NemurinekoNya の回答履歴

全2595件中141~160件表示
  • あたまのよい人は なぜこうもヘリクダルのだろう

      ヘリクダル=遜る・謙る  と書くのですね。  それはよいとして 日本人はと言いますか かしこい人たちは 何かと言えば 自己卑下する習慣があるように感じますが これは どうしてですか?  そんなにヘリクダリが好きなのでしょうか?  それを受けて こちらは お手上げになります。  それともお手上げになる方がよくないのでしょうか?  つまり自分のほうの言い分も 相手と同じほどには言ってもよいのではないでしょうか。

  • 《光あれ》という命令法は どういう実態か

      ▲ Gen.1:3 וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים יְהִי אֹור וַֽיְהִי־אֹֽור׃   ▽ Gen 1:3 And(ワ) God(エローヒーム) said(ヨーメル), Let there be(ィエヒー) light(オール): and(ワ) there was(ィエヒー) light(オール).   △ 創世記 1:3 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。  1. この《光(オール)あれ(ィエヒー)》の《ィエヒー》なる命令法は 三人称の主体に向けて語っている。らしい。  2. つまり 一人称に対する命令法は 単数形が《われをして 語らしめよ⇒ われに語らせたまえ》であり 複数形が《われわれをして語らしめよ⇒ 語り合おう》ということであって けっきょく相手(二人称の相手)に語るかたちを採っていると思われる。  3. 二人称に対する命令法は 単数形・複数形いづれもやはりその相手に語っている。《語りたまえ》。  4. ところが 三人称の主体に向けて命令する場合というのは いったい誰れに・どういう何に語っているのだろう?  5. もし《光》に対して語るのであれば けっきょく二人称の相手になってしまう。つまり 光あれと言って光があったその前に すでにその光なる相手に語っていることになる。  6. ならば 三人称の主体である《光》に向けて語るとは どういうことか? 三人称だから その命令の以前にはいなかったと言えるのか?  7. あるいは その三人称の主体というのは 或る種の仕方でそこなる《場》を言っているのだろうか? その場に光があれというかたちなのか? そしてそれは或る意味で 英訳の《 Let there be light 》の 《 there 》という語に突き合わせることが出来るかに見える。  8. けれども その《 there 》は何もどこかの特定の《場》を言っているわけではない。だからむしろ 三人称の命令法には ふさわしいのだろうか? 《場》とは言わないかたちの何となくの場なのか。  9. しかし 《光》がまだなかったときにすでにこの言葉をつかって語った。光あれと言っているときには 光はなかったのに。ならば 言葉が先に出来たのか? その言葉が三人称の主語として用いられたのか?  10. だとしても その《光》なる言葉がすでにあったとしてこれに向けて命令するのなら けっきょく二人称の相手に対して命令している。ことになるのではないか?  11. 三人称主語に向けての命令法とは どういうコトか?

  • 仏教で心の場所はいつから脳になった?

    それとも最初から心の場所は脳だったのでしょうか? 一応、頭でもいいです。 ウパニシャッドでアートマンが心臓に宿っていたりするのは、 まだ心といえば心臓というような昔だったからでしょう。 それがいつごろ頭とか脳になっていくのか。

  • 今いるここって地獄ですか?

    同じ事繰り返しやらされるし、完成が無いし、頂上付近だと思ったらまた一からやり直しさせられるし、もしかして今いる、この場所って地獄ですか?

  • 「これ」に意味があるのか?

    意味があるとは、自身の肉体的、現実的な、感覚、感情、情動、などで、生(生き方)にかかわっているクオリアがある。ということにして、文字の「これ」が単に視覚にとらえるだけの感覚、また「これ」の単なる純粋な音声表象はクオリアと言えるかもしれないけれど、それは除外する。 「これ」に限らず、「それ」「あれ」「どれ」という代名詞。それと、関連して連体詞(?)「この」「あの」「どの」の意味に関心がある。また、疑問詞「いつ」「どこ」「だれ」「なに」「なぜ」「どのように(な)」の意味にも関連して関心がある。 これらは機能語として、辞書で調べればわかる意義は持っているが、それ自身が《直接》指し示す実体がない。指示対象を示す機能を働かせてこそ間接的には実体がある場合があり、意味を持つ可能性があるが、「これ」等の機能語はそもそも意味を持つことが可能でない。 そういう語を文にもつ場合に、不完全文と呼ぶことにする。 「この本は分厚い」は不完全文である。「で、どの本よ?」という疑問が沸く、ナンセンス(意味のない)ない文である。と言うことにする。 自己言及のパラドクス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E8%A8%80%E5%8F%8A%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9 この手のパラドクスに対して、ぼくは、はじめ面白がっていた。解消法探すのが面白かった。その次の段階は、つまらなさを感じた。もう話題にしてもワクワクすることがなかった。 こういう経験を経て、なおここで取り上げようと思ったのは、言葉の使い方への警鐘のつもり。 さて、 文A「この文は偽である」 にあなたはどう反応するか。なんなの>おもしろがる>つまらなくなっている>またー、でなんなの? ぼくは言う。文Aは、ナンセンスであってパラドクスは成立しない。と。 「この文ってどの文よ?」これが正しい反応である。 それとも、「この文」とは文Aでなければならないのか?

  • 「これ」に意味があるのか?

    意味があるとは、自身の肉体的、現実的な、感覚、感情、情動、などで、生(生き方)にかかわっているクオリアがある。ということにして、文字の「これ」が単に視覚にとらえるだけの感覚、また「これ」の単なる純粋な音声表象はクオリアと言えるかもしれないけれど、それは除外する。 「これ」に限らず、「それ」「あれ」「どれ」という代名詞。それと、関連して連体詞(?)「この」「あの」「どの」の意味に関心がある。また、疑問詞「いつ」「どこ」「だれ」「なに」「なぜ」「どのように(な)」の意味にも関連して関心がある。 これらは機能語として、辞書で調べればわかる意義は持っているが、それ自身が《直接》指し示す実体がない。指示対象を示す機能を働かせてこそ間接的には実体がある場合があり、意味を持つ可能性があるが、「これ」等の機能語はそもそも意味を持つことが可能でない。 そういう語を文にもつ場合に、不完全文と呼ぶことにする。 「この本は分厚い」は不完全文である。「で、どの本よ?」という疑問が沸く、ナンセンス(意味のない)ない文である。と言うことにする。 自己言及のパラドクス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E8%A8%80%E5%8F%8A%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9 この手のパラドクスに対して、ぼくは、はじめ面白がっていた。解消法探すのが面白かった。その次の段階は、つまらなさを感じた。もう話題にしてもワクワクすることがなかった。 こういう経験を経て、なおここで取り上げようと思ったのは、言葉の使い方への警鐘のつもり。 さて、 文A「この文は偽である」 にあなたはどう反応するか。なんなの>おもしろがる>つまらなくなっている>またー、でなんなの? ぼくは言う。文Aは、ナンセンスであってパラドクスは成立しない。と。 「この文ってどの文よ?」これが正しい反応である。 それとも、「この文」とは文Aでなければならないのか?

  • いぢわる・ふざけ・不良・不純の効用は?

     お茶が入りました。  コーヒーやあるいはアルコールのほうがよい方は それぞれにどうぞ。  まともでまじめ。これを ひとにつき前提とします。  その上で 不良や不純はちょっぴりなりと むしろ必要で全体として言ってよい効果をもたらすのではないでしょうか? 話がしやすくなると思います。  ふざけは わたしは よく分かりません。受け身としてなら その時の状態に応じて仲間に入るかも分かりませんが あまりよくは分かりません。一般にも・個別に回答者さんの場合にも 果たしてどうなんですか?  いぢわるは 効用があるのか無いのか。分かりませんが わたしはよくやります。むしろ得意の手です。話があんがいスムースにすすむ効用があるのでしょうか どうでしょうか。  どうなんですかねぇ。  

  • あたまのよい人は なぜこうもヘリクダルのだろう

      ヘリクダル=遜る・謙る  と書くのですね。  それはよいとして 日本人はと言いますか かしこい人たちは 何かと言えば 自己卑下する習慣があるように感じますが これは どうしてですか?  そんなにヘリクダリが好きなのでしょうか?  それを受けて こちらは お手上げになります。  それともお手上げになる方がよくないのでしょうか?  つまり自分のほうの言い分も 相手と同じほどには言ってもよいのではないでしょうか。

  • 自由意志は錯覚か?

    脳科学者の間では、自由意志(自分の行動を自分自身が決定しているという感覚)は錯覚であるという考えが広まりつつあるようです。 私は、次のような実験が将来技術的に可能になるだろうと予想しています。 被験者の脳に機械を取り付け、外部から「右足を上げろ」という信号を送り、その通りに右足を上げさせる。しかも被験者に自分の自由意志でそれを行ったと錯覚させる。 もし本当にこのような実験が実現したとしたら、皆さんは自由意志が錯覚だということを認めますか? それとも飽くまで「いや、今のは機械で操作されて騙されたが、普段はこんな機械つけていない。普段俺が感じているのは本物の自由意志だ」と主張されますか?

  • 神の意志は非合理か?

    理性と意志が対立するのであれば、 神の意志というのも非合理であるわけで、 これが気になっています。 ヨハネによる福音書6章40節 ショーペンハウアーとかニーチェとかの意志の哲学が ドイツ語なので、ドイツ語がわかる人はwilleといったときに 非合理だと思うのかどうか? あとついでに、フランスのルソーも一般意志とか特殊意志とか いっているみたいですが、フランス語の意志も非合理なのでしょうか?

  • キリスト教徒は何を思い、オーマイゴッドと言うのか

    一神教という中央集権体制でそれを秩序とするキリスト教で、オーマイゴッドという我が神とは何お意味しているんですか。 信仰のある者に神が語りかけると言えば、人の数だけ神の姿がある。 それが多神教で、神と言えば、神と言うその言葉のみであるから、共通項があるではないかという考えを持てば、多神教は同時に一神教である。 私の考えではそんな感じに受け止めるのですが、おそらくキリスト教徒は違う考えを持っているでしょう。 私の見解のオーマイゴッドと。 やつらのオーマイゴッドという十字架とどのように違うのか人情味あふれるあなたの見解をお待ちします。 本格的研究者以外からの、教科書棒読みの様な引用はお断りします。

  • あたまのよい人は なぜこうもヘリクダルのだろう

      ヘリクダル=遜る・謙る  と書くのですね。  それはよいとして 日本人はと言いますか かしこい人たちは 何かと言えば 自己卑下する習慣があるように感じますが これは どうしてですか?  そんなにヘリクダリが好きなのでしょうか?  それを受けて こちらは お手上げになります。  それともお手上げになる方がよくないのでしょうか?  つまり自分のほうの言い分も 相手と同じほどには言ってもよいのではないでしょうか。

  • あたまのよい人は なぜこうもヘリクダルのだろう

      ヘリクダル=遜る・謙る  と書くのですね。  それはよいとして 日本人はと言いますか かしこい人たちは 何かと言えば 自己卑下する習慣があるように感じますが これは どうしてですか?  そんなにヘリクダリが好きなのでしょうか?  それを受けて こちらは お手上げになります。  それともお手上げになる方がよくないのでしょうか?  つまり自分のほうの言い分も 相手と同じほどには言ってもよいのではないでしょうか。

  • あたまのよい人は なぜこうもヘリクダルのだろう

      ヘリクダル=遜る・謙る  と書くのですね。  それはよいとして 日本人はと言いますか かしこい人たちは 何かと言えば 自己卑下する習慣があるように感じますが これは どうしてですか?  そんなにヘリクダリが好きなのでしょうか?  それを受けて こちらは お手上げになります。  それともお手上げになる方がよくないのでしょうか?  つまり自分のほうの言い分も 相手と同じほどには言ってもよいのではないでしょうか。

  • 偽悪醜の正論

    ゾロアスター教に霊が2つ存在があって、一つが善で、もう一つが対立するためにすべてさかさまにとらえるというのがあります。 正論、正義って偽悪醜でも成立して、過激に霊性で扇動して訴えかけて、相手を間違っているって思わせるというころも可能ですし、結構使われているように思えます。これって感情的な感じもしますけど、理性の限界なんでしょうか? 刺激ある個別の論理を述べれば、俗悪でも最大公約数の人々の支持をえれるように熱狂的に広がるように思えます。 ポピュリズム的ですけど。 奇怪なローカルの因習に存在しうると思うのですけど、この対立霊の正義でもその論理に違っていたら間違っているってなるんでしょうか?多数の意見が正しいとは限らないように思うのですけど。

  • あたまのよい人は なぜこうもヘリクダルのだろう

      ヘリクダル=遜る・謙る  と書くのですね。  それはよいとして 日本人はと言いますか かしこい人たちは 何かと言えば 自己卑下する習慣があるように感じますが これは どうしてですか?  そんなにヘリクダリが好きなのでしょうか?  それを受けて こちらは お手上げになります。  それともお手上げになる方がよくないのでしょうか?  つまり自分のほうの言い分も 相手と同じほどには言ってもよいのではないでしょうか。

  • 【閲覧注意】過激な内容なので注意して下さい!!

    皆さんは人を殺したいと思った事があると思います。 私もその欲求がありますし、思った事があります。 皆さんはそれを踏み止まり今日に至ると思います。 ですが踏みとどまる事が出来なかった人もいます。 そこで質問です。この欲求が湧いた時どうしてますか? また殺人を体験したい好奇心をどの様に制御してますか? ふと疑問に思ったので回答お願いいたします!!

  • キリスト教徒は何を思い、オーマイゴッドと言うのか

    一神教という中央集権体制でそれを秩序とするキリスト教で、オーマイゴッドという我が神とは何お意味しているんですか。 信仰のある者に神が語りかけると言えば、人の数だけ神の姿がある。 それが多神教で、神と言えば、神と言うその言葉のみであるから、共通項があるではないかという考えを持てば、多神教は同時に一神教である。 私の考えではそんな感じに受け止めるのですが、おそらくキリスト教徒は違う考えを持っているでしょう。 私の見解のオーマイゴッドと。 やつらのオーマイゴッドという十字架とどのように違うのか人情味あふれるあなたの見解をお待ちします。 本格的研究者以外からの、教科書棒読みの様な引用はお断りします。

  • あたまのよい人は なぜこうもヘリクダルのだろう

      ヘリクダル=遜る・謙る  と書くのですね。  それはよいとして 日本人はと言いますか かしこい人たちは 何かと言えば 自己卑下する習慣があるように感じますが これは どうしてですか?  そんなにヘリクダリが好きなのでしょうか?  それを受けて こちらは お手上げになります。  それともお手上げになる方がよくないのでしょうか?  つまり自分のほうの言い分も 相手と同じほどには言ってもよいのではないでしょうか。

  • 《才能》と《永遠》・・・

    ●たとえば、歌が下手な人を見ると、『あの人は、永遠に音痴のままだな』と、判断され字を書くのが苦手な人を見ると、『あの人は永遠に字が下手くそなままだろう』と、判断されるのでしょうか?歌や文字を書くのが得意な人は、生まれつきの才能であると思う人は多いのでしょうか?ちなみに、あなたが好きなお寿司のネタは何ですか?(ここ何年も、お寿司食べてないので、うに食べたい・・・)