき議論の一端として:    音素・・・・=・・・・意義素    _______________   / n /  = 同定相・否定相   / g /  = 反出相;反定相・疑問相・変化相  といった仮説を前提としています。  いま   / n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相)  といった複合によって   / nVgV /なる音韻(シニフィアン)     =《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ)  といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。  ただしここで 否定相の子音 / n / が 薙ぎにおいてはなぜ《伐採すべき草や木》を内容とする《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。恣意的に決められたとしか言いようがありません。  つまり 凪ぎや和ぎにおいてはそれぞれ《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。    * すでに問うたことがあります。けれども ジョウシキが間違っているなら 何度でも問うべきかと考えます。  【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html

  • ソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である。

     ソシュールの《言語記号の恣意性》については まだ或る程度の《定説性》が残っていますが これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。  まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。   / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。  すなわり この / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。  (1) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ   すなわち 《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。   《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。   《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。   そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。   ちなみにここで例証の中身を示すならば ソシュール(ないし丸山圭三郎)の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く 恣意的に / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったと言っています。   / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 何ら自然でかつ論理的なきづなは無いという説なのです。  (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。けれども ここでも  / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュールの説では そんなことはあり得ないというものです。   nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)   naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)   naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く)    naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)  さらに語例を伸ばします。  (3) 《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。   nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)   nago-mu   和む     (障害が消滅していく)   nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)   negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)   nega-u   願う      (障害の消滅を希求)    *  どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。    ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。  オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。  郭公は その / k / の音素を鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。    日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。  あるいは例外としては いわゆる派生語の場合が挙げられます。これは 同じひとつの語根から派生するのであるからには 当然だと考えられます。  つまり   nagi 和ぎ   nago-ya-ka 和やか      nago-mu   和む  これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。という考察は すでに成されています。  (ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。  例外を別とすれば じんるいが言語を獲得したのは その語彙の全体を――その時点で―― 一気に得たのだと言います。個々の語は互いにその語としての差異によってのみ 関係しあいつつ 使い分けされているというものです。(語としてというのは 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》とが一体となったそれぞれの語としてです)。  あとで造語される語を別として 或る時点で語彙の全体を ひとつの体系として 得ることになったのだと説いています。  そうであるにせよ無いにせよ 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》として成る語には その関係性(つまり ∽ として示したそのつながり方)が 自然で論理的なきづなを持つと例証によれば考えられます。  さらにくわしい議論をおぎなわなければならないのですが こういった問題が ソシュール≒丸山圭三郎の理論にはあると言ってよいと考えます。  * おぎなうべき議論の一端として:    音素・・・・=・・・・意義素    _______________   / n /  = 同定相・否定相   / g /  = 反出相;反定相・疑問相・変化相  といった仮説を前提としています。  いま   / n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相)  といった複合によって   / nVgV /なる音韻(シニフィアン)     =《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ)  といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。  ただしここで 否定相の子音 / n / が 薙ぎにおいてはなぜ《伐採すべき草や木》を内容とする《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。恣意的に決められたとしか言いようがありません。  つまり 凪ぎや和ぎにおいてはそれぞれ《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。    * すでに問うたことがあります。けれども ジョウシキが間違っているなら 何度でも問うべきかと考えます。  【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html

  • 英文法でいう描出話法に類似した

    小説の心理描写で、読者を登場人物の心裡に引きこむ、登場人物との一体感をねらった叙述法があります。 描出話法のように臨場効果をねらった手法ですが、日本語界での正式な名称あるいは通り名は何というのですか。 「実はな、敦賀まで、お連れ申さうと思うたのぢや。」笑ひながら、利仁は鞭を挙げて遠くの空を指さした。その鞭の下には、的皪として、午後の日を受けた近江の湖が光つてゐる。  五位は、狼狽した。 「敦賀と申すと、あの越前の敦賀でござるかな。あの越前の――」  【利仁が、敦賀の人、藤原有仁の女婿になつてから、多くは敦賀に住んでゐると云ふ事も、日頃から聞いてゐない事はない。が、その敦賀まで自分をつれて行く気だらうとは、今の今まで思はなかつた。第一、幾多の山河を隔ててゐる越前の国へ、この通り、僅二人の伴人をつれただけで、どうして無事に行かれよう。ましてこの頃は、往来の旅人が、盗賊の為に殺されたと云ふ噂さへ、諸方にある。】――五位は歎願するやうに、利仁の顔を見た。

  • フランス語を日本語訳お願いします\(^o^)/

    Pourtant c'est impressionnant tu parles comme une française! Je suis sur que si tu va en France pendant 1 ou 2 mois après tu sera bilingue! Oki pas de problème merci ^^ Si un jour tu viens je te ferais visité! Surtout si tu vas à Paris ya plein de choses à voir *_* Non c'est pareil je suis jamais allé au Japon Mais c'est prévu, en fait en ce moment j'hésite à partir 1 an là ba pour mieux apprendre la langue et découvrir le pays ^^ Et puis ce qui est dommage c'est que comme c'est deux pays très éloigné, c'est aussi très cher :/ Ah oui au fait je t'ai pas dit mon nom haha je m’appelle Aurore et toi? ^^

  • ”雨に降られる”の”れる”は、話者の受身と考えるの

    ”降る”は自動詞ですね。”雨が降る”ならわかります。 ”雨に降られる”の”れる”は、話者の受身と考えるのですか?

  • ”雨に降られる”の”れる”は、話者の受身と考えるの

    ”降る”は自動詞ですね。”雨が降る”ならわかります。 ”雨に降られる”の”れる”は、話者の受身と考えるのですか?

  • 次の英文群 0.~3.は同じ意味になりますか。

    第0.群が元の文です。第2.群は、どの前置詞ならOKかをお教え下さい。 0. He is a slow driver. He is a big drinker. He is a good talker. 1. He is slow as a driver. He is big as a drinker. He is good as a talker. 2. He is slow in/at/of driving. He is big in/at/of drinking. He is good in/at/of talking. 3. When he drives, he is slow. When he drinks, he is big. When he talks, he is good.

  • 次の英文群内の各文の意味と発話状況の違いは?

    1. John, Mary kissed.   John, Mary kissed him.   John was kissed by Mary. 2. The first prize went to Mary.   The first prize, Mary got.   The first prize, Mary got it.   The first prize, they gave to Mary.   The first prize, they gave it to Mary.   The first prize was got by Mary.   The first prize was given to Mary. 宜しく御教示をお願い致します。

  • the( my) first timeの後は?

    This is the first time that I have ever stood on the platform. 演壇に立ったのはこれが初めてです. - 研究社 新和英中辞典 This is my first time to stand on the platform. 演壇に立ったのはこれが初めてです. - 研究社 新和英中辞典 「~したのは今回初めて(2回目)だ」 ネットで調べると 不定詞で続けるのではなく、現在完了形で続けるべきとあります。そしてまた、 It was my first time doing it. のような動名詞が続く文も見つけました。 以下の英文はどれが正しいでしょうか? 1:「車を運転するのは今回が初めてです」(これから運転する場面で) This is my first time driving. This is my first driving. This is the first time that I have driven a car. 2:「車を運転したのは今回が二度めでした」(運転し終わった場面で) It was my second time driving. It was my second driving. It was the first time that I had driven a car. ルールは何でしょうか?研究社の例文を読んでさらにわからなくなりました。 どなたかお助けください。

  • 次の英文群 0.~3.は同じ意味になりますか。

    第0.群が元の文です。第2.群は、どの前置詞ならOKかをお教え下さい。 0. He is a slow driver. He is a big drinker. He is a good talker. 1. He is slow as a driver. He is big as a drinker. He is good as a talker. 2. He is slow in/at/of driving. He is big in/at/of drinking. He is good in/at/of talking. 3. When he drives, he is slow. When he drinks, he is big. When he talks, he is good.

  • 次の英文群内の各文の意味と発話状況の違いは?

    1. John, Mary kissed.   John, Mary kissed him.   John was kissed by Mary. 2. The first prize went to Mary.   The first prize, Mary got.   The first prize, Mary got it.   The first prize, they gave to Mary.   The first prize, they gave it to Mary.   The first prize was got by Mary.   The first prize was given to Mary. 宜しく御教示をお願い致します。

  • 小説に使う簡単なフランス語の翻訳訂正お願いします

    ジュエリーショップでの会話です。 男 「大切な人への贈り物にするから包んで下さい。支払いはいつものように」 店員女性「はい、かしこまりました」 Parce que tu le lui donnes et le fais un à une personne importante, veuillez l'envelopper. Le paiement comme toujours. 翻訳機にかけたのですが、当方、フランス語はさっぱりなので…。 ナチュラルな文章に訂正していただけると助かります。 どうぞよろしくお願いします。

  • セクシャルマイノリティ、TGBTについて学ぶ大学院

    セクシャルマイノリティあるいはLGBTについて、学べる大学院を教えていただけませんか? もしくは、セクシャルマイノリティについて、研究する研究者でも構いません。 よろしくおねがいします。

  • 「ご+名詞+ください」は西洋文法的には

    「名詞+を」と、名詞に目的格の助詞をつけなければ 他動詞「くれ」に対応せぬ欠陥文になると思います。 慣用ということで済ませるとすべて終わりなので 納得できる説明を研究者にお尋ねしたいなと。

  • フランス語の意味と答え方を教えて下さい。

    外国の方がたくさんいるアプリでメッセージをもらったのですが私は英語しか書けません。英語もそんなに書けません。 T'a quoi? とは日本語でどういう意味ですか? 意味を教えて下さい!また、それに対する答え方と”私は英語と日本語しか話せません。ごめんなさい。”という文章もフランス語で教えて下さい!

  • エリザベス・ギャスケルの本を探しています。

    エリザベス・ギャスケル全集 第4巻 「北と南」 (大阪教育図書発行)という本を探しています。 現在、絶版になっておりネットや古書店など探していますが見つかりません。 どこか手に入る所をご存知の方がいらっしゃいましたら教えていただけませんでしょうか。 よろしくお願いいたします。

  • 反語法によって書かれた小説はあるのか?

     川柳の本質はアイロニーであるという趣旨を、尾藤三柳氏は「平成サラリーマン川柳傑作選  二匹目」の中の「川柳一問一答2」で述べておられます。「アイロニー」を「反語法」と捉えるならば、  反語法で書かれた文学は小説にも存在するのではないかと思いました。反語法によって小説全編が書かれることはほとんどないだろうと思いますが、小説の一部でも反語法で書かれているということで、有名な作品と作家名を教えてください。できるならば、読みやすくわかりやすい、エンターテイメント性に富むものを教えてください。難解で専門性に富む作品は、私にはほとんど歯が立たないと思うからです。

  • フランス語発音  PAILLE

    発音表記をみながら調べたのですがどうしても違いがわからずに困ってしまいました。 ご存じの方がいらっしゃいましたら教えて下さい。 発音はスイマセンあえてカタカナ表記させていただきます。 1.paiementペーモン 2.pailleパーイエ 3.painパン 4.paireペール 5.paixペ 1 4 5 ai  3 ain と分類され、2はペーイエでなくパーイエだとおもうのですが。。2番の分類を教えて下さい

  • ある取調官と参考人との会話

    まず会話の例を3つ挙げます。 会話1 ^^^^^^ (○○署の取調室にて) 取調官A「おい、お前がやったのか?」 参考人B「(なんでオレが犯人に仕立てあげられなければならないんだこのクソ刑事)違いますよ刑事さん。」 ※参考人Bは、取調官Aが参考人Bのことを犯人と決めつけていると感じ、反発しています。 会話2 ^^^^^^ (演説を聞いて) A「安倍晋太郎は右翼か?」 B「はぁ?右翼のわけないだろ。真ん中だよ真ん中。」 ※BはAが安倍晋太郎は右翼だと信じていると判断し、その修正を促す発言をしています。 会話3 ^^^^^^ (某Q&Aサイトで) 受験生A「偏差値45なんですが○○大学受かりますか?」 回答者B「なぜ受かると思うのですか?○○大学は偏差値55だから受かる確率は△△%ですよ。」 ※回答者Bは受験生Aが○○大学を受かると主張していると判断し、自分の見解を続けて書いています。 このように、質問文の字面だけみると「はい」か「いいえ」を促すだけであるのに、実際は質問者が「この回答者は『はい』と答えるべきだ」と主張していると、尋ねられたほう(回答者)が感じることが多いと思います。 質問は以下の2つです。 1.このように「いいえ」よりも「はい」が期待される非対称性はどこからくるのでしょうか?はい/いいえを促す疑問文というのはそもそもはいを誘導するものなのでしょうか? 2.会話1、2、3においてそれぞれ 取調官A「おい、お前がやったのか?それともお前はやらなかったのか?」 A「安倍晋太郎は右翼か?それとも右翼ではないのか?」 受験生A「偏差値45なんですが○○大学受かりますか?それとも○○大学受かりませんか?」 という聞き方に差し替えれば「はい」が「いいえ」より期待されることなくどちらも均等に期待される表現になるのでしょうか?ただこの言い方だと冗長ですよね。