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《絶対》の概念を日本人は理解していないのですか。

なかなか理解できないのでしょうか。そんなことはないでしょうか。 できないとすれば なぜでしょうか。どうすれば よいとお考えになるでしょう。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • kobarero
  • ベストアンサー率29% (106/361)
回答No.56

幾何学の精神は外在的であり、繊細の精神は内在的と言えると思います。幾何学の精神から得られた原理は外在的ですから、それは、万人に適応可能ですが、繊細の精神から得られた知見は、内在的な心情を基盤としているので、必ずしも万人共通というわけにはいきません。もちろん、人類は共通の心情を多く持ち合わせていますから、共有できる部分も少なくないことは確かですが、幾何学の精神のように万人に適応可というわけには行かないでしょう。 その結果、幾何学の精神は絶対の概念に結びつきますが、繊細の精神は民族や文化の中での心情をベースにせざるを得ないので、どうしても相対的な知見になりやすいと思います。すなわち、幾何学の精神は文明や帝国を生み出す原動力となり、繊細の精神は個々の文化を豊かにする原動力になるのだと思います。 「神の国」は日本の繊細な精神が生み出したものであり、文化を越えた文明にはなれなかった。「キリスト教」は本来は繊細な精神の産物だったのが、ギリシャの幾何学の精神を注入することで、文明や帝国を支える基盤になり得たのだと思います。 パスカルに限らず、人類である以上、《心の内側》が問題になるのは当然のことですが、要は、幾何学の精神を積極的に持とうとするかどうかにかかっていると思います。議論は、また、元に戻ってしまいますが、結局、モチベーション(動機)の問題になると思います。繊細の精神は、そのほうへあたまを向けるまでもないですが、幾何学の精神は、そのほうへ”努力して”あたまを向けなければならないのですから。 台湾人一般はよくわかりませんが、次期総統有力候補の馬英九は、幾何学の精神をかなり持ってはいると思います。 天皇は繊細の精神の産物なので、帝国のシンボルにはなり得ないと思います。実際、太平洋戦争で敗北してしまいました。

noname#80116
質問者

お礼

何も申しつけくわえることがございません。 つぎは モチベーションの問題になるでしょうか。 つまり蛇足として 民族の思考や情感をめぐっての傾向の相違にかかわらず 絶対の概念は だれにでも 理解されうるという前提を確認してまいりたいと思います。 あと モチベーションとからむかどうかですが 数学での《無限》の問題があるようで 気にかかっています。(数学が苦手です)。

noname#80116
質問者

補足

みなさん この回答を参照していただきたいと存じます。

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その他の回答 (83)

回答No.84

全ての言葉は尽くしきりました。

noname#80116
質問者

お礼

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (#68) 羊の門は きちんとしたいと存じます。 コリントも冷や汗ものですが 書いたものは書いたものですので この脆弱さのまま進みます。もし途中で倒れたら krya1998さんにバトンタッチいたします。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 

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回答No.83

話がますます込み入りましたね。知識の優先は、程度と場面、性格などこそ違え、個人個人のことですので、勿論此身も自分を叱っております。本当にありがたくも、大事に対応してくださり、感謝しております。根本的なことは課題・ご質問で提示されたことに関連して、拙い僅かな知識を紹介もうしあげた限りで、その他には何も根本のことはあげつらっておりません。大小・量のことは根本に触れてはおりますが、文化を受け取る時の感覚や態度、認識的用具として触れました。どこの文化も、絶対というような不明な言葉ではなく、それぞれに合致した、基本用具で受け取る必要が先ずひつようなのだという、気持ちでした。日本には、近代の我々が思い描く、絶対という意識は希薄ですね。それは否めないので、もう何とか負け惜しみみたいに一生懸命申しあげてみただけです。だれそれが、この創造界での絶対とか、創造以前のこととか、そのプロセス、境目をお話になっておられました。学級的にはあぁいう論理のプロセスは不可欠でしょうね。そういうことで、此身もずいぶん勉強できると存じます。今次83の最後のフレーズに、かしこまらざるを得ないのですが、お会いしないでのことでして、上記以上のことは何もなく、どうか庭の小枝を風が抜けたくらいに思ってください。莽翁 寒岩

noname#80116
質問者

お礼

でしたら #80で 締めくくりのないままですが お伝えしたことばが もう一度 生きてくるかに思っているのですが。 《でも 考えようによっては われらがたましいは かれらの定規を包んでいて これを しかるべく――不必要なところでは持ち出さずに 必要に応じて――用いていくことが出来るとはお考えになりませんでしょうか。 二つの物指しと言いましたが 互いに対立し合うしかないとも限りません。 そして ふたたび きれいごとになるのですが かれらとて かれらのすべてが われらと同じようなたましいを持っていないとも限らない・・・。》 もしくは そもそもの初めに たとえば《まことありき。き(いざなき)とみ(いざなみ)とはここにより生まれ・・・》というかたちで表現される言挙げをきちんと為してから 認識と理論の形成はおこなうべしといったご見解なのでしょうか。 あとは 《大小・量のことは根本に触れてはおりますが》とおっしゃることに留意しておりますが。難しいですね。――たぶん 《文化を受け取る時の感覚や態度》として おっしゃるようなかたちで接してもらった体験がわたしには ないのだと思います。あっても そのときには 欺かれたという体験だったゆえなのだと思います。というところまで 話はすすむのかも分かりません。 (これは 愚痴になるとも思いますが 説明として出させていただきました)。(その意味では おっしゃるように わたしの言説は 悪魔を想定した上での議論になっているかと いま思いました)。 (大問題に入ったと言うべきでしょうか。もしそうなら またまた 途中になってしまいますが ご見解を伺えればと存じます)。

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回答No.82

こちらとしての存念の外のことにも、ご宸襟を煩わせ(寒からしめ)、ことばの難しさを痛感します。あくまでも、貴兄さまの本件を一度この辺で切り上げ、という意味と、お返しいたしますという意味に、返上というお言葉を理解しておりました。これはどうでもよろしいでしょう。事の本質や課題には関係ありませんから。

noname#80116
質問者

お礼

ここまで回答をいただきつつ 対話をすすめてまいりました歴史にもとづき 言葉遣いなどにゆるい気持ちを持ってしまったのかと思います。 でも そのことは問題でないとすれば 《知識を優先させたこと》でしょうか。 わたしの信条として 《あやまつならば我れ有り》とすでにお伝えしていましたので この場合も わたし〔の考え方〕と同じように人を愛するという方針にのっとり 振る舞ってまいりました。 これが 根本的にまちがっていると批判されるのでしたら 致し方がないかと存じます。大小や量の問題ではないとおっしゃるのでしたら そうなると存じます。 一たんここで ご見解をお伺いできればと存じます。

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回答No.81

 ご返上させていただきます。というお言葉はそういう意味と理解しておりました。少し寂しくはありましたが、これも浮世、様々なことが様々に映りますから。そして様々に見えて。ラートブルッフの具体的妥当性は、個別事象に内在する、事物の本性をどの程度斟み酌れ、普遍的当為要請原理からの抽象原理内容を実現できるか、の問題で、不思議なことにhindu的宇宙創造の構造に合致するものですから。あまり無縁なことも多々ありましょうから、ご誠実なご対応も、適当にして戴ければ何よりに存じます。

noname#80116
質問者

お礼

インタネットの向こうに待っておられるという思いがあって 文章の途中でも早いほうがよいと思ってのことでした。《そういう意味と理解して》いただいたということでしょうか。 知識を優先させたかたちになってしまったのかも分かりません。

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回答No.80

傷も付けられずに、自己温存が出来る中で、反省認識の場を与えられ、本当に感謝します。厳しい大宇宙の中なんていうと、やはり勝手ともいえる具体的妥当性の中に入っていく可能性が許される側面があり、留意していきますので、どうかお許しを下さい。

noname#80116
質問者

お礼

じーんと来てしまいました。面食らってもおります。 と申しますのも お伝えしたように 途中で一たん切り上げさせてもらいましたし それほど気の利いたことを申し上げてもいないように思っていて・・・。 こちらこそ 感謝いたします。ありがとうございました。 では とりあえず このようなかたちですが・・・。 わたくしも それでも あと三十年はと欲を出しております・・・。

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回答No.79

法令の解釈で、ラートブルッフが、抽象的原理性と具体的妥当性のせめぎあいの中での、葛藤の中での、論理構成という側面を論述していますが、西郷さんの場合も、私達もやはり抽象的な側面が脱落してしまう傾向がどうしてもありまして、批判されております。でもそういう批判者には、理屈ばかりもんだいにするな、という感情があります。今の眼前のことを今の眼前でしかものを見ようとしない、それで通ってきてしまった。厳しい大宇宙の中では認容してもらえない。でも理論構成には、依拠していきたくない。理論構成は結果であり、一つの認識方式でしかない。という思いで、宇宙全体での日本的なもの(自分)とはどうあるものかを今課題にしているわけです。

noname#80116
質問者

お礼

わかりました。わかったと思います。 一分(1%)のさらに一万分の一のところで 《わたしは 日本のラートブルッフであるべきか否か》という葛藤をお持ちなのではないでしょうか。 《ラートブルッフなど要らないと言ってはいけない》とお思いなのだけれど そこから出発するのは われらがたましいではないようだぞと。 でも 考えようによっては われらがたましいは かれらの定規を包んでいて これを しかるべく――不必要なところでは持ち出さずに 必要に応じて――用いていくことが出来るとはお考えになりませんでしょうか。 二つの物指しと言いましたが 互いに対立し合うしかないとも限りません。 そして ふたたび きれいごとになるのですが かれらとて かれらのすべてが われらと同じようなたましいを持っていないとも限らない・・・。 途中ですが いったん お返ししようと思います。

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回答No.78

とても難しいお話になり90%くらいしか、直ぐにはりかいできないのですが、仰るとおりであまり食い違いはなく、ご理解くださっていてありがたいことです。要するに、私達は日本人は分かり合えている中を前提にして、生きてきており、グスタフ・フォン・ラートブルッフの悪魔にも通じたと看做して、万全のことを背景にして、ものをいっているぞ。なんてことは無用なのでした。そんな連中は、ものをいう相手としていない。これが私達でした。貴兄様は暗闇の、得体も知れない悪魔を頭に画いて生きておいででしょうか。江戸びともわたしもそんなコミュニティにはいないようです。そういうわたしなどは、平手造酒の、利根の川風袂に入れて、月に竿さす高瀬舟に感じるのです。国際的にみれば、通じない。判っている。西郷が、おいどんの命あげましょう、という時、日本次元でも、宗教次元でも絶対とか真理など考えてなくて、絶対に対面しながら、自然に自己決定しているだけです。これを国際用語の絶対ということばでの尺度を出されると、それはどこかヒマラヤの高さや、アメリカの広さでも測るときに使ってくれ。というだけで、こちらはいつも絶対の流れの中でしか、考えていない、一粒に徹しているのだ、そっちの絶対でしかこっちをみるなら、文化の質と対面しているものが、違うからね。いっしょにするなら、何か他の観念をお願いします。ということではないでしょうか。少し右翼ですが。確かに間違っていても、5.1.5や少し批判はあるが2.26の決起の将校に思いを寄せるラディカルな政党の支援者ではありますが。もちろん神道の清浄も、大事にしているのです。

noname#80116
質問者

補足

おっしゃるとおり とても難しいお話になりました。 ひとつ分かっていることは 《わたしとわたしのくにの人たちを見てくれたまえ。どのように生きているか。みんながどのようにして暮らしているか。何を思い何を考えどう生きているか。そのこころの中をじっくり見てくれたまえ》と言い そのように言っていく立ち場があるということです。 その隙を縫ってのように 一部では こういう事態もあります。別の質問のところで書いたことですが 《きみたちは 絶対を受け容れなさい。》――《いやいや 諸君こそ 絶対などというものは棄てなさい。 / あるいは―― いや そうではない。そうではなく はじめの諸君の絶対も 絶対はないという諸君も まちがっている。われらの絶対こそが 絶対だ。これを崇めなさい。》と言い合う事態です。 で この場合にも 初めに掲げました一粒の麦の立ち場が考えられます。物指しは一つであるとは限らないよ。よく見てみてと。 《貴兄様は暗闇の、得体も知れない悪魔を頭に画いて生きておいででしょうか。》――実際問題として すでに アメリカの精神(あえて)は わたしたちの生活のかなりの部分に影響を与え さらにその一定の部分を悪くしてしまっているかも知れません。とはお思いになりませんでしょうか。わたしたちは その《定規》をうまく使えないほどの模索の状態にあるかに思えます。 もう少し時を待ちたまえとおっしゃるのかも分かりません。そうすれば 水の澄んでゆくに従い 泥や何やかやは 下に沈んでいって すべてが治まるはづだよ。われらの清浄力を信じたまえと。 たぶん一割の部分は そのように出会った分岐点で 話し合いをつづけているのではとも思ったりします。おそらく まことを示すことば あるいは 言葉以外の表現 これが求められているとは思います。 おっしゃるところを伺っていれば あわれみの職務というものが 世界の人びとの中で もしあるとしたなら 日本人としての人はここにありと――言わなくとも―― 思っている姿勢が それでしょうし さらには やしろとして日本とは こういうくにですと つつしみつつ 胸を張って 暮らしている姿も 大切であると思えて来ます。 言葉の議論にかんしては まさに国際の場に出ているわれらがはらからにお任せすることが出来るというように思います。 そして おそらく あと一分(1%)では 国際場裏に出る人びとのために 早くから 思考の訓練をしておくか いや それは不必要かになるように思うのですが いかがでしょうか。きれいごとに堕してしまっていますでしょうか。

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回答No.77

早速ありがとうございます。  (1)ラートブルッフは、仮にも理性が存するならば、仮令、最も邪悪な悪魔にも、法令として通じた、理解したという看做し(ご存じのように、看做しと推定は完璧に、結果させる、法律効果がちがいます)ができるように、言葉の厳密な内容と、文章で、法令関係はなさなければならない。文章とことばだけで施行できなければならない。そこで読み取れる内容が、法令の内容で、制定者や、当時の事情などは、単なる参考でしかない。という意味であります。法律と法解釈学のことば上の原則をいうにつきております。  (2)貴金属のこと:これはあくまでも物的なもので、これを評価する基準は、大小や重さでしかありません。と存じます。だから、その基準を文化や文明についての絶対ということついて当て嵌めていくことは、無理であると存じます。翻訳語の絶対という言葉や大小や重さは、日本の文化・文明の何かを、思考するときには、限界というか、そういう事柄を抜きにしているのが、日本の文化や文明だったのではないかという思いなのですが。そういうことに向けて、生きてきてはいないと存じます。ことばを当て嵌める、次元が違うのではないか。聴覚に対して、味覚を聞いても仕方ないというような、譬えの世界だと思ったもので、両者をくるめてのことであれば、それぞれの原子的根源の要素、その要素がどこからもたらされているかの面から扱って欲しいのです。所謂ロマン・ロランと湖人をを同一の言葉では扱わないで欲しい。ガンディと西郷隆盛を一方のことばで扱わないで欲しい。インドは真理で世界に貢献してきている。インドの本質は真理である。そのインドが暴力で独立を勝取るなら、そんなインドをw足しはもう愛さない。そんなインドは滅びて欲しい。このことばに感激しない人は誰もいません。がんとそびえるヒマラヤの岸壁です。そんなヒマラヤの岸壁は西郷さんにはりません。遠く狙ってきた資刺客。それはどうも遠いところをごくろうに存じます。今、丁度誰もいません。どうぞおいどんの命お取りください。  決起をつげる郷党の若者に、ではおいどんの命さしあげましょう。 僧との入水。これらはヒマラヤ岸壁と比べて評論するものではない。人間の要素、絶対者からきている同じ原子性。その原子性を示すKategorieは絶対という言葉では無理なのだと、惟うのですが。

noname#80116
質問者

補足

(1)少し勉強しましたら 次のようにも出ていたのですが そうしますと そのあとに述べますように 解釈してよろしいでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ In sum, Radbruch's formula argues that where statutory law is incompatible with the requirements of justice "to an intolerable degree", or where statutory law was obviously designed in a way that deliberately negates "the equality that is the core of all justice", statutory law must be disregarded by a judge in favour of the justice principle. http://www.en.wikipedia.org/wiki/Gustav_Radbruch ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《法律は 条理だとか法の精神だとかいわゆる自然法に基づくと考えられる。しかも それにもかかわらず そのように言葉として不分明な不文のものを判断の基準にするというよりは そうではなく 条文において あたう限りあらゆる場合を想定して その解釈と施行のほぼ一義的に決まるように 厳密に表現し制定しなければならない》と。 いづれにしましても わたしの《悪魔》の使い方は あてずっぽでした。M.ウェーバー(かれに同感してはいませんが)の用法を借りただけでした。 (2)やはり 表現の形式にちなんでは (a)翻訳(用語の対照)の問題と そして(b)むしろ不立文字と言うんでしょうか(あぁ 拈華微笑ともいいましたね) 無言としての表現の問題 この二つを挙げておられると捉えます。 後者の無言は 以前にも触れておられたように 実践の問題・いわば人間力というような実存のそれ・そしてさらに言うならば そのような生活態度の感化のもとにと思われるような地域社会におけるやはり情感の共同性という実情 これも視野に入れておられるのかなと捉えます。 舌足らずになるのを恐れますが 承って思うことには いわゆる物指しが 二つあるのではないかということです。《定規(規矩)》と 《定規を越えた息吹き(直観・洞察力・あるいは香り?)》です。 そしていくらか わたしの側に傾いてものを申すならば 定規を越えたところのものを 定規に合わせた言葉で表現するという課題を 現代世界では――われわれ日本人も―― 持っているというように思ったりするのですが。と言っても わたくし自身に限ればもはや 次の世代に任せるほかないといった情況なのですが。 絶対は 一応そのままで 相い通じ合うようにも思えるのですが。言いかえると その絶対に通じるかに思われそれを表わしうるような人間力の要素を きちんと伝え得る言葉が欲しいということになるのでしょうか。(それは 物語としての叙述の全体 あるいは 劇における演技の絡み合った全体ということになるのかも分かりません)。

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回答No.76

ご無沙汰をわびます。ずいぶん専門的な展開になり、このご回答者のシリーズを勉強させていただきます。先週、江戸文化の勉強に行きました。多くの江戸文化は、町人や町人のある層でしょうが、職人たちの手になるものが多く、その伝統は日本の文化や意識の深層に流れている事を感じながら、この教えてに連想が続きました。私の友人達も日本刀に傾倒し、全国の方は東京にきて、我が家を拠点に東京を歩きます。先日の江戸文化は浮世絵やメディアの発祥です。彼ら職人達、その関係者はみな地域的に狭い町内に居住していました。彼らには見える範囲、理解しあえる同士の世界での仕事と意識です。そういう中では、それを出るような遣り方や要求、企図は異人、変人・奇人になることもありえます。了解のなかでの意識です。職人やその関係のものがやはり、日本の文化の大きな担当者であった。彼らの中にも論理と理屈出いくものもいたが、西洋やインドの論理とは質的に違いますね。彼らに絶対のことを聞いたら、魂と修練の技術というにつきるでしょう。ラートブルッフが、哲学や宗教と違って、統治権力の法令は≪悪魔にも通じ、通じたとして、施行できる言葉、概念、文章で作る≫もである。ということは彼ら職人や江戸・日本には無用できたのかも知れません。悪魔は自分達の外にしかいないのでしょう。そういうところの絶対を、この言葉の震源地の意味で考えることは凡そむりなのではないでしょうか。神に Sinless One は直訳では罪なきものでしょう。しかし日本語で"汝罪なきもの"といえば、他愛のないとか、なんてこともない、という意味になる。穢れなきは、穢れが少し違う。むしろ邪念なき、純なるものよ、でしょう。開悟の高僧がSinless Oneだと思います。しかしそのような概念は日本には無いので、今、ある本を訳しながら、唸っているのです。翻訳とは著作になっていくのです。これが絶対ということにも、起こっている事ではないでしょうか?N076さんの話もこれから勉強ですが、私はやはり貴金属の大小ではない何か、認識・探り出しの観念がないのかなぁと、悩みます。

noname#80116
質問者

補足

お久し振りです。 いいご経験をなさっているようですね。江戸の人びとなら江戸の人びとに見るというそのような歴史の掘り起こしが 大事なようにわたくしも感じています。(絶対の概念の導入という質問のほうで少し触れることができたかと思います)。 話題は《専門的》なのですが 思えば フラクタルのことをおそわっておきながら 特異点などの問題も 残念ながら明るくありません。(ウィキペディアは一通り読みましたが)。なんとか歯を喰い縛ってでも進みたいとは思っております。 今回は すでに見え隠れしてもいましたがその《表現の問題》という点を指摘していただいたと理解します。 二つの側面があります。 ひとつに そもそも表現する必要があったか あるかの問題です。江戸の職人の事例のように その道を究めることで おそらく《絶対》のことを見る(感じる)ことがあったと思われるが しかも これを 言葉にして表わすことは 総じて日本人は していない。その表現・分析・展開へとは進まなかったと思われるという事例です。 (その一:簡単に言って 言挙げして来なかった歴史。 (その二:《社会の統治には 個人のすべてを一様に同時に満足させることは出来ないゆえに 端折って言えば 悪魔と手を結ばなくてはならない場面もある》という場合 そのような場合が 《絶対》とかかわって 言葉による表現として現われるか否か。)――(ラートブルッフ等々は未読です。ご紹介いただければ おおよろこびです。) いまひとつに――上の(その二)と関連しつつ―― では 表現するとした場合 表現するにしても 言語(もしくは 民族)のちがいによって 表現の形式に違いがあるだろうという問題です。通訳・翻訳の問題にもなります。 《罪》と《恥ぢ》の問題ではありませんが いっそのこと 翻訳語にかんして 全部 見直し当てはめ直すことが必要であるのかも知れません。 (その三:自身に引き寄せてみれば 例のアウグスティヌスの表現形式には とても日本人が理解できるとは思われない事例が いくらもあります)。 (その四:おっしゃるように 同じアジアと言っても 中国やインドの表現形式についてみても 相当ちがうと思われます。) 《やはり貴金属の大小ではない何か、認識・探り出しの観念がないのかなぁと・・・》――この後半はわかりますが 前半は 器ですとかその人の境涯といったことをおっしゃっているのでしょうか。ご説明をお願いしてよろしいでしょうか。 いやぁ またまた 前途洋洋とも言うべく 課題と範囲がべらぼうに広がりましたね。楽しみでもありますが。

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  • konagoo
  • ベストアンサー率24% (67/276)
回答No.75

ANo.74です。 >《絶対》の概念を日本人は理解していないのですか。 と問いかけながら、これを主観の問題と言ってしまうと「日本人が理解しないこと」がどこかへ飛んでしまいますね。  この時空間に《絶対》が存在しないことは前に記載した通りですが、宇宙創生の特異点には《絶対》を彷彿とさせる糸口があるように感じます。  この特異点が、完全な別次元からの干渉によるものであるなら、いかなる方法をもってしてもこちらの時空間から干渉元を知るすべはありません。シムシティの住人からプレイヤーの存在を確認出来ないようなものでしょう。  そうではなくて、この時空間を内包する高次元?での物理法則または自然現象による必然がもたらしたものであるなら、客観の構成起源である主観が織りなす関係性にも絶対のかけらが存在して然るべきでしょうし、禁断の実を食べたのも、バンドラの箱を開けたのも《わたし》ということでしょう。  特異点が《絶対》を指し示すとしても、完全な客観性を追求すると《絶対》が不完全だからこの時空間が存在するので、不完全な絶対は もはや《絶対》では無くなります。この様に主観が《絶対》を完全に客観視して見つめると《絶対》は消滅し、主観が見つめていない(または主観が自らの主観から消失すると)と出現する不思議な挙動をする、即ち、主観と《絶対》は同一(すくなくとも表裏一体)であるということが一つの解として導かれます。

noname#80116
質問者

お礼

詳しい解説をありがとうございました。 二点あります。 一つは 《主観の問題》だと言いましたのは 絶対の概念をあつかうという問題ではなくて その概念の想定のあと 個人の信仰として いわゆる神秘体験がありうるという問題について 触れておいたほうがよいと思ってのべましたことがらです。特には 議論として提出するとかではなかったことを 遅まきながら お伝えいたします。 二つは それとも関連させるかたちだと思われますが 絶対の概念をやはり超えて それとのわたしたち人間とのかかわりについて 述べておられることがらです。 一つの結論として 《即ち、主観と〈絶対〉は同一(すくなくとも表裏一体)であるということが一つの解として導かれます。》とおっしゃる事例です。 《特異点》ですとか くわしくないのですが 《客観の構成起源である主観が織りなす関係性にも絶対のかけらが存在して然るべきでしょうし・・・》と述べられたことに鑑みて思ったことは 上の《同一(すくなくとも表裏一体)》について わたしの言葉では 《絶対を 主観が 分有する》という事態ではないかと理解します。《絶対のかれらが存在してしかるべき》といった内容のことだと思っております。 客観性と絶対と主観との関係を詳述されていますが 明確に把握できていないことをお伝えしておいたほうがよいかと思われ その点 ご容赦いただかなくてはならないかと思います。 このような読みと考えを持ちました。

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    絶対値という概念がないと理解できないことというものはあるのでしょうか。必ずしも実用的な意味だけではなく絶対値という概念なしには構築不可能な理論体系にはどのようなものがあるのでしょうか。

  • eventの概念が理解できません

    こんにちは。オブジェクト志向でVB、C#を学んでいます。デリゲートを理解してeventについて学んでいますが、よく理解できません。 イベントとは、「あるアクションが発生したことを自動的に通知するための仕組み」と本にあります。 さらに、「送信側オブジェクトのイベント(と呼ばれるクラスメンバーに、受信側のイベントハンドラー(と呼ばれるメソッド)を登録します。」とあります。 下記が本に載っているコードです。 私が理解できているのは、 ・戻り値が無し、引数をとらないメソッドを参照するオブジェクト。MyEventHandlerというデリゲートを宣言 ・戻り値が無し、引数をとらないメソッドを参照するオブジェクト。SomeEvent変数を宣言 ・MyEvent型のevt変数の宣言 理解できないのは、 evt.SomeEvent += Handler;。何をやっているかわかりません。 ここをわかりやすくお教え頂けませんでしょうか? using System; //MyEventHandler型を宣言。ここは理解できます。 delegate void MyEventHandler(); class MyEvent{ //イベントの宣言。EventHandler型の変数、SomeEvent。 public event MyEventHandler SomeEvent; public void Fire(){ if(SomeEvent !=null) SomeEvent(); } } class EventDemo{ static void Handler(){ //←イベントハンドラー Console.WriteLine("Event occurred"); } static void Main(){ MyEvent evt = new MyEvent(); evt.SomeEvent += Handler; evt.Fire(); } } また、もう一点お教え下さい。フォーム上のボタンをクリックした時に、メッセージを表示するようなイベントはどのような形で動いているのでしょうか? senderはイベントの発生元のオブジェクトがそのまま入っていて、eはイベントの補足情報が入っているのは理解しました。 ボタンをクリックした時に、ボタンクラスから何らかの情報が送られてきて、それをsenderとeで受取ると思うのですが、これのどこにeventとデリゲートが関わってくるのでしょうか? 何かモヤモヤしてeventがわかりません。 宜しくお願い致します。 private void btn_Click(object sender, EventArgs e) { messagebox.show("hello"); }

  • 微分は比例の概念がなくても理解可能ですか

    積分にも同じようなことがいえるでしょうか。小学校で習った比例の理解が完璧でないと理解できないというようなことがないでしょうか。

  • 失業という概念が理解できない

    長年不思議に思ってましたが、理論的に言えば働く人が増えれば、人間の生活はもっともっと豊かになれるはずなのに、何でみんなギリギリの生活をして、さらに失業者がわんさかいるのかが理解できません。お金持ちたちが天井で、何も生産してないのに、金で金を増やすまさにマネーゲームばっかりしてて、いざ金融ショックで、まじめに生産をしている人が苦労する。 さらに理不尽なのが「不法就労」、働いてくれて社会を豊かにしてくれているのに、怠けて生活保護の人よりよほどマシなのに、「不法」というレッテルはかわいそうと思います。 なんか口では言い表せない、なんかが納得いかないんです。このなんかって何なんでしょうか。手優しくご教授ください。お願いします。

  • 《絶対》という概念を使いこなすようにならねばと

     ・・・思います。そのことをめぐって 問います。  おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたが想い描かれますが そうであるかどうかは 発進してみなければ分かりません。  すでに幾度も問うていますが そういう意味でさらにすすめたいと考えました。  たたき台です。  1. ひとは おのれの存在が永遠ではないにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。  1-1.  その意味で 《神》ということばも――そして《無い神》も―― 用います。  2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。  2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。  3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことばそして概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。  3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 経験世界の内側において用いられています。  4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。  4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。  5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。  5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。  5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。  6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。  6-1. 《絶対》の二重構造:   ・ 《非経験の場》そのものとしてのわが心の庭〔なる神〕:無根拠   ・ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》:因果       関係などの合理的な根拠を科学的に明らかにする場合に       すら用いられることがある。        たとえとして都合がよいのだと思われる。        6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に 《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》と《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実(精神と思考の緑野ないし密林)》との《二重構造》を呈しています。     以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。  ちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。  ● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~  近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。  ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・  むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。  しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。  絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。  ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞)    http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html  ~~~~~~~~~~~~~~

  • 《絶対》の概念をもし導入するとしたら・・・

    どのような考え方で どのような方向・方策が考えられるでしょうか。 どのように動機付けしていけばよいと思われるでしょうか。 むろん 導入の不要論や反対論も受け付けてまいります。 たとえば 司馬遼太郎の言うには:―― ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・ むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。 しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞) http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ちなみに わたしは 日本人のあいだでも 身分制のきびしき折り 愛し合った男女が 身分の違いで引き裂かれるというとき 道行きにみづからを追い込んでいったとき かれらは 絶対を見ようとしていたかも知れないと思います。死を覚悟の譴責を家来としておこなったりする場合も見られるように思います。 上の事例と同じように おこないとして どうかとも思うのですが 忠臣蔵も 絶対を見ようとしたのかも知れません。 とにかく 多岐にわたるでしょうが たとえばクリスチア二スムやイスラームとの付き合いでは わきまえておいたほうがよいと思ったりします。そして よかったら そのあたりでなりとも お考えを述べていただければさいわいです。 なおわたし自身は 絶対の概念について自分の見解を持っております。そして その導入ということについては いままでに特に考えたことはありません。

  • 数学的に回転を理解するためには無限小の概念を

    理解する必要がありますか。あるいは微積分の理解も必要でしょうか。

  • 理解できません。

    私は、セフレや混浴など初対面の人もしくはその日に会った人などに裸を見せたり、性行為をする事が理解できません。 私は、女性であれ裸を他人に見られる事が苦手なのもあり、男性に見られるのはもっと苦手です。 そして、裸や性行為と言うのは、彼氏や旦那さんなど信頼できるからこそ自分の本当の姿である裸を見せれたり、行為ができると思っています。 なので、セフレがある方混浴に行く方がいると毎回理解に苦しみます。 私の彼氏さんは、付き合う前混浴に行くし、セフレもいたし、混浴で出会った子と一緒に寝たりワンナイトした事もある人です。なので、そう言う話を聞くと毎回理解できなくて嫌です。 彼氏さんにも、私の考えが異常と言われます。世の中こういうひとばかりで、私のような考えの人は少ないらしいです。 そうなんでしょうか。不安で理解したくてもできなくて辛いです。