NemurinekoNya の回答履歴

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  • 《才能》と《永遠》・・・

    ●たとえば、歌が下手な人を見ると、『あの人は、永遠に音痴のままだな』と、判断され字を書くのが苦手な人を見ると、『あの人は永遠に字が下手くそなままだろう』と、判断されるのでしょうか?歌や文字を書くのが得意な人は、生まれつきの才能であると思う人は多いのでしょうか?ちなみに、あなたが好きなお寿司のネタは何ですか?(ここ何年も、お寿司食べてないので、うに食べたい・・・)

  • 《光あれ》という命令法は どういう実態か

      ▲ Gen.1:3 וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים יְהִי אֹור וַֽיְהִי־אֹֽור׃   ▽ Gen 1:3 And(ワ) God(エローヒーム) said(ヨーメル), Let there be(ィエヒー) light(オール): and(ワ) there was(ィエヒー) light(オール).   △ 創世記 1:3 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。  1. この《光(オール)あれ(ィエヒー)》の《ィエヒー》なる命令法は 三人称の主体に向けて語っている。らしい。  2. つまり 一人称に対する命令法は 単数形が《われをして 語らしめよ⇒ われに語らせたまえ》であり 複数形が《われわれをして語らしめよ⇒ 語り合おう》ということであって けっきょく相手(二人称の相手)に語るかたちを採っていると思われる。  3. 二人称に対する命令法は 単数形・複数形いづれもやはりその相手に語っている。《語りたまえ》。  4. ところが 三人称の主体に向けて命令する場合というのは いったい誰れに・どういう何に語っているのだろう?  5. もし《光》に対して語るのであれば けっきょく二人称の相手になってしまう。つまり 光あれと言って光があったその前に すでにその光なる相手に語っていることになる。  6. ならば 三人称の主体である《光》に向けて語るとは どういうことか? 三人称だから その命令の以前にはいなかったと言えるのか?  7. あるいは その三人称の主体というのは 或る種の仕方でそこなる《場》を言っているのだろうか? その場に光があれというかたちなのか? そしてそれは或る意味で 英訳の《 Let there be light 》の 《 there 》という語に突き合わせることが出来るかに見える。  8. けれども その《 there 》は何もどこかの特定の《場》を言っているわけではない。だからむしろ 三人称の命令法には ふさわしいのだろうか? 《場》とは言わないかたちの何となくの場なのか。  9. しかし 《光》がまだなかったときにすでにこの言葉をつかって語った。光あれと言っているときには 光はなかったのに。ならば 言葉が先に出来たのか? その言葉が三人称の主語として用いられたのか?  10. だとしても その《光》なる言葉がすでにあったとしてこれに向けて命令するのなら けっきょく二人称の相手に対して命令している。ことになるのではないか?  11. 三人称主語に向けての命令法とは どういうコトか?

  • 《光あれ》という命令法は どういう実態か

      ▲ Gen.1:3 וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים יְהִי אֹור וַֽיְהִי־אֹֽור׃   ▽ Gen 1:3 And(ワ) God(エローヒーム) said(ヨーメル), Let there be(ィエヒー) light(オール): and(ワ) there was(ィエヒー) light(オール).   △ 創世記 1:3 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。  1. この《光(オール)あれ(ィエヒー)》の《ィエヒー》なる命令法は 三人称の主体に向けて語っている。らしい。  2. つまり 一人称に対する命令法は 単数形が《われをして 語らしめよ⇒ われに語らせたまえ》であり 複数形が《われわれをして語らしめよ⇒ 語り合おう》ということであって けっきょく相手(二人称の相手)に語るかたちを採っていると思われる。  3. 二人称に対する命令法は 単数形・複数形いづれもやはりその相手に語っている。《語りたまえ》。  4. ところが 三人称の主体に向けて命令する場合というのは いったい誰れに・どういう何に語っているのだろう?  5. もし《光》に対して語るのであれば けっきょく二人称の相手になってしまう。つまり 光あれと言って光があったその前に すでにその光なる相手に語っていることになる。  6. ならば 三人称の主体である《光》に向けて語るとは どういうことか? 三人称だから その命令の以前にはいなかったと言えるのか?  7. あるいは その三人称の主体というのは 或る種の仕方でそこなる《場》を言っているのだろうか? その場に光があれというかたちなのか? そしてそれは或る意味で 英訳の《 Let there be light 》の 《 there 》という語に突き合わせることが出来るかに見える。  8. けれども その《 there 》は何もどこかの特定の《場》を言っているわけではない。だからむしろ 三人称の命令法には ふさわしいのだろうか? 《場》とは言わないかたちの何となくの場なのか。  9. しかし 《光》がまだなかったときにすでにこの言葉をつかって語った。光あれと言っているときには 光はなかったのに。ならば 言葉が先に出来たのか? その言葉が三人称の主語として用いられたのか?  10. だとしても その《光》なる言葉がすでにあったとしてこれに向けて命令するのなら けっきょく二人称の相手に対して命令している。ことになるのではないか?  11. 三人称主語に向けての命令法とは どういうコトか?

  • 《光あれ》という命令法は どういう実態か

      ▲ Gen.1:3 וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים יְהִי אֹור וַֽיְהִי־אֹֽור׃   ▽ Gen 1:3 And(ワ) God(エローヒーム) said(ヨーメル), Let there be(ィエヒー) light(オール): and(ワ) there was(ィエヒー) light(オール).   △ 創世記 1:3 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。  1. この《光(オール)あれ(ィエヒー)》の《ィエヒー》なる命令法は 三人称の主体に向けて語っている。らしい。  2. つまり 一人称に対する命令法は 単数形が《われをして 語らしめよ⇒ われに語らせたまえ》であり 複数形が《われわれをして語らしめよ⇒ 語り合おう》ということであって けっきょく相手(二人称の相手)に語るかたちを採っていると思われる。  3. 二人称に対する命令法は 単数形・複数形いづれもやはりその相手に語っている。《語りたまえ》。  4. ところが 三人称の主体に向けて命令する場合というのは いったい誰れに・どういう何に語っているのだろう?  5. もし《光》に対して語るのであれば けっきょく二人称の相手になってしまう。つまり 光あれと言って光があったその前に すでにその光なる相手に語っていることになる。  6. ならば 三人称の主体である《光》に向けて語るとは どういうことか? 三人称だから その命令の以前にはいなかったと言えるのか?  7. あるいは その三人称の主体というのは 或る種の仕方でそこなる《場》を言っているのだろうか? その場に光があれというかたちなのか? そしてそれは或る意味で 英訳の《 Let there be light 》の 《 there 》という語に突き合わせることが出来るかに見える。  8. けれども その《 there 》は何もどこかの特定の《場》を言っているわけではない。だからむしろ 三人称の命令法には ふさわしいのだろうか? 《場》とは言わないかたちの何となくの場なのか。  9. しかし 《光》がまだなかったときにすでにこの言葉をつかって語った。光あれと言っているときには 光はなかったのに。ならば 言葉が先に出来たのか? その言葉が三人称の主語として用いられたのか?  10. だとしても その《光》なる言葉がすでにあったとしてこれに向けて命令するのなら けっきょく二人称の相手に対して命令している。ことになるのではないか?  11. 三人称主語に向けての命令法とは どういうコトか?

  • 日本人は互いに《相互内在的に関係しあっている》か

     ▲  S・N・アイゼンシュタット:『日本 比較文明論的考察』  梅津 順一ほか訳 2010     http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/024226+/top.html#01  ☆ この本の訳者解説に次のようなくだりがあります。そこから問いを持ちました。  ▲ (梅津 順一:訳者解説) ~~~~~  (あ) 著者は 日本語の《基礎的な存在論的概念》・・・に注目する。  (い) 《基礎的な存在論的概念》として たとえば《自然と文化》を挙げれば 西洋で明確に区別される《自然》と《文化》が 日本では《相互内在的に》関係しあっている。  (う) あるイギリス人霊長人類学者は 日本人が実験動物のサルのために 人間並みに供養を行なうことに驚いたというが これは人間の魂(文化)とサルの魂(自然)を区別しないことを示唆する。・・・  (え) 日本の人格概念では 《個人の人格は社会関係あるいは社会的文脈に深く組み込まれていると考えられ かなりの程度 そうした文脈の中での自らの位置によって定義される》。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ きわめて断片的にわざと引用しています。  (お) 引用文中の(う)の《人間の魂(文化)》としているところは 何だかおかしいように思えます。魂と文化とが照らし合わせるようなものであるのかどうか。――ですが これは いま措いておきます。次の指摘を論点としたい。  (か) お前とおれとが 《相互内在的に関係しあっている》〔(い)〕のであり この関係がさらに広く《社会的文脈に深く組み込まれている》〔(え)〕ということ――この特徴をここで取り上げ 果たしてそうなのかを問い求めたい。  (か) その《社会的文脈の中での位置づけ》が わたしたちそれぞれのあたかも存在意義のごとくはたらいている。のであろうか?  (き) そして単位体として任意のふたりを取り上げるなら そこにマジハリ(交通)が起きたなら その人間どうしの間には《相互内在》としてあたかも以心伝心(または ミラーニューロン現象)が成っているのであろうか?   (く) この相互内在は 気持ちなのか? いわゆるクウキなのか? 情感なのか? 理知的な相互了解なのか?

  • 「馬鹿」と「変人」の違い。

    既存の価値観に合致しない人を、「変人」と呼ぶ事があります。 つまり、既存の価値観を変えた歴史上の偉人は、当時の人々にとっては紛れもない「変人」だった事でしょう。 例えば、イエス・キリスト。 ユダヤ教の改革者イエス・キリストは、ユダヤ教の世界の当時の人々にとっては紛れもない「変人」です。 このカテゴリーでも、既存の価値観を否定しているのかいないのか良く分らんが、意味不明な事を主張する人を見かけますが、彼らもイエス・キリストのように「変人」かもしれません。でも、ただ単に「馬鹿」なのかもしれません。 (このカテゴリーの彼らは、たぶん「馬鹿」でもなく「変人」でもなく、ただの「愉快犯」でしょうが。そう言う書き込みして反応を楽しんでいるだけ。) と言う事で質問です。 「馬鹿」と「変人」の違いは何ですか? * ちなみに私が思う「馬鹿」と「変人」の違いは、 「変人」は世の中の大多数が批判しても、一人や二人、必ず長年付いている仲間(同志)がいる。 「馬鹿」は、長年付いている仲間(同志)がいない。 理由は、「変人」は他人に自分の価値観を理解して貰おうと言う意識があるため、分りやすい言葉を選び説得力のある主張をする事に努める。ゆえに少数でも理解者は出来る。 「馬鹿」はそもそも他人に、理解されようという意識が薄い。言いっぱなし投げっぱなし。自己満足の自己中心的な主張しかしない。そんな奴に理解者など集まるわけがない。「世の中の既存の価値観を変える」と言う意味を、そもそも理解していない。ゆえに馬鹿である。

  • 村上龍の「趣味」に対する見解について、どのように思

    村上龍は「趣味」を、教養は深まらない、洗練された暇つぶし、安全的、余裕がある、などと捉えていますが、皆さんは村上龍の「 趣味」に対する見解についてどのように思われますか

  • 本物の美男子とは?

    ケミストリー堂珍嘉邦さんのデビュー当初(2001年)のビジュアルは、女性ウケが良かったですか? 外ハネのパーマがかかった長髪に、真っ白な肌、目鼻立ちも鋭く、シュッとしていましたよね。 まさに、王子様みたいでした。 それから月日は流れ、髭は伸ばすわ、イガグリ頭にしちゃうわ、肌は黒くなるわ、顔は濃くなるわで、「美男子らしさ」が無くなったように見受けられました。 痩せこけてしまったものの、デビュー当時よりも一段と男らしさが溢れ出て格好良かったです。 しかし、個人的には、美男子な堂珍さんが好きでした。 デビュー当時の堂珍さんと、それ以降の堂珍さんとでは、どちらの方が人気があり、女性ウケが良かったのでしょうか? また、どちらが好みですか?

  • 村上龍の「趣味」に対する見解について、どのように思

    村上龍は「趣味」を、教養は深まらない、洗練された暇つぶし、安全的、余裕がある、などと捉えていますが、皆さんは村上龍の「 趣味」に対する見解についてどのように思われますか

  • 言葉は自分をはかる?

     たとえば「空は青い」という言葉の意義が知解できるとする。その上で、「で、それがなんなの」という意味反応が自分の中にあるとする。それを知ることが、言葉で自分を測るということ。 時には、「そうだ、そう思う」という意味反応。同じ言葉のものさしがちがった計測値を示す。  意義のレベルでの理解は、感覚的反応がほとんどない。意味のレベルでは「腑に落ちた」ような感覚がある。字義どうりの「空」「青」とは別の意味として「腑に落ちている」場合もある。それは回想を生じさせいるのかもしれない、そしてて、意識は流れていく。  他人のことはよく分からないが、自分のことについては、偽りのない生の反応が感じられるから、まあまあ、測れると思う。  そして、どういう意味反応をする者に、自分はなろうとするかを図ることができるようになると思う。 「言葉は自分をはかる」と、あなたは思いますか?

  • 美とは何ですか?

    美とは何ですか? 「調和がとれている、素晴らしい」と認識することですか?

  • 言葉は自分をはかる?

     たとえば「空は青い」という言葉の意義が知解できるとする。その上で、「で、それがなんなの」という意味反応が自分の中にあるとする。それを知ることが、言葉で自分を測るということ。 時には、「そうだ、そう思う」という意味反応。同じ言葉のものさしがちがった計測値を示す。  意義のレベルでの理解は、感覚的反応がほとんどない。意味のレベルでは「腑に落ちた」ような感覚がある。字義どうりの「空」「青」とは別の意味として「腑に落ちている」場合もある。それは回想を生じさせいるのかもしれない、そしてて、意識は流れていく。  他人のことはよく分からないが、自分のことについては、偽りのない生の反応が感じられるから、まあまあ、測れると思う。  そして、どういう意味反応をする者に、自分はなろうとするかを図ることができるようになると思う。 「言葉は自分をはかる」と、あなたは思いますか?

  • 有るは、無い。

    有るは、無い。 無いは有る。とは?

  • 有るは、無い。

    有るは、無い。 無いは有る。とは?

  • 言葉は自分をはかる?

     たとえば「空は青い」という言葉の意義が知解できるとする。その上で、「で、それがなんなの」という意味反応が自分の中にあるとする。それを知ることが、言葉で自分を測るということ。 時には、「そうだ、そう思う」という意味反応。同じ言葉のものさしがちがった計測値を示す。  意義のレベルでの理解は、感覚的反応がほとんどない。意味のレベルでは「腑に落ちた」ような感覚がある。字義どうりの「空」「青」とは別の意味として「腑に落ちている」場合もある。それは回想を生じさせいるのかもしれない、そしてて、意識は流れていく。  他人のことはよく分からないが、自分のことについては、偽りのない生の反応が感じられるから、まあまあ、測れると思う。  そして、どういう意味反応をする者に、自分はなろうとするかを図ることができるようになると思う。 「言葉は自分をはかる」と、あなたは思いますか?

  • ベストアンサー四連発って嬉しくないですか?

    私は結構このサイトに長いのですが、無教養であるため、ベストアンサー率は25%にとどまっています。でも今回、生まれて初めてベストアンサー四連発を達成してしまいました。 ベストアンサー四連発を達成したかた、 燦然と金色に輝いて並ぶ四個の王冠を見て嬉しくないですか? 金色の王冠ってなんだか人の心を嬉しくさせますね? もちろん心のこもったお礼の言葉をもらうのもほのぼのと嬉しいものがありますが、王冠が並ぶのもまた気分がいいです。 まあ貧乏人のささやかな喜びとお笑いください。

  • 年々使いにくくなるOKWave

    次第に使いづらくなって行くOKWaveですが、最近のリニューアルでもまた格段に使いにくく、見にくく、デザイン的にも劣化が進んでいます。 質問ですが、これは何故でしょうか? この掲示板内の有名な「とある所」で社長が懸命に自社を擁護してますが、最新のリニューアルについても社長個人の見解が大幅に導入されている模様です。 その主張によれば大分先まで現仕様を変更するつもりはないらしい。 ちなみに、パートナーサイトの一つであるココ↓と比較して、OKWaveは使いやすいのですか? (広告の有る無しに関わらず。) http://bekkoame.okwave.jp/list.php3 皆様方の見解を聞かせてください。 嫌ならやめれば? という回答に対しては、既に私はここを半分引き上げてますので、あしからず。

  • 修行で得れるものは何?

    お寺の修行で有名なのは滝に打たれる等がありますが、それによって得れる気持ちとは何なのでしょうか?

  • 禁断の書物、書物の著者、どちらが危険ですか?

    読めば、殺人を起こす書物があるとします。 その書物を書いた人、あるいは既に何度も熟読した人と、その書物。 どちらが危険なのでしょうか? この質問に至った理由は、テレビタックルという番組でアニメ規制に対する特集を拝聴した時に、殺人を起こすような作品を規制すべきなら、既に知識を生み出せる人や知識を知り尽くしている人は、さらに危険なのでは?と考えてしまいました。 実際、アニメ・漫画オタクの人が幼児を殺した事件があり、出演した国会議員の方がアニメオタクは既に殺人を犯していると言い切りました。そんな危険な代物なら例外を設けず廃止すべきですし、危険な代物を紙と鉛筆があれば作れる人間や危険な代物のコレクターは、殺人を起こす可能性がある人間ですから、隔離するなり、殺人を起こす代物だから治療は無理でしょうから、最悪な手段を用いるなり、などで一般社会から遠ざけるのが最良では?、と思いました。 思想としては、かなり過激だと思いますが、読めば殺人を起こすような代物を作り続けている人間よりも、その代物の方が危険であるというのが、理解できなかったので質問しました。

  • 言葉は自分をはかる?

     たとえば「空は青い」という言葉の意義が知解できるとする。その上で、「で、それがなんなの」という意味反応が自分の中にあるとする。それを知ることが、言葉で自分を測るということ。 時には、「そうだ、そう思う」という意味反応。同じ言葉のものさしがちがった計測値を示す。  意義のレベルでの理解は、感覚的反応がほとんどない。意味のレベルでは「腑に落ちた」ような感覚がある。字義どうりの「空」「青」とは別の意味として「腑に落ちている」場合もある。それは回想を生じさせいるのかもしれない、そしてて、意識は流れていく。  他人のことはよく分からないが、自分のことについては、偽りのない生の反応が感じられるから、まあまあ、測れると思う。  そして、どういう意味反応をする者に、自分はなろうとするかを図ることができるようになると思う。 「言葉は自分をはかる」と、あなたは思いますか?