• ベストアンサー

《絶対》の概念を日本人は理解していないのですか。

なかなか理解できないのでしょうか。そんなことはないでしょうか。 できないとすれば なぜでしょうか。どうすれば よいとお考えになるでしょう。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • kobarero
  • ベストアンサー率29% (106/361)
回答No.56

幾何学の精神は外在的であり、繊細の精神は内在的と言えると思います。幾何学の精神から得られた原理は外在的ですから、それは、万人に適応可能ですが、繊細の精神から得られた知見は、内在的な心情を基盤としているので、必ずしも万人共通というわけにはいきません。もちろん、人類は共通の心情を多く持ち合わせていますから、共有できる部分も少なくないことは確かですが、幾何学の精神のように万人に適応可というわけには行かないでしょう。 その結果、幾何学の精神は絶対の概念に結びつきますが、繊細の精神は民族や文化の中での心情をベースにせざるを得ないので、どうしても相対的な知見になりやすいと思います。すなわち、幾何学の精神は文明や帝国を生み出す原動力となり、繊細の精神は個々の文化を豊かにする原動力になるのだと思います。 「神の国」は日本の繊細な精神が生み出したものであり、文化を越えた文明にはなれなかった。「キリスト教」は本来は繊細な精神の産物だったのが、ギリシャの幾何学の精神を注入することで、文明や帝国を支える基盤になり得たのだと思います。 パスカルに限らず、人類である以上、《心の内側》が問題になるのは当然のことですが、要は、幾何学の精神を積極的に持とうとするかどうかにかかっていると思います。議論は、また、元に戻ってしまいますが、結局、モチベーション(動機)の問題になると思います。繊細の精神は、そのほうへあたまを向けるまでもないですが、幾何学の精神は、そのほうへ”努力して”あたまを向けなければならないのですから。 台湾人一般はよくわかりませんが、次期総統有力候補の馬英九は、幾何学の精神をかなり持ってはいると思います。 天皇は繊細の精神の産物なので、帝国のシンボルにはなり得ないと思います。実際、太平洋戦争で敗北してしまいました。

noname#80116
質問者

お礼

何も申しつけくわえることがございません。 つぎは モチベーションの問題になるでしょうか。 つまり蛇足として 民族の思考や情感をめぐっての傾向の相違にかかわらず 絶対の概念は だれにでも 理解されうるという前提を確認してまいりたいと思います。 あと モチベーションとからむかどうかですが 数学での《無限》の問題があるようで 気にかかっています。(数学が苦手です)。

noname#80116
質問者

補足

みなさん この回答を参照していただきたいと存じます。

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その他の回答 (83)

  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.23

永遠を論ずることと 瞬間を論ずることの差はなんでしょう? 永遠を大事に思うことと 今この瞬間を大切に思うことの違いは何ですか?

noname#80116
質問者

お礼

ですから 《瞬間を論ずること》は それとして取り出しても わたしには議論がありません。すみません。哲学の徒だったら 気の利いたことが言えるのでしょうが。 《永遠を大事に思うことと 今この瞬間を大切に思うこと》――きわめてきびしくなって考えるとするならば 永遠の徒にとっては そういう問題の立て方をしません。どちらもについてもです。微妙にちがいます。 たしかに永遠の徒を自称するのですが 関心のありかは 具体的な問題を大事に思うことが その瞬間瞬間のすべてだと思います。いまこの問答のようなことをしていますが この行為がすべてです。そして分からないことは 仕方がありません。お手上げとなります。

noname#80116
質問者

補足

そもそも この質問の趣旨は 絶対と相対とを分けることを人びとはしていないようですが いったいどうなっているのでしょう です。単純です。

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  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.22

点がわからないものに 線はわからない。 まして永遠に続く線の先のことなど 解るわけない と思うけど。

noname#80116
質問者

お礼

たぶん 哲学としては そのとおりのことになると思われます。 ただ 別の観点としては 《永遠に続く線の先のこと》と《永遠》とは別なようにも捉えられます。特に 生活態度としての――それを基礎とした哲学としての――《永遠》は 点→線→無限の先というようには 捉える必要を感じないと思います。 逆から つまり常に おしまいから戻って来て 線も点も瞬間も捉えます。だから分かったかと言われれば まあ 生活態度として・そういう思想として 分かったのだと言えるでしょう。

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  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.21

時間ではなく 時 の認識を聞いています。 点としての時。

noname#80116
質問者

お礼

あぁ そうでしたか。 成案を持っていませんが こうは考えられます。 時 つまり と・きと言うなら すでに 瞬間が二個単位ほど過ぎていきます。そういう意味では 時間と同じなのでは? たぶん そういう見方もできるのではないでしょうか。というのは 点としての時を取り出すとすれば すでに 哲学の問題になっているように感じられます。つまり たしかに 認識の問題です。 瞬間論ということになるのでしょうか。うぅーん。どうでしょう。この主題だけを考えても 何も出て来ないようですが。

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  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.20

こう置き換えてもいい。 生の中の一瞬一瞬に神を見出せないものが 永遠の中に神を見出せるわけがない。

noname#80116
質問者

お礼

おそらく 一つ前にお応えしたとおりの内容をおっしゃったのだと思います。失礼しました。 ただし その主観を 誰かほかの人と 共同化することは 至難のわざではないでしょうか。 ということは やっぱり吾人はすべからく 経験現実に就くべしなのでしょうか。いや わかりません。 永遠のことに関して思うことを 節制する理由はないと かの人が言っていたと記憶しますが。

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  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.19

生は一瞬一瞬の連続の中にあって その”時”に対してはどういう認識なのでしょうか。 一瞬一瞬を大切にしないものが 時間は魂を満たさないなどといえるのだろうか。 時間が魂を満たさないものが永遠が魂を満たすといえるのだろうか。

noname#80116
質問者

お礼

その問題になると 哲学は何の役にも立ちません。 主観が 事実(相対)に対して《考える》と 真理(絶対)に対して《信じる》とにおいて 扇の要のごとくはたらくことになります。要――という譬えもしっくり来ませんが――がすべてです。時間に対しても 永遠に対してもです。(あるいは 後者が前者をつつむのかも知れません)。主観の幻想・自己満足であると言われても仕方がない事態のことです。 なお信じるとは――考えるがいっさいはたらかないという状態のことですが―― 簡単には 受け容れる・義に渇いて飲みまつる・何もはたらかさないなどと表現されうる行為だと思います。 こんなことを書いても いいのでしょうか。

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noname#31866
noname#31866
回答No.18

>作者の人麻呂には神について 絶対の観念があったからではないですか 人麻呂の歌は知りませんが、神であると詠っていても、唯一絶対の神 だとは詠っていないように感じました。 この辺は信条に係わる問題なので、私のような若輩者が立ち入るのは 危険すぎる領域に感じましたので、深入りは慎みたいと思います。 >《世間虚仮 唯仏是真》は――ただしこの聖徳太子は その思想にわたしは同感しないのですが―― ぎりぎりに 絶対を見ようとする姿勢を示しています。 聖徳太子は、照見五蘊皆空 度一切苦厄 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是 是諸法空相 ・・ という仏説(釈迦の智慧)が唯一真である、と云っているように思えました。 旧約聖書による絶対神の縛りがあるキリスト教とは根本的に違うように思えます。 神のことばではないので、教条主義も生まれ難いし、思想体系として優れていても、当時の一般の人々からすれば、哲学というよりは、やはり、お経、だったのではないかと思います。 議論をする場所ではないのでこの辺に止めておきます。 お礼ありがとうございました。

noname#80116
質問者

お礼

聖徳太子については 聖書の神の絶対とは 絶対の質が違うということでしょうか。 でも 絶対と絶対とが 質のちがいを持つというのも おかしいので ブッディスムは また別の思想なのでしょうか。わかりませんが。 ありがとうございました。

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  • kanpyou
  • ベストアンサー率25% (662/2590)
回答No.17

絶対>唯一無比というような意味ですよね。 「対するものを絶つ」つまり、独立無双ということを表しているのだと思います。 ここで、「唯一無比」と「独立無双」とが同じ意味かといえば、そうではないように、『絶対』という言葉の意味が、単一のことを表しているということではないのではないでしょうか。

noname#80116
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 おそれていたことが起こりました。哲学の議論としては じつは 想定していなかったですし ほとんど やり慣れていません。 思うに 絶対といえば そもそもの初めに 他と較べることもなく 一つ二つと数えることもなく 独立しているかどうかに気遣うこともない存在として想定されていると考えるのですが・・・。どうでしょう。 ほかの達者な方の助言があればさいわいですが。

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  • hisya
  • ベストアンサー率22% (65/285)
回答No.16

《絶対》の概念の理解度は歴史上の風土によって違うと思われます。 自然環境が厳しくで闘争を繰り返えす所では、人々は《絶対》の概念をいやおうなく体得します。人間にとって生きるか死ぬかは《絶対》の事柄だからです。現在でも軍の組織は絶対服従の規律を必要とします 自然環境が易しくなんとか生きていける所では、人々は《絶対》の概念をあまり必要としません。そこで大事なのは人間との関係であり、それは《相対》的なものです。日本は豊かな自然に囲まれており、又島国であるため他からの攻撃も少なかったので、《絶対》の概念があまり発達してないのだと思います。

noname#80116
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 歴史のいきさつからして まことにそのような経過をたどってきたのでしょうね。 問題はこれからであるのでしょう。 《そこで大事なのは人間との関係であり、それは《相対》的なものです》とおっしゃるとき その事態は・つまり人間どうしの関係は とうぜんどこでも《相対》的なものであり そうであるしかありません。それを認識させるのが 絶対の概念であるはづなのですが。 また日本で 《闘争を繰り返》さなかったわけではありません。それとも 《闘争》の質がちがうでしょうか。それにしても 東北の地方では 厳しい自然が いつ頃まで続いたでしょうか。《生きるか死ぬか》の事態に遭っていたと思うのです。宮沢賢治だとか 傾向がちがっていると言うべきなのか わたしは余り詳しくないのですが。 これからが問題です。過去は過去だと思います。ですよね。

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noname#31866
noname#31866
回答No.15

日本人は頭が固いからだと思います。 哲学とか絶対神とか観念的な思考は、ほんとは苦手で出来ないのです。 出来るのは物真似だけなのです。 物真似は得意なので、クリスマスツリーの飾りつけも上手だし、ブッシュドノエルも美味しそうに作れるのです。 バレンタインも七五三もお祭り、みんな楽しそうなお祭りなので受け入れられるのです。 日本人の大半の意識は、未だにアニミズムとシャーマニズムの域を出ていないので、見たこともない神を観念で信じろとか言われてても無理なのです。上に立つ人は、よく知ってるので、本地垂迹説を持ち出して神道の古来の神々が諸仏の化身であるといって納得させたのです。 ここで日本人にとって幸いだったのが、最初に原始宗教の時代から脱却させたのが仏教であって、一神教でなかった点です。 ヨーロッパでもどこでも、まず土着の原始宗教があってキリスト教ではそれが悪魔や魔女と呼ばれて排斥されて新しい絶対神による乗っ取りが起こったのが、日本では、なあなあの内に共存できてしまった。 信仰が戦いを起こさせるのではなく、戦いの大義名分に信仰が利用されることも少なかった。 反面、日本人にとって災いだったのが、是非は抜きにしてキリスト教などのようにギリシャ哲学によって裏づけされた論理的思考能力の育成や科学の進歩、文明化、人々の観念的思惟による無知からの脱却が立ち遅れてしまった。 せいぜい仏僧による生活の知恵、生と死の捉え方の根本が確立されただけだった。 >どうすれば、よいとお考えになるでしょう。 文明は王制から立憲君主制、共和制、民主制と一足飛びには進化がなかったが、宗教的意識の進化は文明の後押しと教育とインターネットによってなんとかなるのではないかなと考えてます。 実際、絶対神への信仰を飛び越えて、新しい神の形、世界的な人類愛とか生命や非生命への愛とかに躊躇い無く移行できるのは、アニミズムに留まっていた日本人のほうではないでしょうか。 宗教のフィードバックの丁度良い地点?

noname#80116
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ おほきみは 神にしませば 天雲の いかづちの上に 廬(いほ)らせるかも 皇者 神ニ四座者 天雲之 雷之上尓 廬為流鴨 (柿本人麻呂 万葉集 巻三・235番) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《世の中の通念は 大君が神であると言っている。なるほど それゆえ 雲の上・雷の丘の上にお住まいである。そうかもね。》と詠っています。と思います。 作者の人麻呂には神について 絶対の観念があったからではないですか。《通念は 絶対と相対の世界とを混同しているようじゃな》と述べていませんか。 《頭が固いから》かも知れません。《言挙げぞ我れする》と言ったのは この人麻呂でしたし・・・。歌聖とされても 歌聖とする人びとは やはり《頭は固い》と言わねばならないでしょうか。 《世間虚仮 唯仏是真》は――ただしこの聖徳太子は その思想にわたしは同感しないのですが―― ぎりぎりに 絶対を見ようとする姿勢を示しています。うんぬん。 おっしゃっていることに反対してではないわけですが。

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  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.14

<補足要求1> brageloneさんは日本人なのでしょうか。ご自身の立場を明確にした上で話をはじめないといけません。 もし日本人ならば、《絶対》の概念を理解していないで問うていることになります。 もし日本人であり、なおかつ《絶対》の概念を理解しているという前提で語っているならば、自らをあたかも日本人ではないかのように見なして尋ねています。 もし日本人でなければ、次の補足要求がさらに多くのことを物語ります。 <補足要求2> この問いは、どのような人に答えてもらうことを欲しているのでしょうか。 おそらく日本人を相手にしているものと思われますが、日本人も大きく2つに分けうるかと思います。 ・《絶対》の概念を理解していない日本人(推測するに大多数) ・《絶対》の概念を理解している日本人(推測するに極少数、もしくはいないのではないかと疑われている) もし前者に問うたとしても、まともな答がかえってくるはずがありません。 また、後者が答えてくれる確率は低いでしょうし、もし答えてくれたとしても、brageloneさんの思っている《絶対》の概念と微妙にずれるである可能性も高いです。 下手すると、《絶対》の概念とは何かということに関して、相対的な考え方が支配しているということになりかねません。 <回答> >できないとすれば なぜでしょうか。 >どうすれば よいとお考えになるでしょう。 後半の方から答えます。 根底を覆してみます。《絶対》とは、理解しなければならないものなのか。理解しようがしまいが、どんな人も生まれて最後には死ぬ。その「よい」は生きている期間だけ有効なだけのものであり、生きている間だけしか価値のないものではないのか。よしんば生きている間だけの価値で十分だとしても、では《絶対》を理解することがよいことなのか、それとも理解しないことがよいことなのか、どうやって判定できるというのか。 そして前半に戻ります。できないとすれば、「理解しなくとも生きていくことはできる。《絶対》が生きている間だけ有効な価値を持つものであるとしても、それは必須のものではない」から、理解しようとしない。そして理解できない。 「能はざるにあらず、為さざるなり」といったところになるでしょうか。 この他にも、では非日本人は《絶対》を理解しているのかというような問題なども浮上してくるかと思いますが、あまりかき回さないことにします。

noname#80116
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 (a)質問には 社会常識として 禁忌がある。(b)禁忌とは言わないが その回答にあたっての反応などを予測した上で問うべきだ。つまり 効果が少なかったり 期待に対する(――ただしわたしは 何かを期待する・しないには かかわっていませんが――)答えが望み薄であったりすれば 問いを加減するか控えるかするべきだ。(c)《日本人はなぜ絶対を理解できないか》というふうに誤解してしまうような問い方は止しなさい。(d)要するに 理解できなくて何が悪い?・・・ こういった《補足要求》あるいは《ご回答》を寄せていただいたと理解しますが もしまちがっていましたなら ご面倒でも再度お寄せいただけますか。  もし (a~d)までの内容ではなくて 基本において 次の内容すなわち《「能はざるにあらず、為さざるなり」といったところになるでしょうか。》というのでありましたなら 能う方がたから回答をお待ちしています というお応えになります。

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    理解する必要がありますか。あるいは微積分の理解も必要でしょうか。

  • 理解できません。

    私は、セフレや混浴など初対面の人もしくはその日に会った人などに裸を見せたり、性行為をする事が理解できません。 私は、女性であれ裸を他人に見られる事が苦手なのもあり、男性に見られるのはもっと苦手です。 そして、裸や性行為と言うのは、彼氏や旦那さんなど信頼できるからこそ自分の本当の姿である裸を見せれたり、行為ができると思っています。 なので、セフレがある方混浴に行く方がいると毎回理解に苦しみます。 私の彼氏さんは、付き合う前混浴に行くし、セフレもいたし、混浴で出会った子と一緒に寝たりワンナイトした事もある人です。なので、そう言う話を聞くと毎回理解できなくて嫌です。 彼氏さんにも、私の考えが異常と言われます。世の中こういうひとばかりで、私のような考えの人は少ないらしいです。 そうなんでしょうか。不安で理解したくてもできなくて辛いです。

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  • 件名'Re: OSTとの契約の件'に関するサーバーエラーが発生しました。
  • Windows Live メールのSMTPポート587でセキュリティ設定なしの接続エラーが発生しました。
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