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《絶対》の概念を日本人は理解していないのですか。

なかなか理解できないのでしょうか。そんなことはないでしょうか。 できないとすれば なぜでしょうか。どうすれば よいとお考えになるでしょう。

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  • ベストアンサー
  • kobarero
  • ベストアンサー率29% (106/361)
回答No.56

幾何学の精神は外在的であり、繊細の精神は内在的と言えると思います。幾何学の精神から得られた原理は外在的ですから、それは、万人に適応可能ですが、繊細の精神から得られた知見は、内在的な心情を基盤としているので、必ずしも万人共通というわけにはいきません。もちろん、人類は共通の心情を多く持ち合わせていますから、共有できる部分も少なくないことは確かですが、幾何学の精神のように万人に適応可というわけには行かないでしょう。 その結果、幾何学の精神は絶対の概念に結びつきますが、繊細の精神は民族や文化の中での心情をベースにせざるを得ないので、どうしても相対的な知見になりやすいと思います。すなわち、幾何学の精神は文明や帝国を生み出す原動力となり、繊細の精神は個々の文化を豊かにする原動力になるのだと思います。 「神の国」は日本の繊細な精神が生み出したものであり、文化を越えた文明にはなれなかった。「キリスト教」は本来は繊細な精神の産物だったのが、ギリシャの幾何学の精神を注入することで、文明や帝国を支える基盤になり得たのだと思います。 パスカルに限らず、人類である以上、《心の内側》が問題になるのは当然のことですが、要は、幾何学の精神を積極的に持とうとするかどうかにかかっていると思います。議論は、また、元に戻ってしまいますが、結局、モチベーション(動機)の問題になると思います。繊細の精神は、そのほうへあたまを向けるまでもないですが、幾何学の精神は、そのほうへ”努力して”あたまを向けなければならないのですから。 台湾人一般はよくわかりませんが、次期総統有力候補の馬英九は、幾何学の精神をかなり持ってはいると思います。 天皇は繊細の精神の産物なので、帝国のシンボルにはなり得ないと思います。実際、太平洋戦争で敗北してしまいました。

noname#80116
質問者

お礼

何も申しつけくわえることがございません。 つぎは モチベーションの問題になるでしょうか。 つまり蛇足として 民族の思考や情感をめぐっての傾向の相違にかかわらず 絶対の概念は だれにでも 理解されうるという前提を確認してまいりたいと思います。 あと モチベーションとからむかどうかですが 数学での《無限》の問題があるようで 気にかかっています。(数学が苦手です)。

noname#80116
質問者

補足

みなさん この回答を参照していただきたいと存じます。

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  • konagoo
  • ベストアンサー率24% (67/276)
回答No.74

ANo.74です。 人間が知覚する時空間には、《無・空》の状態はありえません。 絶対的存在、絶対的真理は、それが《無》でも《空》でも、その状態に到達することはありません。 >その絶対の概念は この《人間が知覚する時空間》を >超えた領域として想定されるのだ  要素還元主義的な方法論の前提が絶対の概念だといわゆる《理解》しています。相対論、量子論、確率論的な方法論には絶対はありません。 いずれの方法論でも唯一絶対と言えるのは真空中を伝搬する電磁波の速度です。 想定している絶対や想像している絶対→人間が知覚、想像可能な従来の概念としての絶対の延長線上にある絶対は、絶対ではありません。光を一度も知覚したことのない人間に「赤色」のクオリアを「創造」させるのに似ています。 絶対が存在することを前提に《人間が知覚する時空間》以外へ旅立つことを提起しているのではなく、既知の領域にはない存在を求めるには、単純に未知の領域に踏み込む以外にないということでした。 《確実に絶対を捕まえる》と記載してしまいましたが、確実性は担保されませんね。失礼しました。

noname#80116
質問者

お礼

ていねいに述べていただきました。 まづわたしの定義は ANo.36のお礼欄を参照していただけますか。まとまった形で述べておりますので 違いがお分かりになると思うのですが。 あるいは ちょっとした応用編としてでしたら 引用文ですが Ano.10のお礼欄を覗いてみてください。 というように述べてきましたが それにはわけがあって ANo.57のお礼欄にも《数学が苦手です》と告白しましたように 自然科学はあまりよくは分かりません。と白状いたします。 ですから 故意に 冒険をして触れさせていただくなら 一点 こういうふうに捉えている事柄がありました。 《いずれの方法論でも唯一絶対と言えるのは真空中を伝搬する電磁波の速度です。》――この意味は けっきょく 《電磁波の速度》を絶対とする想定が あくまでも仮りの想定だということだと思うのですが それでいいでしょうか。 もしそれでよいようでしたら やはり その仮りの想定をさらに超えたところに――ということは あらゆる経験世界をすべて超えたところに―― 絶対を想定するのだと思うのですが それでいいでしょうか。(おしえを乞うかたちで 申し訳ないですが)。 もしここまでが よろしいということでしたら konagooさんとの間に 定義上の相違はないと思うのですが。そして わづかに その絶対を呼ぶ呼び名は 互いに別であるのだと。有神に対して 無神あるいは無あるいは空あるいはゼロなどなどであると。 いづれも 超経験・超自然であり 《〈人間が知覚する時空間〉を超えた領域》だと思います。 ちなみに この神もしくは無神の領域に対して わたしたち人間は 何かの拍子に ふと 触れた(触れられた)と感じるときが あるという場合があるかも知れません。 ――これは おっしゃるとおり けっきょく主観の問題です。そしてこのむしろ まぼろしとも言うべき知覚の想いが生じることはありうるとも わたしの側では言っています。《知覚を超えている時空間――超・時空間――に対して知覚があった》といういわゆる神秘体験です。(そして 論証し得ないことは はじめから 決まっています)。 わたくしがお応えできるのは こういった範囲でのことがらになります。

noname#80116
質問者

補足

この欄をお借りします。 アダムとエワは 禁断の木の実を食べたあと いちじくの葉で腰を覆わなければならなかったのは なぜか。 善悪を知る木 / 知恵の木ですので 一般に《自我》の問題であるということでいいと思うのですが。 採集生活は ほとんど生産という行為を人間みづからがしておりません。農耕になって それとして 労働行為として 生産が始まります。そして その前に 狩猟・漁労でも 採集生活よりは 人間のはたらきが 現われています。 土地を耕すともなれば 生産物という観点からは 人間がはたらいた分 あるいはそして 自分がはたらいた分といった見方が出てくるものと思われます。とうぜん《わたし》の問題であると思われます。 ですから すでに初めから 何らかのかたちで《わたし》はあったのでしょうが 生活上のおこないや しごとと関連して それは 出てきたように思われます。 だとすれば 自然の恵みの部分も然ることながら 人間が手を加えた部分についてその認識と意識が芽生え さらには 誰が手を加えたかも意識にのぼらせるようになったでしょう。 こうなれば 自我の問題は現われて来ます。共同生活の中で 協働作業の中で わたしの仕事・わたしの仕事の成果という考えが 現われます。やがては 分配あるいは配分の問題が起こります。共同自治という問題が それとして はっきりと課題となります。課題となりつづけます。 それと同じように 性行為も はじめは 人と人 言ってみれば 人格の全体と人格の全体との交わりの中に行なわれていた。そしてつまりは そのときにも それとして 本能のごとくの欲求(したがってそれとしての意志)もあったと思われます。 ここへ 《わたし》が現われました。両性の人格どうしの交わりにおいて 性行為が行なわれるかたちから 相手とは いくらかでも 分けられたそれぞれわたしがおこなうかたちへ たとえば 移ってしまった。あるいは さらには ふたりの人生の交わりであるかたちから 性行為そのものとしての交わりに意識が細分化された。 あるいは もっと露骨に 性行為じたいへの意識と欲求――というより欲望――によってというかたちも 現われた。 この段階では すでに 禁断の木の実を食べてしまっていると考えられます。自我が生じてきていると。このわたしの単独分立のような出来事について アダムらは 恥づかしいと思ったのだと思われます。ゆえに 腰に葉をあてて覆った。 葉っぱで覆う前と後とは 性欲の生じる前と後とという見方と少しちがうかなと思い ここにつづっておこうと思いました。

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  • konagoo
  • ベストアンサー率24% (67/276)
回答No.73

確かに絶対を理解できません。日本人であることがその原因であるか否かは知り得ません。 絶対が存在すると、原理的に物質も、空間も、時間も固定され消滅を余儀なくされます。存在は不完全であるからこそ継続して存在しているのであって完全=絶対は人間が知覚する時空間に存在し得ないと言わざるを得ないでしょう。 >できないとすれば なぜでしょうか。  絶対は、存在しないからです。 >どうすれば よいとお考えになるでしょう。  絶対が存在しないのは人間が知覚する時空間でのことですので、確実に絶対を捕まえるにはこの知覚の枠を拡張する旅に出る以外に方法はありません。残念ながら今回分のチケットは完売しました。次回発売はこちらから直接感覚中枢へ連絡します。

noname#80116
質問者

お礼

わたしの言葉では 絶対の概念を 《無・空》であると表現する立ち場だと理解しました。 ただし 《絶対が存在しないのは人間が知覚する時空間でのことですので》 その絶対の概念は この《人間が知覚する時空間》を超えた領域として想定されるのだと思いますが。 ありがとうございました。

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回答No.72

≪言葉よりも実践である。言論は大切である≫仰せの通りと存じます。我ら凡人は言葉でなければとても理解はできないことは確かですね。伝え合った、理解した、認識したつもりにしてくれるのですね。本当はその前と後にはことば以外のものが機能していても。貴兄のことばの情感の共同性というのもことばが主役のようですが、人間の顕在的、昼間のことばは外形の動きをみせているのだなぁと感じるようなこともたくさんありますね。  ≪戦争行為≫第二次大戦のときおいくつであられましたか。大空襲を、それを逃げ惑うことを、生き残った家族が不明の家族を焼け跡から探し、お遺骸を担いだり、リヤカーに何体も乗せ、飲食も出来ずに、灰と汗でまみれながら、白髭橋(お江戸と向こうを仕切る、江戸びとの大川、隅田川)を渡り、されに荒川にで、下流の長い長い堀切橋、綾瀬川を渡り、そこから更に、歩き歩き、将軍のお狩場一体、名に遺す白鳥近くの焼き場に運び、何時間も何時間も待つ。顔も体もすすだらけ。みんなが通った後は、お遺骸からの油の後が焼き場まで、何時までも残っている。夜明け前の空襲で焼夷弾が着物にくっついて取れなくて、孫を胸に座り込み、燃えていった、精進揚げやのおばぁさん。見ていても何もできないのですよ。高齢(高齢で父母は私達を儲けた)の父の背中の此身は小二。焼夷弾が明るく、それを避けてやけていく防空壕から、やはり川のほうにはいきました。そんなことを貴兄は想像もできないでしょう。これはことばではないのです。釈迦を囲んで、教えを聞く喜びでお弟子達のお顔は輝いていた。質問に釈尊は黙っていたが、蓮の花をちょいと曲げた。ある菩薩には伝わり、にっこりされた。釈尊は微笑まれた。釈尊はことばでは伝えられなくて。印度のかた、特に印度哲学の方々くらい語彙が豊富で、人の気持ちへの雄弁な人はいません。Gandhiの演説にいくという上流の夫人に、身につけている全ての貴金属を、宝石をおいていくようにと、夫がいう。マハトマの抵抗できないお話に、いつも宝石が山になるのです。心からの言葉は強いですね。同じ意味同じ言葉も、口にする人次第でがらりとかわりますね。わたしたちは只、自分のできる義務を、それぞれにおいてやっていくことをお互いに心がけたいと存じております。  ≪口説の徒≫という人たちの影響が大きいこともありましょうが、ほんとうにむずかしい問題ですね。  ≪キリストの再来・・・≫此身のことば表現とは違いますが、此身も更にこれからも、意識の静かさ、冷静さ、透き通りを心がけていきます。基督は最も純粋な本源を現しておられるのですから、自分の本源、基督、に習って、見失うことのないようにいきましょう。  ≪ある程度のあらましをお訊きしておきたいと思いません?≫貴兄と同じにそのように思います。  ≪人間が遊ぶなどと≫人間に遊びはだいじですよね。ちゃんと遊べることが必要だといつも自分を反省だけはしているのですが。遊びで幅と余裕とか、いろんな意味もありますね。徒然でしたね、歩くのに足底の幅だけあれば、云々と。  ≪修行者を前にした≫此身のことさすのであれば、どうかご容赦ください。恥ずかしいです。  ≪《あやまつならば我れ有り》≫思うということは、存在からずうっとあと、働きや行動ですから、低次元の話で、存在の根拠にも、現象している証拠にもなりえませんね。《あやまつならば我れ有り》これも人間的で、ご苦労を同感できますね。事実なのですから。だけど事の本質ということには関係ないと存じますが。同情は是認ならず、は湖人の述懐でもありました。《あやまつならば我れ有り》を神の無垢を修飾せざるを得なく、いる自分。という意味だと、そこに自分を確認できている、という意味だと、もっとわかってきます。修飾しないで、そのままでいる自分が、実はもっとも気持ちよく、本当の自分だと思います。それを無心のときだけではなく、いつもそうしたいです。そうなることが求められていると思います。自分にも。《あやまつならば我れ有り》で永遠に安住は許されないですよね。≪言葉より実践≫というお言葉に対する思いは、前の方にありますので。でも思想や思考、勉強だけではなく、向上にはやはり、何かをすることは大事です。ちゃんと導く古来の伝えは有効と存じます。此身の経験から、あのURLへのアクセスはお勧めします。長すぎてすみません。再編集もしてません。ごめんなさい。

noname#80116
質問者

お礼

隅田川が火で燃え 橋の上にも下にも人がたくさん燃えている といった戦争体験を NHKで見たことがあります。どなたでしたか 誰がということは忘れるのでしょうか あるいは わたしのわるいくせでしょうか 絵に画いて教えてくれていました。 父も内地で――重砲連隊とか言っていましたが 二等兵でしたが――訓練しつづけるままで終わりましたので 体験は乏しいのです。(町全体が終戦直前に空襲に遭って 家並みはすっかり消えたというその中の家としての体験はあるようです)。 弁解は見苦しいのですが むしろ自慢をこめてつづります。 上にも述べたかたちになりましたように わたしは翌年九月の生まれです。あなたさまが あまりにも礼儀正しく 冗談の入りこむ隙間がないようなので 最高最大限に生意気になりました。  今回も たとえば《恥ずかしい》という言葉がありましたが それを聞くと こちらがその倍は恥づかしくなります。いえいえ こちらこそ・・・と応対すれば その繰り返しが際限無くつづいてしまいます。 恥ずかしさといったこころは ことばではなく 情感の共同性において 互いに分かち合い 堂々と 言論の場にも――言論としての場にも――出て来てくださいませ。 これ以上の生意気は わたしにももう無理ですので その意味では 引き下がります。

noname#80116
質問者

補足

《貴兄のことばの情感の共同性というのもことばが主役のようですが・・・》――《ことばが主役》というよりは 《心の内側 / 生きた生活 / つまり 人びとが 日常生活において むしろ言葉を用いないでも 共存しており 判断力を 必要な程度において 共有している情況》を言います。 気にかかっていましたので。

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回答No.71

≪無神論か有神論≫神と創造の客体が同じなのでありますから、無神論も有神論も存立も問題もありませんでして、これが何で問題なのかから、もう言葉を理解することの枠からはみ出してしまっています。十分創造者に尊崇してはいないのに、勝手に生きてい気でいるのに、論として立てられると、遠い世界のことになります。答えることへと、頭脳が拒否しています。空白になります。  ≪エゴを敵として殺すということは≫これが自力ではできません。それほど人は神から別の存在になっていません。何一つも。裏表。自力は他力。相互に前提しあっています。  ≪矢≫自分が選択を誤り、或はしないで逃げると、生きてきた自分は、継続しません。当たり前です。それを拾いなおすことは、百円玉を拾うのとは違います。最初からもやり直せません。クライストのくらはクリシュナのくらですが、似ているうまやどの聖徳太子と同一という論をたてる人がいますが、三人とも違います。くりとくらは普遍という意味で、後人が奉ったものです。彼らは自分をそうよんでいません。マハトマと同じです。クライストは逃げなかった。自己の繋続ができた。これも最大の教えなのです。イエスあの生涯での個人名です。人はみなこの試練に出会い、どう対するかが大きな事件となっていますね。今まで自分の、神への回答としていきてきた自分の当為を変節、止める。これで飛んでいる事は終わりました。地面に落ちて、それを拾いなおす、間もなく、腐ります。跡形もなく。これが意識です。なぜこんなことを縷々お話しなければならぬか。共にそんな悲哀を語り合えたら、元気も沸くだろうに。アウグスティヌスは不勉強です。触れていけないものを何かいいましたか。似姿という在り方が住むのですから、この世は当然手紙といおうが、なんといおうが、全てのことは語られていると存じます。その意味ではタブーはないと喜んでいます。受け売りを恰も自分のことのようにいうのは誰でも控えるべきですから、その意味で此身には限界があります。おなじことば同じ意味。しかしそれは、違うものなのです。やはり介在なく、自分で基礎を持って、ご確認下さい。それが紹介のURLです。同じ受け売りでも、知識の受け売りではないので、此身の貴兄との役目はそろそろかなと存じます。原点からの意味することがおかしいとかであれば、いつでもご参考のお話としては可能ですが。もっと先達さんもおられますし。失礼しました。

noname#80116
質問者

お礼

キリストの再来 それは 一人ひとりが 自己の中に 霊のやどりを受け取って キリスト・イエスに似る者になる・・・という紹介の記事を読みました。それなら わたしも 《 On est un christ. ( Everyone is a christ. ) 》という標語を掲げていますので まったく同じだと思いましたが いままでの経過からいくと どこか そこは違うと指摘されるように感じられ おそれられるのです。 中なんとかさんと出すと 嫌っておられる様子ですし ブッディスムのことは 出すにしても 気をつけてしなければならないと思ってしまいます。 はっきり振り返ることが出来ます。事の発端は 遊びです。 《遊びは神にのみありえます。》 ――これは《神の、聖なる遊びはのことです。》 ――では 人間の遊びは? ――それは 《エゴの遊びだから 克服すべきものである》というのか それとも わたしのように 《エゴを含めて エゴのまま(と言っても エゴを貪れという意味ではありませんが) 絶対者のもとに いわば遊ばせてもらうこともある》と言っていく立ち場かだと思います。 たとえば 《エゴがいる限りは、自分はありえないというのが、結論です。この結論は議論の対象にする必要を認めておりません。》とおっしゃるのを聞くと こちらは ほんの少しですが 萎縮しがちになります。この先 どのように話をすすめていっていいものか などです。 こういうことを思ってみてください。相手の方が 修行を積んでおられると聞けば そのご努力は 何もしていない者からみれば わからないわけで どの程度 理論的な議論をそれに絡ませていけばよいものやら そして どのように絡むかも 実は 分からないわけで そういう点について ある程度のあらましをお訊きしておきたいと思いません? エゴを肯定しては いけないのだろうとか 人間が遊ぶなどと言ってはいけないんだなぁとかのおそれです。 でも ここで 《タブーはない》とおっしゃっていただいたのですが・・・。 わたしの気持ち と言いますか 修行者を前にした一般人の気持ちを お分かりにならないのかも分かりません。 あるいは わたしは 《あやまつならば我れ有り》は 例のコギトよりも深い存在観だと思っていますが これに対しても 言葉より実践だと一喝されそうに感じるといったことです。いかがでしょう。

noname#80116
質問者

補足

こういうふうにも考えてみました。 言葉よりも実践である。言論は大切である しかもその上に 人間力のほうが大事である。その生活実態である。そしてその社会としての情感の共同性 これも 大切である。 たとえば戦争行為が愚かだとするならば それを避けるためには 基本的に あとのほうの事柄とその力から順番に 大切なものだと考えられる。 その上で 言論がここでは 手段として決まっています。極端な話としては 口説の徒が 口先だけで 言論に勝ったとしたばあい それでも 一時的には それが 決まってしまいます。そういう人たちは 口先だけの討論に命をかけています。 どうすべきでしょう?

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回答No.70

≪エゴは否定すべきものであるか。言いかえると 否定しようと努めるものか。自分の力で制御しうるものか。≫ ギータでは、シャンタヌとガンガ の八番目の子でしたね。子というのは天界の法則、当為、原理のことです。七番目まではGangaが溺死させて、天界に返しました。八番目のビッシューマはシャンタヌの願いで、ガンガは生かしていましたが、自らはその出てきたガンガに投じました。このビッシューマが宇宙の原理のエゴの象徴として残り続け、大父祖として尊崇されていきますが、最後に衾の中で死にます。天界にいくのですね。これも象徴の話ですね。この象徴の話は密教になりますので、省略します。結論はエゴはここで自ら死ぬのです。自己の持つエゴは真正面の敵です。自己自身の。として殺すことになるわけです。偽の魂、貴兄の似姿の偽者だということなのです。    ≪わたしたちは エゴを自分できちんと管理し その意味で立派な人格を築き この意味での人格を売り物として世に出るというのではないと思っています。≫  エゴがいる限りは、自分はありえないというのが、結論です。この結論は議論の対象にする必要を認めておりません。世に出ようが出まいが、立派かどうかは、問題にならないことです。   ≪別の視点では たとえば 《キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです》(ガラテヤ書5:24) と聞いていますが こんなことは いつまで経っても実現しません。(わたしだけかも)。なにもかにも悪いところ全部引っくるめて連れて行ってもらうだけです。 (その意味での《死》としては この文句に合っていると思いますし≫ 宗教をいうのに、自力とか他力とかいう場合がありますが、自力の無い他力も他力の無い自力も全くありませんね。自分であり普遍内在のかたでしょう。聖書の意味をお話できないのですが、どの自分を大事にするか、スクリーンにうごめく自分か、映写室や客席にいる似姿なる魂としての自分か。ということと存じます。  ≪ よくは知りませんが 武士道の精神とも同じであるかも分かりません)。≫ 宇宙の季節をユガという、今はドワパラ・ユガというもので、価値関係的に、武士としていきていく宇宙になっているそうですが、武士道もギータのアルジュナも武士です。その下の母違いの双子の弟達も医術と武術の神です。アルジュナがこの世界での自己生活の場所です。機能です。そのためには自己としての死に所を絶対に逃せられない。逃しては自己喪失になる。そういうご経験はございませんか。それが鍋島とギータの共通で、一方は主君に使える幕藩封建の中間武士ですが、アルジュナも中間の武士、香りの壁、媒介者なのですね。常朝も理屈はない。それは度外視。といっています。自己喪失の不名誉は死よりもつらい。そういう過去経験は貴兄にない、ちゃんと生きてこられているのですか。そういう人は此身には無関係です。此身は凡人凡俗しか同情できません。ジーザス・クライストのような使命の人は別ですが。しかしこの神であり人である方が迷いと苦悩の言葉を何度かご発しておられまして、さすがにお手本になります。西洋人の編集・記述は本質をうすらぼんやりにしておりますが。大きい価値、つまらない価値という判断は、神(絶対)のスケールでは無用のことでいいと存じます。主君のためでいいではないですか。何で壮大な存在論や、認識論の理論体系がひつようですか。そういう巡り会わせが、必要ですか。一羽雀が落ちる。この意味を知ったのは、一羽の雀が落ちたのをみて、知りました。雀は生きている間、枝から落ちる手の気のではありません。落ちた時に死んだのです。この事実に直面してその壮観と悲壮に驚愕しました。我が家の草むらの根元に、地面に口を突っ込み、頭ごと。まったくなんだかわららない。しかもよく見るとやはり雀である。ちょいといるようでもう死んでいる。凄いです。全身が総毛です。どうして何の理由もなく、雀のように死ぬこと、人知れず花咲き、人知れず終わっていく深山幽谷の樹木、花々であっていいではないですか。これが常朝の到達ですね。ギータと全く変わらない。主君が立派かどうかではない。自分がどうそこで全うするか。自己で在りうるか。理念としての武士はそういうものでしょう。それを兎や角していたら、後で悔やんでも晩い。一旦地面に落ちた、飛ぶ矢は腐るしかない。腐った自分を地面からもう一度、掬いだし、形を作って、意識を繋げることの、どんなにたいへんか貴兄は経験が無いというのですか。その間の死よりもつらい自分というものを経験されていないのですか。肥前の山本さんがいうこととギータのいうこととは全く一致しています。これが死ぬことと見つけたり。その時に自分を己の運命に投ずるということです。これを最大の名誉としているのがアルジュナでありクリシュナであり、常朝です。極くあたりまえでしょう。アルジュナは腰骨とされいますが、臍下丹田の裏に根を位置し、仙骨や尾骶骨とは区別しなければなりません。母が違うのはこのことです。そして下丹田に対応して上丹田がありますが、女性の機能は下丹田より上丹田です。この話は此処までとします。   ≪あと一点は ブッディスムですとか 触れていいものと いけないものとがあるのですか。≫Buddhiはシャンタヌから順次降りてきている意識の位置過程です。マナスに対応していまして、日本語でいうと純粋理性、カントのではないですよ。ということで、究極的な価値への判断をする機能、原理、意識とされています。それをいうのがイズムであり、仏教でしょう。このような断片的な、しかも結論だけを文字で並べても、貴兄なりの摂り方しかできないとぞんじます。つまり知的な、言葉の器に取り込むだけです。虚しいと存じます。強いて宣伝することは私達の本意ではなく、きっかけを大事にするのですが、此処まできた以上は、此身自身の種元を明かすほうがフェアだと思いますので、下に記入します。どうご活用されるかはお任せします。またここで此身の情報源である、ギータもだしていますし、ここでごけんきゅうされてもいい、レッスンもあります。ここはどんな宗教の人(現実にたくさんの宗教の方)も勉強して、活用か利用かしてます。此身自身は、実は中国や日本の思想を勉強してきてはいました、60年代に、あることからこれを勉強してきました。進歩はあまり無いが。アクセスしてもどっちでもいいが、ここでの勉強の受け売りだったことを付記して終わります。

参考URL:
http://www.yogananda-srf.org/
noname#80116
質問者

お礼

わかりました。字面のほかの中味は分かっていないと思いますが 感覚として とても そばには近寄れないほどのことを想定されているようだということが。 どこに不明な点があるか――聞かれないと思いますが―― 記しておきます。 (1)自力と他力は どちらが根本かで どちらか一つになるとしか考えられません。(つまり 絶対とのかかわりで 無神論か有神論かです。無神という絶対者は 自己と《絶対的な矛盾の内に同一である》〔でしたか〕の表現を用いると思います)。 (2)エゴを敵として殺すということは 自力説のように わたしには 捉えられます。(ですから その説として お話をされることに何も問題はないのですが)。 (3)《一旦地面に落ちた、飛ぶ矢は腐るしかない。腐った自分を地面からもう一度、掬いだし、形を作って、意識を繋げることの、どんなにたいへんか貴兄は経験が無いというのですか。その間の・死よりもつらい自分というものを経験されていないのですか。》――重要なところなので おそらく表面的なものしか見えていないと思いますが それでも分からない点を記すならば: ・《飛ぶ矢》は 自分ではなく 生活としての自己表現 あるいは 言葉による表現のこととして わたしなら 使います。 ・再度になりますが 地に落ちる / 腐る / 自己喪失などの点にかんしては 《あやまつならば(もしくは 欺かれるならば)我れ有り》とします。これは 太い幹です。 (4)この世のすべて 人類史のあらゆるものごと そして文献 これが 絶対者の書く手紙でありうると想定しています。(反面教師ももちろんあるわけですが)。 ですから 触れてはいけない何かがあるという考え〔でしたら〕は よほど窮屈に思われます。 *わたしは アウグスティヌスの請け売りです。多少は オリジナルの部分もありますが。

noname#80116
質問者

補足

再々度 失礼を省みず 補わせていただきます。(070613matin) 飛んだけれど 地に落ちた矢としての自分という想定で 考えてみます。この矢が腐るという事態です。 《まちがったならば わたしは 有る( Si fallor, sum. / If I err, I am. )》というのは そこで《わたしが わたしに還帰する》ことです。そこで確認した《わたし》は 腐っていなかったのです。 腐った意識を 元の意識と繋げるというのとも 微妙にちがうように感じます。そもそも 元から どうしようもなく《腐り得ない〈わたし〉》=《絶対者の似像 / 絶対者の霊を分有する存在》がいたという意味です。 たましい あるいは こころ と言ってもいいでしょうが 単なる精神ではありません。精神と身体とから成るわたしの 超経験とのつながり部分です。(一般に言われる精神は 神ではないという意味です)。 跪き 這いつくばるわたしを――いやいや すでに仰向けに倒れてしまっているわたしを―― 風のひと吹きのごとくして せせらぎの流れの耳に達したかのごとくして 静やかに 起こし 立たせたのは 一瞬にしての出来事です。 そこで エゴが消えたとか 克服できたとか いうのではないと思います。エゴのまま 掬い起こされたのだと思います。 また このようなわたしの自己還帰は とうぜん 無神論の人にも起こると捉えます。 このようなわたしを考える ゆえに 我れ有りならば コギトも同じ主旨です。でも 考える経験行為としての努力で 自己到来するという場合は 稀であるように推し測られます。 すこしでも補いになればさいわいです。

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noname#96295
noname#96295
回答No.69

6、58です。 > 遅い  とは甘えからの可愛いお言葉と受け止めておきます。 自己の基準を<絶対>基準とするところにも、新妻や子供や動物においては命がけなだけに弱さがあり愛らしさがあるものです。 > (挑発に)私が乗ったのです(59) というのはどういう意味でしょうか? 6では、「公理系」という単語と「幾何学」という単語を広辞苑か何かで調べれば理解できるようなことしか申し上げていません。3~4冊調べればわかってくるでしょう。 私は仕事の合間にこんなところで気分転換している身ですから、自分で調べられることは自分で調べろ、と考えています。絶対の概念の不可能性を、たったこの二つの単語はそれぞれ持っています。 還暦を迎えられた方だったと記憶しておりますが、 学問は絶対の概念を持った瞬間に必ず死にます。 物理も、化学も、数学も、地学も、生物学も、高校の先生くらいの研究ができていれば、「絶対」が不可能な概念であることは知っているものです。 人間の体の健康にも絶対基準はなく、精神のありようにも絶対基準がない。 絶対とは、まちがいなく、命がけの弱い存在である自我が他者を利用するときに起こる概念なのです。

noname#80116
質問者

お礼

《神のほうへにじり寄る軌跡が、人間の一所懸命のすべてなわけです。 舞いも、数学も、同じですね。 軌跡に、過程に、神を見出すことは出来る。何通りでも、できる。》 《・・・「絶対」〔は〕不可能な概念である・・・。 絶対とは、まちがいなく、命がけの弱い存在である自我が他者を利用するときに起こる概念なのです。》

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回答No.68

 此身が勉強している、部門でも境界や、媒介者というのはもの凄く重要です。香りの役は正にそういう働きの効果なのでしょうが、此身たちがそれで判ったと思えるのには、宇宙と人のプロセスと構造の位置の中で、何の境界で何の媒介かなということです。此身たちの勉強していることには、幾つかの繋続地があり、その各々に境界と媒体者というものがはたらきますもので、どうなのかな、と自分のうちに問いかけています。つまりコリントのことです。  ≪遊び≫ということで、問い詰められると、実は此身も、受け売りでして。≪利益や効益≫を期待していない、≪行為≫なのではないか。窮極価値・理念者、その具現者(溶け込み者)には、当為自体であっても、何とかのためというものはまったくありませんでしょうし、必要もない。三界(仏教ではさんがいだそうですが、その三界とうは異なる意味)という創造界を創造していても、その目的や意図は、どんな聖者も聖典も説明しておりません。先達さんたちも、それはわからないものといっています。グルならざるGuruはこれを称して遊びという表現を、ある文章でしているのを読んだことがあります。≪あるヨギの自叙伝≫。最高価値の上には最高価値はないからでしょう。多くの方々には、概念と文字でしかないでしょうから、最高価値を最高価値として受け入れることは、やはり、最高価値の場でないところでいじくりまわすだけでしょう。三重なる創造界のどこかできめつけよう、把握しよう、取り込んであげようとしても、やはり溶け込みしか方法がありません。できないのです。なるしかないのです。なるという意志はこれも無理です。無力です。その意志が根っこして、働いている本体がどこかです。そして窮極から来ているものとして、究極に戻っても、窮極の遊びの意味はそのものであるということしかないと存じます。そして誤解をされても仕方ないが、全ては神の遊び、造映。夢である、ということだそうです。これ以上の追加の言葉はなくて、此身はそれで、そうなのか、と納得して、日日自分でいっています。真に困ったことですが、神や聖典がここでなんかいっていれば、亦更に問題が重なってきて、その先となるでしょう。実際としてその窮極になることだそうです。これは理屈がないし、イエスの前にも、その後、どんなに科学や、人智が探ってもないということです。遊びとは結局神の夢。それ以上にはありません。これは壁たる香りになるでしょうか。門たる香りになるでしょうか。壁も門もないのです。知ったかぶりですが、これ以上どんな下剤を掛けても何もありません。55年も前、≪高踏的な哲学者でなく、民衆の市井の哲学者になるんだ、≫という友人に、子どもが出来、≪ゆううんとつけたよ。≫というんです。≪悠々のゆうか≫と聞いたら、≪遊びの雲さ≫です。そして琴の里、ことりちゃんです。どちらも返すことばがありませんでした。どんなことも、遊びでできるようになりたいなぁと今も存じております。これで何とか単位をいただけないでしょうか?“C”か“可”でいいから。いくら校正しても、こんなわかりきった答えしか書けませんので。この辺で答案を受け取ってください。

noname#80116
質問者

お礼

最後のところで思わず笑ってしまいましたが なおはっきりしないのは 次の二点です。 エゴは否定すべきものであるか。言いかえると 否定しようと努めるものか。自分の力で制御しうるものか。 わたしたちは エゴを自分できちんと管理し その意味で立派な人格を築き この意味での人格を売り物として世に出るというのではないと思っています。 別の視点では たとえば 《キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです》(ガラテヤ書5:24) と聞いていますが こんなことは いつまで経っても実現しません。(わたしだけかも)。なにもかにも悪いところ全部引っくるめて連れて行ってもらうだけです。 (その意味での《死》としては この文句に合っていると思いますし よくは知りませんが 武士道の精神とも同じであるかも分かりません)。 あと一点は ブッディスムですとか 触れていいものと いけないものとがあるのですか。

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回答No.67

ご教示のコリントを最初から読んでいますが。貴兄にはこの香りというものはアンダーラインをいくら強調してもいいくらいなのですね。そういうことでまた、午後に勉強してみます。実は判らないのです。そして判ったような気もしているのです。聖典というものの特徴ですね。  理念の狡知というフレーズは、感激していましたが、歴史自体にもう理念性があって、そこに狡知が内在、働くのかしら。変化や変遷でなく歴史ということばにはそういう意味合いがあるようですが。ご質問の絶対と関連はあるが、少しくずれてしまい、申しわけありません。

noname#80116
質問者

お礼

《遊び》問題を明らかにしていただけますか。 《引き下がります》とは そういう意味です。 江川とか桑田とか ああいう人の行き方は嫌いです。過ちを犯したからではなく その後の対応です。実力があればいいとは言わせたくありません。(執念深いですね わたしは)。 羊の門は きちんとしたいと存じます。 《申し訳ありません》は あまり多用なさらないのがよいと思います。相手のほうが恐縮します。 コリントも冷や汗ものですが 書いたものは書いたものですので この脆弱さのまま進みます。もし途中で倒れたら krya1998さんにバトンタッチいたします。 

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  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.66

答えたくないけど また答える。 自己嫌悪の馬鹿です。 ばかばかばかと 自分で自分の頭をたたいているのです。 と ここまで解説しなければならない通りの悪さ。 気が詰る 気が滅入る おもい。。。。

noname#80116
質問者

お礼

なあんだ。 ただし 誤解も ひとつの歴史である。 《agrippa》って 武将だったんですね。皇妃かだれかだと思っていた。 brageloneは ダルタニャンの親友のアトスの息子の名ですけど。(物語はもうあまり覚えていないけれど。ほんとは bragelonneがただしい綴り)。

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  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.65

君の意識のありようは ストーカーっぽい。 幾何学的精神の言わんとするところ その特徴は まさかそれが私の使命です なんていわないでね 馬鹿だから話もしたくないけど答えています ばかばかばか

noname#80116
質問者

お礼

おはよう。 無関心は 死です。 愛の反対は 憎悪ではなく 無関心です。 愛情と憎悪(虫唾の走る嫌悪感を含めよ)とを合わせて 愛につながります。 莫迦呼ばわりされて ひとつの里程標を得たことになります。その意味では ありがとう。キリギリスが二十歳。 わたしの使命を勝手に決めなさんな。

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    私は、セフレや混浴など初対面の人もしくはその日に会った人などに裸を見せたり、性行為をする事が理解できません。 私は、女性であれ裸を他人に見られる事が苦手なのもあり、男性に見られるのはもっと苦手です。 そして、裸や性行為と言うのは、彼氏や旦那さんなど信頼できるからこそ自分の本当の姿である裸を見せれたり、行為ができると思っています。 なので、セフレがある方混浴に行く方がいると毎回理解に苦しみます。 私の彼氏さんは、付き合う前混浴に行くし、セフレもいたし、混浴で出会った子と一緒に寝たりワンナイトした事もある人です。なので、そう言う話を聞くと毎回理解できなくて嫌です。 彼氏さんにも、私の考えが異常と言われます。世の中こういうひとばかりで、私のような考えの人は少ないらしいです。 そうなんでしょうか。不安で理解したくてもできなくて辛いです。

このQ&Aのポイント
  • インクジェットプリンター複合機の子機で迷惑電話を受けた場合の対処法と、ナンバーディスプレイの有無について教えてください。
  • macでインクジェットプリンター複合機を使用している場合、無線LAN接続で子機の迷惑電話に困っています。対処法と、ナンバーディスプレイの可能性について教えてください。
  • インクジェットプリンター複合機の子機での迷惑電話について、対処方法とナンバーディスプレイの有無について教えてください。macを使用しており、無線LAN接続しています。
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