ghostbuster の回答履歴

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  • Harold Bloom(編): Metamorphosis- Franz Kafka

    ハロルド・ブルームにより編集されたカフカ解釈についての本が、この4月に出るようですが、どんなものなのでしょうか。 英米文学についての批評や解釈に関しては、ブルームの名はかなり有名だと思いますが、カフカのようなドイツ語圏の作家の場合も定評があるのでしょうか? 検索したところ、この文学カテゴリーにおいて、一度もハロルド・ブルームの名前が出ていないようですが、この方面に少しでも知識がある方がいらっしゃったら、ぜひご回答ください。 よろしくお願いいたします。

  • Harold Bloom(編): Metamorphosis- Franz Kafka

    ハロルド・ブルームにより編集されたカフカ解釈についての本が、この4月に出るようですが、どんなものなのでしょうか。 英米文学についての批評や解釈に関しては、ブルームの名はかなり有名だと思いますが、カフカのようなドイツ語圏の作家の場合も定評があるのでしょうか? 検索したところ、この文学カテゴリーにおいて、一度もハロルド・ブルームの名前が出ていないようですが、この方面に少しでも知識がある方がいらっしゃったら、ぜひご回答ください。 よろしくお願いいたします。

  • 言語になっていない知識について

    以下、哲学の問題でしょうか? 時々、言語化されていない知識に出会うことがあります。頑固な職人さんとか、ある種の経験豊富な知識人のような人たちが集積している経験に基づく知のようなものです。 どちらかというとそのような経験に基づく知識は社会的には受容され、賞賛される側になる場合が多いと思います。テレビドラマ、ドキュメンタリーでもだいたいそういう風な扱いですね。 そのようなものに遭遇したとき、どのような態度に出るべきか迷うことがあります。私は、無条件で賞賛することはできません。同じ経験や知識を共有していないからですね。でも間違いではない知識だとは思います。 ケースバイケースなのでしょうか。”わかるように説明して欲しい。”と言うと”バカヤロウ”などと言われそう。”べらんめえ”調が良く似合います。 具体例は示しませんでしたが、主旨はご理解頂けたかと思います。こういう場合、どうしたらいいでしょう。

  • 小林秀雄と戦争について

    先日亡くなった桑原甲子雄氏の「私の写真史」という本を読んでいたら、以下のような文章がありました。 「昭和十年代は「近代の超克」ということがいわれ、『文学界』という雑誌で三木清等による大座談会がもたれたことを記憶している。このことでは、小林秀雄の名も逸することができない。小林は保田(※与重郎)と並んで、インテリ層を戦争に傾斜させていった役割をになった人である。」(本書39ページ) たしか、小林秀雄は戦争が終わったときに、 「戦後の言論に迎合し「進歩的文化人」に変貌したり懺悔したりする知識人らを尻目に、「頭のいい人はたんと反省するがいい。僕は馬鹿だから反省しない。」と言い切った。」(Wikipediaより)そうですが、当時、同世代の人たちは、この発言に関してどう感じたのでしょうか。 桑原氏の文章を読むと、この「僕は馬鹿だから反省しない」だけでは、小林秀雄の一種の戦争責任?は済まされないと、同世代の人たちは考えていたのではないかと思いましたので。 お詳しい方、ご教授をお願いします。

  • 小林秀雄と戦争について

    先日亡くなった桑原甲子雄氏の「私の写真史」という本を読んでいたら、以下のような文章がありました。 「昭和十年代は「近代の超克」ということがいわれ、『文学界』という雑誌で三木清等による大座談会がもたれたことを記憶している。このことでは、小林秀雄の名も逸することができない。小林は保田(※与重郎)と並んで、インテリ層を戦争に傾斜させていった役割をになった人である。」(本書39ページ) たしか、小林秀雄は戦争が終わったときに、 「戦後の言論に迎合し「進歩的文化人」に変貌したり懺悔したりする知識人らを尻目に、「頭のいい人はたんと反省するがいい。僕は馬鹿だから反省しない。」と言い切った。」(Wikipediaより)そうですが、当時、同世代の人たちは、この発言に関してどう感じたのでしょうか。 桑原氏の文章を読むと、この「僕は馬鹿だから反省しない」だけでは、小林秀雄の一種の戦争責任?は済まされないと、同世代の人たちは考えていたのではないかと思いましたので。 お詳しい方、ご教授をお願いします。

  • 小林秀雄と戦争について

    先日亡くなった桑原甲子雄氏の「私の写真史」という本を読んでいたら、以下のような文章がありました。 「昭和十年代は「近代の超克」ということがいわれ、『文学界』という雑誌で三木清等による大座談会がもたれたことを記憶している。このことでは、小林秀雄の名も逸することができない。小林は保田(※与重郎)と並んで、インテリ層を戦争に傾斜させていった役割をになった人である。」(本書39ページ) たしか、小林秀雄は戦争が終わったときに、 「戦後の言論に迎合し「進歩的文化人」に変貌したり懺悔したりする知識人らを尻目に、「頭のいい人はたんと反省するがいい。僕は馬鹿だから反省しない。」と言い切った。」(Wikipediaより)そうですが、当時、同世代の人たちは、この発言に関してどう感じたのでしょうか。 桑原氏の文章を読むと、この「僕は馬鹿だから反省しない」だけでは、小林秀雄の一種の戦争責任?は済まされないと、同世代の人たちは考えていたのではないかと思いましたので。 お詳しい方、ご教授をお願いします。

  • 小林秀雄と戦争について

    先日亡くなった桑原甲子雄氏の「私の写真史」という本を読んでいたら、以下のような文章がありました。 「昭和十年代は「近代の超克」ということがいわれ、『文学界』という雑誌で三木清等による大座談会がもたれたことを記憶している。このことでは、小林秀雄の名も逸することができない。小林は保田(※与重郎)と並んで、インテリ層を戦争に傾斜させていった役割をになった人である。」(本書39ページ) たしか、小林秀雄は戦争が終わったときに、 「戦後の言論に迎合し「進歩的文化人」に変貌したり懺悔したりする知識人らを尻目に、「頭のいい人はたんと反省するがいい。僕は馬鹿だから反省しない。」と言い切った。」(Wikipediaより)そうですが、当時、同世代の人たちは、この発言に関してどう感じたのでしょうか。 桑原氏の文章を読むと、この「僕は馬鹿だから反省しない」だけでは、小林秀雄の一種の戦争責任?は済まされないと、同世代の人たちは考えていたのではないかと思いましたので。 お詳しい方、ご教授をお願いします。

  • 絶対と直観

    絶対と直観の関係なんですがご存知の方いらっしゃいますか。

  • 小林秀雄と戦争について

    先日亡くなった桑原甲子雄氏の「私の写真史」という本を読んでいたら、以下のような文章がありました。 「昭和十年代は「近代の超克」ということがいわれ、『文学界』という雑誌で三木清等による大座談会がもたれたことを記憶している。このことでは、小林秀雄の名も逸することができない。小林は保田(※与重郎)と並んで、インテリ層を戦争に傾斜させていった役割をになった人である。」(本書39ページ) たしか、小林秀雄は戦争が終わったときに、 「戦後の言論に迎合し「進歩的文化人」に変貌したり懺悔したりする知識人らを尻目に、「頭のいい人はたんと反省するがいい。僕は馬鹿だから反省しない。」と言い切った。」(Wikipediaより)そうですが、当時、同世代の人たちは、この発言に関してどう感じたのでしょうか。 桑原氏の文章を読むと、この「僕は馬鹿だから反省しない」だけでは、小林秀雄の一種の戦争責任?は済まされないと、同世代の人たちは考えていたのではないかと思いましたので。 お詳しい方、ご教授をお願いします。

  • 小林秀雄と戦争について

    先日亡くなった桑原甲子雄氏の「私の写真史」という本を読んでいたら、以下のような文章がありました。 「昭和十年代は「近代の超克」ということがいわれ、『文学界』という雑誌で三木清等による大座談会がもたれたことを記憶している。このことでは、小林秀雄の名も逸することができない。小林は保田(※与重郎)と並んで、インテリ層を戦争に傾斜させていった役割をになった人である。」(本書39ページ) たしか、小林秀雄は戦争が終わったときに、 「戦後の言論に迎合し「進歩的文化人」に変貌したり懺悔したりする知識人らを尻目に、「頭のいい人はたんと反省するがいい。僕は馬鹿だから反省しない。」と言い切った。」(Wikipediaより)そうですが、当時、同世代の人たちは、この発言に関してどう感じたのでしょうか。 桑原氏の文章を読むと、この「僕は馬鹿だから反省しない」だけでは、小林秀雄の一種の戦争責任?は済まされないと、同世代の人たちは考えていたのではないかと思いましたので。 お詳しい方、ご教授をお願いします。

  • 絶対と直観

    絶対と直観の関係なんですがご存知の方いらっしゃいますか。

  • 絶対と直観

    絶対と直観の関係なんですがご存知の方いらっしゃいますか。

  • ニーチェ 名言 格言

    ニーチェの言葉について教えて欲しいことがあります。 「怪物とたたかう者は、みずからも怪物とならぬようにこころせよ。 なんじが久しく深淵を見入るとき、深淵もまたなんじを見入るのである。」 「地球は皮膚を持っている。その皮膚はさまざまな病気も持っている。その病気の一つが人間である。」 「人間は神の失敗作に過ぎないのか、それとも神こそ人間の失敗作にすぎぬのか。」 の英文訳を教えてください。 よろしくお願いします。

  • 物語の登場人物と、倫理

     文学作品に限らず、なにかしらの物語を読むというとき、  「登場人物の道徳意識/倫理基準と、物語そのものの評価は分離して考えるべき」(たとえば、「物語の主人公が悪人→だから、この作品はくだらない」というような評価はアリエナイ)  というのは、現在、何かしらの物語を読み、評価するときのごくスタンダードな立場だ、と認識しています。私自身もまあまず殆どの場合、そのような読み方をする読者でありますし、私が会話する相手にもそのような読者であるということを期待します。  しかし、こういった「読み」の在り方は、特に物語の読者となるための基本的な教養として共有している層と共有していない層がいるよな、ということが最近どうも気にかかるようになってきました。言ってみれば、小説を読む/マンガを読む/映画を観るということの「メディアリテラシー」の在る層と無い層という言い方もできるのかもしれませんが、この問題は意外と複雑な議論を含みうるような気がしています。私自身、それがどういった議論になりうるのか、ということを、まだあまり整理して考えられていないのですが、  そもそもこういった「登場人物の道徳意識/倫理基準と、物語そのものの評価は分離して考えるべき」といった<読み方>の態度の要請は、おそらく極めて近代的な<読み方>の態度なのではないか、という気がするのですが、 (1)こうした<読み方>の態度は一体いつごろから普及したのか (2)誰が、どういう理屈を掲げて言い始めたのか (3)この<読み方>に対する論争史のようなものはあるのか といったことをご存じの方がいらっしゃったら教えていただけませんでしょうか。シャルチエなどの近代読書行為論みたいな領域で扱われてそうな気もするのですが、どうもそちらのほうに詳しい知人がいないので。  宜しくお願い致します。

  • 物語の登場人物と、倫理

     文学作品に限らず、なにかしらの物語を読むというとき、  「登場人物の道徳意識/倫理基準と、物語そのものの評価は分離して考えるべき」(たとえば、「物語の主人公が悪人→だから、この作品はくだらない」というような評価はアリエナイ)  というのは、現在、何かしらの物語を読み、評価するときのごくスタンダードな立場だ、と認識しています。私自身もまあまず殆どの場合、そのような読み方をする読者でありますし、私が会話する相手にもそのような読者であるということを期待します。  しかし、こういった「読み」の在り方は、特に物語の読者となるための基本的な教養として共有している層と共有していない層がいるよな、ということが最近どうも気にかかるようになってきました。言ってみれば、小説を読む/マンガを読む/映画を観るということの「メディアリテラシー」の在る層と無い層という言い方もできるのかもしれませんが、この問題は意外と複雑な議論を含みうるような気がしています。私自身、それがどういった議論になりうるのか、ということを、まだあまり整理して考えられていないのですが、  そもそもこういった「登場人物の道徳意識/倫理基準と、物語そのものの評価は分離して考えるべき」といった<読み方>の態度の要請は、おそらく極めて近代的な<読み方>の態度なのではないか、という気がするのですが、 (1)こうした<読み方>の態度は一体いつごろから普及したのか (2)誰が、どういう理屈を掲げて言い始めたのか (3)この<読み方>に対する論争史のようなものはあるのか といったことをご存じの方がいらっしゃったら教えていただけませんでしょうか。シャルチエなどの近代読書行為論みたいな領域で扱われてそうな気もするのですが、どうもそちらのほうに詳しい知人がいないので。  宜しくお願い致します。

  • ポストモダンを中学2年の男子にわかるように説明するとしたら。

    どういう説明が一番分かりやすいでしょうか?

  • カントの定言命法について。

    私は今、大学で倫理学を取っており、そのテストで2つの問題が出るのですが、どのように答えていいのか全然わからず、行き詰っている状態です。できれば、皆さんに教えていただければと思い、質問してみることにしました。 その問題が以下のような問題です。 (1)カントの定言命法に基づいて、「果たすつもりのない約束をしてはならない」という道徳的な主張を擁護する (2)功利主義の立場に立って、「果たすつもりのない約束をしてはならない」という道徳的な主張を擁護する 答案では、結論を導くための基盤となる主張を必ず明記してその主張に基づいて議論をしてください。 つまり、してはいけないことと、してもかまわないことを判定するための基準を明記したうえで、問題文中の「~すること」がその「~してはいけないこと」の基準に当てはまることを論証してください。 「~の方が効用がが大きいので」と書くだけでは不十分であり、これに加えて「なぜ~の方が効用が大きくなるのか」も書かなければいけません。     という問題です。 どなたか、わかる方がいらっしゃいましたら、ご回答をよろしくお願いいたしますm(__)m

  • フレドリック・ジェームソン「永遠の現在」

    フレドリックジェームソンの永遠の現在(eternal presence)という概念が載っているテキストは何でしょうか?スターウォーズについて言及していたような気がします。一度読んだのですが、どうしてもタイトルが思い出せません。よろしくお願いします。

  • 直観 (ベルクソン)

    よく「直感」と誤表記される「直観」についてなんですが、ベルクソンは「意識を直観する」という言い方をしています。意識は直観そのものだと思っていたのですがベルクソンはどういう意味でそう言ったのでしょう。

  • 物語の登場人物と、倫理

     文学作品に限らず、なにかしらの物語を読むというとき、  「登場人物の道徳意識/倫理基準と、物語そのものの評価は分離して考えるべき」(たとえば、「物語の主人公が悪人→だから、この作品はくだらない」というような評価はアリエナイ)  というのは、現在、何かしらの物語を読み、評価するときのごくスタンダードな立場だ、と認識しています。私自身もまあまず殆どの場合、そのような読み方をする読者でありますし、私が会話する相手にもそのような読者であるということを期待します。  しかし、こういった「読み」の在り方は、特に物語の読者となるための基本的な教養として共有している層と共有していない層がいるよな、ということが最近どうも気にかかるようになってきました。言ってみれば、小説を読む/マンガを読む/映画を観るということの「メディアリテラシー」の在る層と無い層という言い方もできるのかもしれませんが、この問題は意外と複雑な議論を含みうるような気がしています。私自身、それがどういった議論になりうるのか、ということを、まだあまり整理して考えられていないのですが、  そもそもこういった「登場人物の道徳意識/倫理基準と、物語そのものの評価は分離して考えるべき」といった<読み方>の態度の要請は、おそらく極めて近代的な<読み方>の態度なのではないか、という気がするのですが、 (1)こうした<読み方>の態度は一体いつごろから普及したのか (2)誰が、どういう理屈を掲げて言い始めたのか (3)この<読み方>に対する論争史のようなものはあるのか といったことをご存じの方がいらっしゃったら教えていただけませんでしょうか。シャルチエなどの近代読書行為論みたいな領域で扱われてそうな気もするのですが、どうもそちらのほうに詳しい知人がいないので。  宜しくお願い致します。