NemurinekoNya の回答履歴

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  • 共産主義的な状態から私有財産制が進化する?

    共産主義的に最低限に平等という形にすると、何か私有財産の大切さがわかるのですけど。 ルールで画一的に絶対的平等を実現すると、私有財産が意味をもってくるように思えまして。 並より低めの層が画一的に広がり、上部層や多様性に欠けていく問題点があってなど分かるんですけど。 無機質で蓄積もない状態から個が何かを積み上げる形で? エドマンド・バークの『フランス革命の省察』 のように。 やはりそうなんでしょうか?

  • ★時間の定義について★

    時間とエントロピー(複雑さ)は同義ではありませんか? すなわち進む時間とは、エントロピーが増加する状態であり、時間が戻るとはエントロピーが減少する状態をいうのではありませんか?・・・・・・・・・・・

  • 《ねたむ神》は ただの表現の問題である。

     1. 《ねたむ神》というのは 神がねたむのでは必ずしもなく そうではなく神のもとなる人びとが互いにねたむと言っているのである。  2. ♪狭いながらも楽しい我が家とか ♪雪の降る夜はたのしいペチカといった表現の問題におなじい。  3. 楽しいのは わが家では必ずしもなく ペチカではない。そこにいる家族や友だちやである。ならば ねたむ神と言ったら 神のもとにあつまる人びとがねたむのである。  4. すべての場合に当てはまるとは見ませんが 基本的に見て そういう問題が聖書の表現にはある。これは 大きく重要問題として横たわっていると考えられます。  5. 聖書を文字通りに受け取るのは あまり生産的でも建設的でもありません。というお話ですが いかがでしょう?  6. すなわちその節には――というのは ふるい昔の旧約の時代には―― そういった表現をして神のことを人びとに知らせる必要があった。つまり いきなり神は愛であるというような表現では 人びとにとってはお呼びではなかった。と考えられるのではないだろうか。  7. 《復讐はわれにあり》と神が言ったのは すでに旧約の時代です。ですが このようにかたき討ちは わたしに任せておきなさいと神が言ったことを 現代の韓国人はまったく取り合わないと来ています。いかにネアンデルタール人よりも遅れていることか。  8. 表現の問題ではないか?

  • 禁断の書物、書物の著者、どちらが危険ですか?

    読めば、殺人を起こす書物があるとします。 その書物を書いた人、あるいは既に何度も熟読した人と、その書物。 どちらが危険なのでしょうか? この質問に至った理由は、テレビタックルという番組でアニメ規制に対する特集を拝聴した時に、殺人を起こすような作品を規制すべきなら、既に知識を生み出せる人や知識を知り尽くしている人は、さらに危険なのでは?と考えてしまいました。 実際、アニメ・漫画オタクの人が幼児を殺した事件があり、出演した国会議員の方がアニメオタクは既に殺人を犯していると言い切りました。そんな危険な代物なら例外を設けず廃止すべきですし、危険な代物を紙と鉛筆があれば作れる人間や危険な代物のコレクターは、殺人を起こす可能性がある人間ですから、隔離するなり、殺人を起こす代物だから治療は無理でしょうから、最悪な手段を用いるなり、などで一般社会から遠ざけるのが最良では?、と思いました。 思想としては、かなり過激だと思いますが、読めば殺人を起こすような代物を作り続けている人間よりも、その代物の方が危険であるというのが、理解できなかったので質問しました。

  • 禁断の書物、書物の著者、どちらが危険ですか?

    読めば、殺人を起こす書物があるとします。 その書物を書いた人、あるいは既に何度も熟読した人と、その書物。 どちらが危険なのでしょうか? この質問に至った理由は、テレビタックルという番組でアニメ規制に対する特集を拝聴した時に、殺人を起こすような作品を規制すべきなら、既に知識を生み出せる人や知識を知り尽くしている人は、さらに危険なのでは?と考えてしまいました。 実際、アニメ・漫画オタクの人が幼児を殺した事件があり、出演した国会議員の方がアニメオタクは既に殺人を犯していると言い切りました。そんな危険な代物なら例外を設けず廃止すべきですし、危険な代物を紙と鉛筆があれば作れる人間や危険な代物のコレクターは、殺人を起こす可能性がある人間ですから、隔離するなり、殺人を起こす代物だから治療は無理でしょうから、最悪な手段を用いるなり、などで一般社会から遠ざけるのが最良では?、と思いました。 思想としては、かなり過激だと思いますが、読めば殺人を起こすような代物を作り続けている人間よりも、その代物の方が危険であるというのが、理解できなかったので質問しました。

  • 日蓮は 神か ブッダか 人間か

     特には 創価学会への質問になります。  ◆ (御義口伝巻下) ~~~~~~   http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=752&gn=%E5%BE%A1%E7%BE%A9%E5%8F%A3%E4%BC%9D%E5%B7%BB%E4%B8%8B&a1=34&a2=61&re=&pl=&c=10&p=1  日蓮所立自寿量品至開結二経  寿量品廿七箇の大事  第一 南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事  文句の九に云く   如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり   別しては本地三仏の別号なり、   寿量とは詮量なり、   十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量す   故に寿量品と云うと。  御義口伝に云く   此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり 神力品の付属是なり、   如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり   別しては本地無作の三身なり、   今日蓮等の類いの意は 惣じては如来とは一切衆生なり   別しては日蓮の弟子檀那なり、   されば無作の三身とは 末法の法華経の行者なり    無作の三身の宝号を 南無妙法蓮華経と云うなり、   寿量品の事の三大事とは是なり、   六即の配立の時は 此の品の如来は 理即の凡夫なり   頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時 名字即なり、   其の故は 始めて聞く所の題目なるが故なり   聞き奉りて修行するは 観行即なり   此の観行即とは 事の一念三千の本尊を観ずるなり、   さて惑障を伏するを 相似即と云うなり   化他に出づるを 分真即と云うなり   無作の三身の仏なりと究竟したるを 究竟即の仏とは云うなり、   惣じて伏惑を以て 寿量品の極とせず    唯凡夫の当体本有の儘を 此の品の極理と心得可きなり、   無作の三身の所作は何物ぞと云う時 南無妙法蓮華経なり云云。   第二如来秘密神通之力の事      御義口伝に云く    無作三身の依文なり、    此の文に於て重重の相伝之有り、    神通之力とは 我等衆生の作作発発と振舞う・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまりは 本地無作(もしくは本有無作)の法報応の三身なる存在がいると言う。  ◆ ~~~~~   無作の三身とは 末法の法華経の行者なり    無作の三身の宝号を 南無妙法蓮華経と云うなり、  ~~~~~~~  ☆ それにしても なんで日本語で表わさないのでしょう?  そしてこの質問では前提としてすでに《南無妙法蓮華経》を 法身のブッダとして 《真理にひとしい・真実の神》と名づけています。    そのダルマの場ないしチカラを言うときに 神と呼んで捉えたほうが うんと早いし 分かりやすいと考えられます。    すなわち本地が無作――つまり 自然法爾(じねんほうに)――であるゆえに 朽ちることのない真理としての神であると。    そしてこれを《南無妙法蓮華経》とも ここでは 言いかえているのですが 問題は  ◆ 無作の三身とは 末法の法華経の行者なり   ☆ というふうに日蓮その人を当てていることにあります。――確かに存在を身につくっているからには 応身のブッダだとも見られうるでしょうが それにしても問題は 日蓮というひとりの人間が この法身のブッダであり 真理であり神である。と言ったことになります。  ここだと考えられます 問題は。  おそらく かんたんに済まそうとするなら ブッダと神とは違うと言えばよいかに見えるのですが。  だったら けっきょく《ブッダ》とは何か? の問いに哲学として答えなければならないでしょうね。  人間のことか? なら 法身のブッダに人間はなれない。  人間のことではないか? なら それが法身として真理でもあると定義して使ってもよいはず。だけれども 人間である日蓮が この法身であり真理であり神であるブッダであるというのは くるしい。のではないでしょうか。  ■ 無作の三身とは、久遠元初自受用身の“仏”を指す。  ☆ ということだと聞きますが。  ずばり    ○ 日蓮は 法身のブッダであり 神ですか?  すなわち 法身の――また本地無作の法報応の三身としての――ブッダであるとすれば    ○ 理即や名字即から究竟即までの段階など関係なく――     あるいはまた 無明と明知との区分などはいっさい関係な     く―― 初めから 神としてのブッダである。  となります。そうなのですか?   神としてのブッダと人間とのあいだには もはやいかなる想定も妥当性のある存在がいるとしておこなうことは出来ないはずです。(天使は 仮りの物語です)。  人間が 有限の程度問題としての高い段階であるブッダに成ることは出来ると言えましょうが 神としての(法身としての)ブッダであることは かないません。  もし 人間であると同時に法身であり神としてのブッダでもあるとすれば そういう想定は 人間イエスが神なるキリストであるという場合です。  もしそういう想定に踏み込もうということでしたら それ相応の――物語としてながら――理論としての整理をしておかねばならないでしょうから。  このように考えるなら 法身のブッダなる日蓮という命題は やはりくるしい。のではないでしょうか?

  • 日蓮は 神か ブッダか 人間か

     特には 創価学会への質問になります。  ◆ (御義口伝巻下) ~~~~~~   http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=752&gn=%E5%BE%A1%E7%BE%A9%E5%8F%A3%E4%BC%9D%E5%B7%BB%E4%B8%8B&a1=34&a2=61&re=&pl=&c=10&p=1  日蓮所立自寿量品至開結二経  寿量品廿七箇の大事  第一 南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事  文句の九に云く   如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり   別しては本地三仏の別号なり、   寿量とは詮量なり、   十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量す   故に寿量品と云うと。  御義口伝に云く   此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり 神力品の付属是なり、   如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり   別しては本地無作の三身なり、   今日蓮等の類いの意は 惣じては如来とは一切衆生なり   別しては日蓮の弟子檀那なり、   されば無作の三身とは 末法の法華経の行者なり    無作の三身の宝号を 南無妙法蓮華経と云うなり、   寿量品の事の三大事とは是なり、   六即の配立の時は 此の品の如来は 理即の凡夫なり   頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時 名字即なり、   其の故は 始めて聞く所の題目なるが故なり   聞き奉りて修行するは 観行即なり   此の観行即とは 事の一念三千の本尊を観ずるなり、   さて惑障を伏するを 相似即と云うなり   化他に出づるを 分真即と云うなり   無作の三身の仏なりと究竟したるを 究竟即の仏とは云うなり、   惣じて伏惑を以て 寿量品の極とせず    唯凡夫の当体本有の儘を 此の品の極理と心得可きなり、   無作の三身の所作は何物ぞと云う時 南無妙法蓮華経なり云云。   第二如来秘密神通之力の事      御義口伝に云く    無作三身の依文なり、    此の文に於て重重の相伝之有り、    神通之力とは 我等衆生の作作発発と振舞う・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまりは 本地無作(もしくは本有無作)の法報応の三身なる存在がいると言う。  ◆ ~~~~~   無作の三身とは 末法の法華経の行者なり    無作の三身の宝号を 南無妙法蓮華経と云うなり、  ~~~~~~~  ☆ それにしても なんで日本語で表わさないのでしょう?  そしてこの質問では前提としてすでに《南無妙法蓮華経》を 法身のブッダとして 《真理にひとしい・真実の神》と名づけています。    そのダルマの場ないしチカラを言うときに 神と呼んで捉えたほうが うんと早いし 分かりやすいと考えられます。    すなわち本地が無作――つまり 自然法爾(じねんほうに)――であるゆえに 朽ちることのない真理としての神であると。    そしてこれを《南無妙法蓮華経》とも ここでは 言いかえているのですが 問題は  ◆ 無作の三身とは 末法の法華経の行者なり   ☆ というふうに日蓮その人を当てていることにあります。――確かに存在を身につくっているからには 応身のブッダだとも見られうるでしょうが それにしても問題は 日蓮というひとりの人間が この法身のブッダであり 真理であり神である。と言ったことになります。  ここだと考えられます 問題は。  おそらく かんたんに済まそうとするなら ブッダと神とは違うと言えばよいかに見えるのですが。  だったら けっきょく《ブッダ》とは何か? の問いに哲学として答えなければならないでしょうね。  人間のことか? なら 法身のブッダに人間はなれない。  人間のことではないか? なら それが法身として真理でもあると定義して使ってもよいはず。だけれども 人間である日蓮が この法身であり真理であり神であるブッダであるというのは くるしい。のではないでしょうか。  ■ 無作の三身とは、久遠元初自受用身の“仏”を指す。  ☆ ということだと聞きますが。  ずばり    ○ 日蓮は 法身のブッダであり 神ですか?  すなわち 法身の――また本地無作の法報応の三身としての――ブッダであるとすれば    ○ 理即や名字即から究竟即までの段階など関係なく――     あるいはまた 無明と明知との区分などはいっさい関係な     く―― 初めから 神としてのブッダである。  となります。そうなのですか?   神としてのブッダと人間とのあいだには もはやいかなる想定も妥当性のある存在がいるとしておこなうことは出来ないはずです。(天使は 仮りの物語です)。  人間が 有限の程度問題としての高い段階であるブッダに成ることは出来ると言えましょうが 神としての(法身としての)ブッダであることは かないません。  もし 人間であると同時に法身であり神としてのブッダでもあるとすれば そういう想定は 人間イエスが神なるキリストであるという場合です。  もしそういう想定に踏み込もうということでしたら それ相応の――物語としてながら――理論としての整理をしておかねばならないでしょうから。  このように考えるなら 法身のブッダなる日蓮という命題は やはりくるしい。のではないでしょうか?

  • 老子は釈迦になったのか?

    ~~~~~~~~~~~~~ 三教のひとつとしての道教 また、特に対立した仏教に対する優位性を示すため、老子が西域に渡り釈迦になったという説を西晋の王浮が述べた『老子化胡経』や、仏教の「三界二十八天」を上回る「三界三十六天説」を作り出すなど、教理の拡充と強化を進めた[11]。 道教 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99 ~~~~~~~~~~~~~~ 老子が釈迦になるはずないだろうと思ったのですが、 禅の起源が釈迦ではなく老子だったりする可能性はあるのでしょうか?

  • 「馬鹿」と「変人」の違い。

    既存の価値観に合致しない人を、「変人」と呼ぶ事があります。 つまり、既存の価値観を変えた歴史上の偉人は、当時の人々にとっては紛れもない「変人」だった事でしょう。 例えば、イエス・キリスト。 ユダヤ教の改革者イエス・キリストは、ユダヤ教の世界の当時の人々にとっては紛れもない「変人」です。 このカテゴリーでも、既存の価値観を否定しているのかいないのか良く分らんが、意味不明な事を主張する人を見かけますが、彼らもイエス・キリストのように「変人」かもしれません。でも、ただ単に「馬鹿」なのかもしれません。 (このカテゴリーの彼らは、たぶん「馬鹿」でもなく「変人」でもなく、ただの「愉快犯」でしょうが。そう言う書き込みして反応を楽しんでいるだけ。) と言う事で質問です。 「馬鹿」と「変人」の違いは何ですか? * ちなみに私が思う「馬鹿」と「変人」の違いは、 「変人」は世の中の大多数が批判しても、一人や二人、必ず長年付いている仲間(同志)がいる。 「馬鹿」は、長年付いている仲間(同志)がいない。 理由は、「変人」は他人に自分の価値観を理解して貰おうと言う意識があるため、分りやすい言葉を選び説得力のある主張をする事に努める。ゆえに少数でも理解者は出来る。 「馬鹿」はそもそも他人に、理解されようという意識が薄い。言いっぱなし投げっぱなし。自己満足の自己中心的な主張しかしない。そんな奴に理解者など集まるわけがない。「世の中の既存の価値観を変える」と言う意味を、そもそも理解していない。ゆえに馬鹿である。

  • 曹洞宗は何がしたいのか?

    仏教を布教する一方で 悟りを否定するなら 何を布教しているのでしょうか?

  • 曹洞宗は何がしたいのか?

    仏教を布教する一方で 悟りを否定するなら 何を布教しているのでしょうか?

  • ある曹洞宗の学者の心理とは?

    okwaveで書き込みをしているだけのユーザーに対して ずっと粘着していやみを書いてくる学者の心理を教えてください。

  • ある曹洞宗の学者の心理とは?

    okwaveで書き込みをしているだけのユーザーに対して ずっと粘着していやみを書いてくる学者の心理を教えてください。

  • 「馬鹿」と「変人」の違い。

    既存の価値観に合致しない人を、「変人」と呼ぶ事があります。 つまり、既存の価値観を変えた歴史上の偉人は、当時の人々にとっては紛れもない「変人」だった事でしょう。 例えば、イエス・キリスト。 ユダヤ教の改革者イエス・キリストは、ユダヤ教の世界の当時の人々にとっては紛れもない「変人」です。 このカテゴリーでも、既存の価値観を否定しているのかいないのか良く分らんが、意味不明な事を主張する人を見かけますが、彼らもイエス・キリストのように「変人」かもしれません。でも、ただ単に「馬鹿」なのかもしれません。 (このカテゴリーの彼らは、たぶん「馬鹿」でもなく「変人」でもなく、ただの「愉快犯」でしょうが。そう言う書き込みして反応を楽しんでいるだけ。) と言う事で質問です。 「馬鹿」と「変人」の違いは何ですか? * ちなみに私が思う「馬鹿」と「変人」の違いは、 「変人」は世の中の大多数が批判しても、一人や二人、必ず長年付いている仲間(同志)がいる。 「馬鹿」は、長年付いている仲間(同志)がいない。 理由は、「変人」は他人に自分の価値観を理解して貰おうと言う意識があるため、分りやすい言葉を選び説得力のある主張をする事に努める。ゆえに少数でも理解者は出来る。 「馬鹿」はそもそも他人に、理解されようという意識が薄い。言いっぱなし投げっぱなし。自己満足の自己中心的な主張しかしない。そんな奴に理解者など集まるわけがない。「世の中の既存の価値観を変える」と言う意味を、そもそも理解していない。ゆえに馬鹿である。

  • 「馬鹿」と「変人」の違い。

    既存の価値観に合致しない人を、「変人」と呼ぶ事があります。 つまり、既存の価値観を変えた歴史上の偉人は、当時の人々にとっては紛れもない「変人」だった事でしょう。 例えば、イエス・キリスト。 ユダヤ教の改革者イエス・キリストは、ユダヤ教の世界の当時の人々にとっては紛れもない「変人」です。 このカテゴリーでも、既存の価値観を否定しているのかいないのか良く分らんが、意味不明な事を主張する人を見かけますが、彼らもイエス・キリストのように「変人」かもしれません。でも、ただ単に「馬鹿」なのかもしれません。 (このカテゴリーの彼らは、たぶん「馬鹿」でもなく「変人」でもなく、ただの「愉快犯」でしょうが。そう言う書き込みして反応を楽しんでいるだけ。) と言う事で質問です。 「馬鹿」と「変人」の違いは何ですか? * ちなみに私が思う「馬鹿」と「変人」の違いは、 「変人」は世の中の大多数が批判しても、一人や二人、必ず長年付いている仲間(同志)がいる。 「馬鹿」は、長年付いている仲間(同志)がいない。 理由は、「変人」は他人に自分の価値観を理解して貰おうと言う意識があるため、分りやすい言葉を選び説得力のある主張をする事に努める。ゆえに少数でも理解者は出来る。 「馬鹿」はそもそも他人に、理解されようという意識が薄い。言いっぱなし投げっぱなし。自己満足の自己中心的な主張しかしない。そんな奴に理解者など集まるわけがない。「世の中の既存の価値観を変える」と言う意味を、そもそも理解していない。ゆえに馬鹿である。

  • 曹洞宗は何がしたいのか?

    仏教を布教する一方で 悟りを否定するなら 何を布教しているのでしょうか?

  • 曹洞宗は何がしたいのか?

    仏教を布教する一方で 悟りを否定するなら 何を布教しているのでしょうか?

  • 生きている不思議

    生きているということがイマイチ分かりません。 「生きている」或いは「生きる」「死ぬ」これらは全て、状態に対する勝手な命名でしかないのではないのだろうかと思ってしまいます。 皆、生きていることが前提で話が進みますが、そもそも、生きているということがどういうことなのかすら分かりません。 何故今の状態が生きていると言えるのか…。そんな風に思いだすと、全存在が意味を失っていきます。 結局分かることといえば、「今、何故かここにいる」ということだけで、あとのことは何も分からなくなる。 同じように思われる方います?

  • 生きている不思議

    生きているということがイマイチ分かりません。 「生きている」或いは「生きる」「死ぬ」これらは全て、状態に対する勝手な命名でしかないのではないのだろうかと思ってしまいます。 皆、生きていることが前提で話が進みますが、そもそも、生きているということがどういうことなのかすら分かりません。 何故今の状態が生きていると言えるのか…。そんな風に思いだすと、全存在が意味を失っていきます。 結局分かることといえば、「今、何故かここにいる」ということだけで、あとのことは何も分からなくなる。 同じように思われる方います?

  • 命の価値は無限大

    日本では 普通 3人を殺して死刑になりますが、1人でも殺したら死刑にすべきという意見が強いです。 しかし、それだと、2人殺したら、自分1人の命を差し出しても 帳尻が合わなくなると 反論する人もいるけど、命の価値は無限だから、一人殺しても二人殺しても 同じだ、という理屈で 問題ないと思います。 敢えて 数学的に説明するなら、1/0+1/0=1/0みたいな公式になると思いますが、有識者の皆さんは 命の価値を哲学的にどのように考えますか?