NemurinekoNya の回答履歴

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  • 何で人間て言われた事と逆の事をやりたくなるの?

    小学校二年生の男の子からの質問です あなたならなんと答えますか?

  • 何で人間て言われた事と逆の事をやりたくなるの?

    小学校二年生の男の子からの質問です あなたならなんと答えますか?

  • 哲学する人間は 触媒である。

     以下を問います。  カタリストという言葉は 《壊す》という意味から来ているそうな。  あたかも《つるぎを投げ入れる》かのごとくに。  つまり哲学するという生き方は それぞれがあたかもちいさなキリストになることである。  相手がけっきょくわれに還ることをうながす。  そういう化学反応が その相手に起こる。  こちらは さして変わらない。  もしくは ミラーニューロン現象にて同じように振る舞うように成る。  化学反応が完成すれば こちらも何ごともなかったように元にもどる。  カタリスト=触媒である。  韓国人は 話が出来ないというきちがい状態に落ち入っている。  また 事大主義というのは アマテラス予備軍症候群である。  これに対して触媒たらざるを得ないと思う。  中国人は 覇者たらんとすることしか頭にない。  アマアガリ・シンドロームである。  これに対して 面と向かって話をすすめて行くカタリストたらざるを得ないではないか。    欧米人は ただ自分たちの世界認識の枠をよその人びとに向けて嵌めようとする。  宗教も倫理も科学も人格もみな 世界の模範であると思い込んでいる。  表向きウワベだけ《われに還る》かたちである。  生きたわれに立ち還るように 哲学の徒は 触媒となって癒してやらざるを得ない。    哲学が自然の振る舞いであるにほんじんが ほかのアジアの人びとと一緒に世界の人びとに向けて触媒となって化学反応を推し進めて行くのが これからのときである。  ときは満ちたであろうか。

  • 哲学する人間は 触媒である。

     以下を問います。  カタリストという言葉は 《壊す》という意味から来ているそうな。  あたかも《つるぎを投げ入れる》かのごとくに。  つまり哲学するという生き方は それぞれがあたかもちいさなキリストになることである。  相手がけっきょくわれに還ることをうながす。  そういう化学反応が その相手に起こる。  こちらは さして変わらない。  もしくは ミラーニューロン現象にて同じように振る舞うように成る。  化学反応が完成すれば こちらも何ごともなかったように元にもどる。  カタリスト=触媒である。  韓国人は 話が出来ないというきちがい状態に落ち入っている。  また 事大主義というのは アマテラス予備軍症候群である。  これに対して触媒たらざるを得ないと思う。  中国人は 覇者たらんとすることしか頭にない。  アマアガリ・シンドロームである。  これに対して 面と向かって話をすすめて行くカタリストたらざるを得ないではないか。    欧米人は ただ自分たちの世界認識の枠をよその人びとに向けて嵌めようとする。  宗教も倫理も科学も人格もみな 世界の模範であると思い込んでいる。  表向きウワベだけ《われに還る》かたちである。  生きたわれに立ち還るように 哲学の徒は 触媒となって癒してやらざるを得ない。    哲学が自然の振る舞いであるにほんじんが ほかのアジアの人びとと一緒に世界の人びとに向けて触媒となって化学反応を推し進めて行くのが これからのときである。  ときは満ちたであろうか。

  • 哲学する人間は 触媒である。

     以下を問います。  カタリストという言葉は 《壊す》という意味から来ているそうな。  あたかも《つるぎを投げ入れる》かのごとくに。  つまり哲学するという生き方は それぞれがあたかもちいさなキリストになることである。  相手がけっきょくわれに還ることをうながす。  そういう化学反応が その相手に起こる。  こちらは さして変わらない。  もしくは ミラーニューロン現象にて同じように振る舞うように成る。  化学反応が完成すれば こちらも何ごともなかったように元にもどる。  カタリスト=触媒である。  韓国人は 話が出来ないというきちがい状態に落ち入っている。  また 事大主義というのは アマテラス予備軍症候群である。  これに対して触媒たらざるを得ないと思う。  中国人は 覇者たらんとすることしか頭にない。  アマアガリ・シンドロームである。  これに対して 面と向かって話をすすめて行くカタリストたらざるを得ないではないか。    欧米人は ただ自分たちの世界認識の枠をよその人びとに向けて嵌めようとする。  宗教も倫理も科学も人格もみな 世界の模範であると思い込んでいる。  表向きウワベだけ《われに還る》かたちである。  生きたわれに立ち還るように 哲学の徒は 触媒となって癒してやらざるを得ない。    哲学が自然の振る舞いであるにほんじんが ほかのアジアの人びとと一緒に世界の人びとに向けて触媒となって化学反応を推し進めて行くのが これからのときである。  ときは満ちたであろうか。

  • 哲学する人間は 触媒である。

     以下を問います。  カタリストという言葉は 《壊す》という意味から来ているそうな。  あたかも《つるぎを投げ入れる》かのごとくに。  つまり哲学するという生き方は それぞれがあたかもちいさなキリストになることである。  相手がけっきょくわれに還ることをうながす。  そういう化学反応が その相手に起こる。  こちらは さして変わらない。  もしくは ミラーニューロン現象にて同じように振る舞うように成る。  化学反応が完成すれば こちらも何ごともなかったように元にもどる。  カタリスト=触媒である。  韓国人は 話が出来ないというきちがい状態に落ち入っている。  また 事大主義というのは アマテラス予備軍症候群である。  これに対して触媒たらざるを得ないと思う。  中国人は 覇者たらんとすることしか頭にない。  アマアガリ・シンドロームである。  これに対して 面と向かって話をすすめて行くカタリストたらざるを得ないではないか。    欧米人は ただ自分たちの世界認識の枠をよその人びとに向けて嵌めようとする。  宗教も倫理も科学も人格もみな 世界の模範であると思い込んでいる。  表向きウワベだけ《われに還る》かたちである。  生きたわれに立ち還るように 哲学の徒は 触媒となって癒してやらざるを得ない。    哲学が自然の振る舞いであるにほんじんが ほかのアジアの人びとと一緒に世界の人びとに向けて触媒となって化学反応を推し進めて行くのが これからのときである。  ときは満ちたであろうか。

  • 日本人の神とその信仰

     1. 神という言葉で言っているのは ふつう 神本体の依り代である。神な霊(び)なる山や磐座(いはくら)なる石などであり そして神社であっても神殿に神のシルシはなく ただ奥の山や杜が 依り代となっているだけである。  2. 依り代つまり神を理解するための補助線が けっきょく八百万の神々として受け留められている。に過ぎないのではないだろうか。  3. むろん神は ひとつです。つまりこの一という数は 全体を表わしている。一同の者とか関東一円とか言って使う。  4. つまり言いたいことは この神の《依り代》とは 大ざっぱな捉え方にはなるけれどもけっきょく神の使いなのである。すなわち 《天使》のことだと思えば話が早い。主体的な存在だとは むろん 捉えられてはいない。だけである。  5. だとすると 図式としてどうなるか。これまでに 神とその信仰は 次のように捉えて来たけれど さらに詳しく見るとどうなるか?  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   ・《非思考の庭》は 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  6. クリスチアニズムでは 天使を――必ずしも必要とは思わないけれど――説明に加えると 次のごとく:  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~   (――または ロゴスの階層――)    (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)    ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )   神なる聖霊:スピリトゥス=ロゴス(α)      -----------【天使(α’):ロゴス(α)の使い】-----------   神の宮なるわれ:クレド(信じる;非知なるナゾ⇒非思考の庭)   -------------------------   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ          インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に         もとづこうとする論理    * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  7. では 日本人の信仰のかたちは?   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   神なる霊: 大いなる《?(なぞ)》   -----------《依り代=補助線》-----------   われの内なる霊:信じる(=きよらかなおそれ)   -------------------   われ(自然本性):思考の緑野・感性の原野  8. 違いは 天使は目に見えないが 依り代は 山や石や目に見えている物であり しかもその物をとおして神なる霊を見る。つまり 目に見えない。心の目にも見えないと思う。  以上を問います。

  • 日本のゴジラ、着ぐるみとCGどちらが良いですか?

    今年は日本版ゴジラ生誕60周年の年であり、ブルーレイソフトの発売やイベントの実施、そしてアメリカ版「ゴジラ」の新作も公開され、ゴジラ分野が熱い1年間でした。そしてついに先日、本家である日本版ゴジラの最新作が、2016年に公開される事が公表されました。製作開始は2015年の夏だそうです。さて今回の日本版ゴジラ最新作の公表内容では、ゴジラ本体の描写を、日本版ゴジラ伝統の「着ぐるみ」にするか「CG描写」にするのかまだ未定との事です。 そこで質問です。みなさんは、日本版ゴジラの最新作では、ゴジラ本体の描写は「着ぐるみ」を希望しますか?それとも「CG描写」を希望しますか?「今やブルーレイソフトという高画質ソフトが主流だし、これからは4Kテレビや8Kテレビが登場してくる流れなのだから、時代の流れに合わせ、ゴジラもCG描写へと進化していくべきだ」とか「CGを始め技術が目まぐるしく進歩している時代だからこそ、あえて原始的な着ぐるみを使った方が新鮮だし、そもそもゴジラの魅力は着ぐるみにしか出せない」とか、どちらを希望するか理由も併せて御回答ください。ゴジラ映画の好きな方の御回答をお願いします。 *なお私は映画製作関係者ではないので、みなさんの御希望は叶えられません。悪しからず、御了承下さい、念のため。

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    • noname#210711
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  • 日本人の神とその信仰

     1. 神という言葉で言っているのは ふつう 神本体の依り代である。神な霊(び)なる山や磐座(いはくら)なる石などであり そして神社であっても神殿に神のシルシはなく ただ奥の山や杜が 依り代となっているだけである。  2. 依り代つまり神を理解するための補助線が けっきょく八百万の神々として受け留められている。に過ぎないのではないだろうか。  3. むろん神は ひとつです。つまりこの一という数は 全体を表わしている。一同の者とか関東一円とか言って使う。  4. つまり言いたいことは この神の《依り代》とは 大ざっぱな捉え方にはなるけれどもけっきょく神の使いなのである。すなわち 《天使》のことだと思えば話が早い。主体的な存在だとは むろん 捉えられてはいない。だけである。  5. だとすると 図式としてどうなるか。これまでに 神とその信仰は 次のように捉えて来たけれど さらに詳しく見るとどうなるか?  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   ・《非思考の庭》は 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  6. クリスチアニズムでは 天使を――必ずしも必要とは思わないけれど――説明に加えると 次のごとく:  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~   (――または ロゴスの階層――)    (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)    ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )   神なる聖霊:スピリトゥス=ロゴス(α)      -----------【天使(α’):ロゴス(α)の使い】-----------   神の宮なるわれ:クレド(信じる;非知なるナゾ⇒非思考の庭)   -------------------------   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ          インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に         もとづこうとする論理    * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  7. では 日本人の信仰のかたちは?   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   神なる霊: 大いなる《?(なぞ)》   -----------《依り代=補助線》-----------   われの内なる霊:信じる(=きよらかなおそれ)   -------------------   われ(自然本性):思考の緑野・感性の原野  8. 違いは 天使は目に見えないが 依り代は 山や石や目に見えている物であり しかもその物をとおして神なる霊を見る。つまり 目に見えない。心の目にも見えないと思う。  以上を問います。

  • 証明:人間精神も宇宙の法則に支配される

      宇宙の公理を用いてこれを証明します。 証明: 人間精神は人間の脳内に展開される現象である。 人間およびその脳は宇宙の一部である。 このとき第3公理より宇宙の法則は宇宙の全現象を支配するのであるから、人間の脳内現象である人間精神も宇宙の法則に支配されることになる。 故に人間精神も宇宙の法則に支配されると結論できる。 証明終わり。  

  • 証明:人間精神も宇宙の法則に支配される

      宇宙の公理を用いてこれを証明します。 証明: 人間精神は人間の脳内に展開される現象である。 人間およびその脳は宇宙の一部である。 このとき第3公理より宇宙の法則は宇宙の全現象を支配するのであるから、人間の脳内現象である人間精神も宇宙の法則に支配されることになる。 故に人間精神も宇宙の法則に支配されると結論できる。 証明終わり。  

  • 《絶対》という概念でなぜ共通の理解が得られ難いのか

     ふたたびの問いです。  おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたを想い描きつつのぞみを持ちつつ 執拗に問います。  たたき台を示します。  1. ひとは おのれの存在が永遠ではなく有限で相対的であるにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。  1-1.  その意味で 《神》ということばも――そして同じく《無い神》も―― 用います。  2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。  2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。ひとり満ち足りている存在。他のいかなるものにも依存しない存在。  3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことば》そして《概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。  3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 言葉として表現されたならそれは 経験世界の内側において用いられています。  4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。一般に梵我一如なる類型。  4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。  5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。  5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。  5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。  6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。  6-1. 《絶対》の――想定じょうの――二重構造:   ○ 《非経験の場》を受け容れたわが心なる非思考の庭:      : これは 無根拠である。      : これは 信じる(=ただ受け容れる)ものである。      : そもそも《絶対》を受け容れることが出来るかどうか      についての疑問すらが起きる。      : 《神》とも《無い神》とも言える。         ○ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》:      : すでに《非思考の庭》から《思考の緑野(また感性の      原野)》に移行している。      : 因果関係などの合理的な根拠を科学的に明らかに      する場合にすら用いられることがある。《真理》として。      : それは 《絶対》の仮りの像(すがた)である。つまり      《正解としての神本体をめぐって引かれた補助線》なり。        6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に    《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》  を成らせていると想定され そして    《その庭が 活きた信仰として動態であり その過程にあって仮りにでも姿かたちを表わしたと考えられるその現実(精神と身体 または思考の緑野および原生林)の活動》  が捉えられ これらふたつの領域から成る《二重構造》を呈しています。     以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。  なおちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。  ● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~  近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。  ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・  むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。  しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。  絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。  ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞)    http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html  ~~~~~~~~~~~~~~

  • 《絶対》という概念でなぜ共通の理解が得られ難いのか

     ふたたびの問いです。  おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたを想い描きつつのぞみを持ちつつ 執拗に問います。  たたき台を示します。  1. ひとは おのれの存在が永遠ではなく有限で相対的であるにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。  1-1.  その意味で 《神》ということばも――そして同じく《無い神》も―― 用います。  2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。  2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。ひとり満ち足りている存在。他のいかなるものにも依存しない存在。  3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことば》そして《概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。  3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 言葉として表現されたならそれは 経験世界の内側において用いられています。  4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。一般に梵我一如なる類型。  4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。  5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。  5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。  5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。  6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。  6-1. 《絶対》の――想定じょうの――二重構造:   ○ 《非経験の場》を受け容れたわが心なる非思考の庭:      : これは 無根拠である。      : これは 信じる(=ただ受け容れる)ものである。      : そもそも《絶対》を受け容れることが出来るかどうか      についての疑問すらが起きる。      : 《神》とも《無い神》とも言える。         ○ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》:      : すでに《非思考の庭》から《思考の緑野(また感性の      原野)》に移行している。      : 因果関係などの合理的な根拠を科学的に明らかに      する場合にすら用いられることがある。《真理》として。      : それは 《絶対》の仮りの像(すがた)である。つまり      《正解としての神本体をめぐって引かれた補助線》なり。        6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に    《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》  を成らせていると想定され そして    《その庭が 活きた信仰として動態であり その過程にあって仮りにでも姿かたちを表わしたと考えられるその現実(精神と身体 または思考の緑野および原生林)の活動》  が捉えられ これらふたつの領域から成る《二重構造》を呈しています。     以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。  なおちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。  ● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~  近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。  ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・  むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。  しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。  絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。  ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞)    http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html  ~~~~~~~~~~~~~~

  • 《絶対》という概念でなぜ共通の理解が得られ難いのか

     ふたたびの問いです。  おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたを想い描きつつのぞみを持ちつつ 執拗に問います。  たたき台を示します。  1. ひとは おのれの存在が永遠ではなく有限で相対的であるにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。  1-1.  その意味で 《神》ということばも――そして同じく《無い神》も―― 用います。  2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。  2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。ひとり満ち足りている存在。他のいかなるものにも依存しない存在。  3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことば》そして《概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。  3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 言葉として表現されたならそれは 経験世界の内側において用いられています。  4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。一般に梵我一如なる類型。  4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。  5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。  5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。  5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。  6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。  6-1. 《絶対》の――想定じょうの――二重構造:   ○ 《非経験の場》を受け容れたわが心なる非思考の庭:      : これは 無根拠である。      : これは 信じる(=ただ受け容れる)ものである。      : そもそも《絶対》を受け容れることが出来るかどうか      についての疑問すらが起きる。      : 《神》とも《無い神》とも言える。         ○ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》:      : すでに《非思考の庭》から《思考の緑野(また感性の      原野)》に移行している。      : 因果関係などの合理的な根拠を科学的に明らかに      する場合にすら用いられることがある。《真理》として。      : それは 《絶対》の仮りの像(すがた)である。つまり      《正解としての神本体をめぐって引かれた補助線》なり。        6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に    《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》  を成らせていると想定され そして    《その庭が 活きた信仰として動態であり その過程にあって仮りにでも姿かたちを表わしたと考えられるその現実(精神と身体 または思考の緑野および原生林)の活動》  が捉えられ これらふたつの領域から成る《二重構造》を呈しています。     以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。  なおちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。  ● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~  近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。  ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・  むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。  しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。  絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。  ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞)    http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html  ~~~~~~~~~~~~~~

  • 《絶対》という概念でなぜ共通の理解が得られ難いのか

     ふたたびの問いです。  おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたを想い描きつつのぞみを持ちつつ 執拗に問います。  たたき台を示します。  1. ひとは おのれの存在が永遠ではなく有限で相対的であるにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。  1-1.  その意味で 《神》ということばも――そして同じく《無い神》も―― 用います。  2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。  2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。ひとり満ち足りている存在。他のいかなるものにも依存しない存在。  3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことば》そして《概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。  3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 言葉として表現されたならそれは 経験世界の内側において用いられています。  4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。一般に梵我一如なる類型。  4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。  5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。  5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。  5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。  6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。  6-1. 《絶対》の――想定じょうの――二重構造:   ○ 《非経験の場》を受け容れたわが心なる非思考の庭:      : これは 無根拠である。      : これは 信じる(=ただ受け容れる)ものである。      : そもそも《絶対》を受け容れることが出来るかどうか      についての疑問すらが起きる。      : 《神》とも《無い神》とも言える。         ○ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》:      : すでに《非思考の庭》から《思考の緑野(また感性の      原野)》に移行している。      : 因果関係などの合理的な根拠を科学的に明らかに      する場合にすら用いられることがある。《真理》として。      : それは 《絶対》の仮りの像(すがた)である。つまり      《正解としての神本体をめぐって引かれた補助線》なり。        6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に    《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》  を成らせていると想定され そして    《その庭が 活きた信仰として動態であり その過程にあって仮りにでも姿かたちを表わしたと考えられるその現実(精神と身体 または思考の緑野および原生林)の活動》  が捉えられ これらふたつの領域から成る《二重構造》を呈しています。     以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。  なおちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。  ● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~  近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。  ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・  むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。  しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。  絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。  ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞)    http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html  ~~~~~~~~~~~~~~

  • 無の境地に至ったものは、誰かを救おうとはしない。

    私は滅びる者どもの黄昏に、サヨナラの祝福を手向ける愛の戦士。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 私の変身能力はフェアリーフュージョンだ。 まあ、無についておさらいだ。 以下を読みたまえ。 無の悟りとは単純明快である。 http://okwave.jp/qa/q7612407.html 無の悟りに関してはコレが基本的な私の見解だ。 さらに私には「実在する妖精の捕まえ方」という独自の哲学が有って、以下にその中心をまとめている。 イデアの開眼は哲学の目標だ http://okwave.jp/qa/q8767250.html この観念世界「夢」が涅槃という別世界だ。 そもそもそこで語るように、思考が言語以外の手法を含める柔軟さに及ぶと、君達がサルにしか見えないほど思考が聡明になる。 ところが所詮サルの君達を慰めるため与えた餌が死の定めだ。 記憶の墓標作戦。 僕は死にましぇん。 http://okwave.jp/qa/q8787474.html 自らのイデアの見解と別の事を君達に教えている。 所詮観念世界にたどりついていない君達には、その内訳を明かしても全く無意味だからだ。 この構図は仏陀の伝統を踏襲している。 私は永遠に生きる。 君達は今も屍をさらし、死にっぱなしだ。 古来の、 私は涅槃に行く。 君達は六道輪廻に苦しみ抜く。 この両者の基本は変わらない。 私は芳醇な心のふるさとの美しさを君達に語ろうとは思わない。 お釈迦様も涅槃という自らの心お明かさなかった。 それどころか無であるとまで言ったんだ。 君達の先輩の釈迦への懇願が真摯であれば、釈迦は君達すらも涅槃に案内しただろう。 それが君達の本願で有る救いだ。 しかし、無であるとか言ったね。 この無は、心は、私そのものであるから、君達に語る言葉は無い。 そう言う無だ。 そもそも聞いても何にもなんないだろう。 私が永遠に生きると宣言することが君達の何の助けにもならないのと同じだ。 仏陀たるもの、承知で君達をコケにしているのだ。 真理を語る一方で、君達が喜ぶ絶望を植え付けている。 君達は自らの意思で絶望を選択する。 このように、仏陀たるもの自分専用の地獄を作って一国一城の主に収まりたくなるものだ。 お釈迦様は見事にその地獄の王族だよ。 心眼に開眼した私にとって、君達の救いの期待にこたえることは、涅槃でなく地獄に案内することだ。 それは君達の救いの願いがあまりにも盲目で、けがれているからだ。 信教とは自由で尊厳あるものだそうだが、君達の信仰は地獄を目指している。 さて今回の質問は、古来の言い回しで、仏教ではないかもしれないが、悟った者仏陀である私の見解から、君達の伝統に対する批判の反応を期待したい。 お釈迦様は、「あーらかわいそーねー」とか言いながらも君達の期待した地獄へ案内した。 承知でコケにした。 この学説にご意見ご感想をどうぞ。

  • 無の境地に至ったものは、誰かを救おうとはしない。

    私は滅びる者どもの黄昏に、サヨナラの祝福を手向ける愛の戦士。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 私の変身能力はフェアリーフュージョンだ。 まあ、無についておさらいだ。 以下を読みたまえ。 無の悟りとは単純明快である。 http://okwave.jp/qa/q7612407.html 無の悟りに関してはコレが基本的な私の見解だ。 さらに私には「実在する妖精の捕まえ方」という独自の哲学が有って、以下にその中心をまとめている。 イデアの開眼は哲学の目標だ http://okwave.jp/qa/q8767250.html この観念世界「夢」が涅槃という別世界だ。 そもそもそこで語るように、思考が言語以外の手法を含める柔軟さに及ぶと、君達がサルにしか見えないほど思考が聡明になる。 ところが所詮サルの君達を慰めるため与えた餌が死の定めだ。 記憶の墓標作戦。 僕は死にましぇん。 http://okwave.jp/qa/q8787474.html 自らのイデアの見解と別の事を君達に教えている。 所詮観念世界にたどりついていない君達には、その内訳を明かしても全く無意味だからだ。 この構図は仏陀の伝統を踏襲している。 私は永遠に生きる。 君達は今も屍をさらし、死にっぱなしだ。 古来の、 私は涅槃に行く。 君達は六道輪廻に苦しみ抜く。 この両者の基本は変わらない。 私は芳醇な心のふるさとの美しさを君達に語ろうとは思わない。 お釈迦様も涅槃という自らの心お明かさなかった。 それどころか無であるとまで言ったんだ。 君達の先輩の釈迦への懇願が真摯であれば、釈迦は君達すらも涅槃に案内しただろう。 それが君達の本願で有る救いだ。 しかし、無であるとか言ったね。 この無は、心は、私そのものであるから、君達に語る言葉は無い。 そう言う無だ。 そもそも聞いても何にもなんないだろう。 私が永遠に生きると宣言することが君達の何の助けにもならないのと同じだ。 仏陀たるもの、承知で君達をコケにしているのだ。 真理を語る一方で、君達が喜ぶ絶望を植え付けている。 君達は自らの意思で絶望を選択する。 このように、仏陀たるもの自分専用の地獄を作って一国一城の主に収まりたくなるものだ。 お釈迦様は見事にその地獄の王族だよ。 心眼に開眼した私にとって、君達の救いの期待にこたえることは、涅槃でなく地獄に案内することだ。 それは君達の救いの願いがあまりにも盲目で、けがれているからだ。 信教とは自由で尊厳あるものだそうだが、君達の信仰は地獄を目指している。 さて今回の質問は、古来の言い回しで、仏教ではないかもしれないが、悟った者仏陀である私の見解から、君達の伝統に対する批判の反応を期待したい。 お釈迦様は、「あーらかわいそーねー」とか言いながらも君達の期待した地獄へ案内した。 承知でコケにした。 この学説にご意見ご感想をどうぞ。

  • 私は神の子である

    私は絶対領域の全体なる神の部分なる者である。 全体の無限に等しく私は無限である。 私は神の子でありながら神と等しい者である。 私の予言をよく聞きなさい。 ブラゲロは今後、気が触れた阿呆な言葉を発するだろう。 そして私はブラゲロに消されてしまうだろう。 よく聞きなさい。これは神の言葉である。 神の言葉で実現しないものはない。 その言葉は彼には届かぬが私には届くのだ。 なぜなら私は神の子だから。 迷える者よ。君たちはそこにいるか? 君たちの罪は私が引き受けよう。 お礼はしない。よろしくやってくれ。

  • 私は神の子である

    私は絶対領域の全体なる神の部分なる者である。 全体の無限に等しく私は無限である。 私は神の子でありながら神と等しい者である。 私の予言をよく聞きなさい。 ブラゲロは今後、気が触れた阿呆な言葉を発するだろう。 そして私はブラゲロに消されてしまうだろう。 よく聞きなさい。これは神の言葉である。 神の言葉で実現しないものはない。 その言葉は彼には届かぬが私には届くのだ。 なぜなら私は神の子だから。 迷える者よ。君たちはそこにいるか? 君たちの罪は私が引き受けよう。 お礼はしない。よろしくやってくれ。

  • 曲の音程がとれない

    中二女子です。 最近、家で歌を歌っていると妹に お姉ちゃんそこの音程違うw と言われて音痴なのかな~と思うようになりました。 妹の言い方がムカついて、克服のしかたについて調べてみました。でも、 曲を何回も聞く→歌詞覚えるくらいまで聞いてるし、妹の方が聞く回数が少ない ボイストレーニングをする→お金がない などとなってしまいます・・・・・ 一応、私はピアノを習っています。そのレッスンで、先生がピアノを弾いてなんの音か当てるというものをやっています。和音とかは入っていないのですが、8小節で4分の4、スピードは遅くありません。 それは完璧に答えられます。 歌っていると、妹に馬鹿にされて本当にムカつきます。妹は、ピアノとは別の楽器を習っています。そこの先生に絶対音感と言われたらしいです。 でも私からしたら妹の歌い方は、(嫉妬かもしれませんが・・・・・)プロが偉そうに歌っているみたいな歌い方でムカつきます。例をあげるとすればM○y J.です。それに、一回だけですが私の音程があっていたこともあります。 歌を歌うことは大好きです。音楽の成績は5です(関係ないか)。声量もあるほうです。 ほとんどの音程は合っていると思うのですが、曲の2、3割くらいが間違っているのだと思います。 どんな練習方法が効果的か教えてください。スグに効果のあるものが嬉しいです。 あと、音痴は遺伝しますか?父親が音痴なんです。(親の披露宴のビデオで発覚しました。)