• ベストアンサー

《絶対》の概念を日本人は理解していないのですか。

莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)の回答

回答No.78

とても難しいお話になり90%くらいしか、直ぐにはりかいできないのですが、仰るとおりであまり食い違いはなく、ご理解くださっていてありがたいことです。要するに、私達は日本人は分かり合えている中を前提にして、生きてきており、グスタフ・フォン・ラートブルッフの悪魔にも通じたと看做して、万全のことを背景にして、ものをいっているぞ。なんてことは無用なのでした。そんな連中は、ものをいう相手としていない。これが私達でした。貴兄様は暗闇の、得体も知れない悪魔を頭に画いて生きておいででしょうか。江戸びともわたしもそんなコミュニティにはいないようです。そういうわたしなどは、平手造酒の、利根の川風袂に入れて、月に竿さす高瀬舟に感じるのです。国際的にみれば、通じない。判っている。西郷が、おいどんの命あげましょう、という時、日本次元でも、宗教次元でも絶対とか真理など考えてなくて、絶対に対面しながら、自然に自己決定しているだけです。これを国際用語の絶対ということばでの尺度を出されると、それはどこかヒマラヤの高さや、アメリカの広さでも測るときに使ってくれ。というだけで、こちらはいつも絶対の流れの中でしか、考えていない、一粒に徹しているのだ、そっちの絶対でしかこっちをみるなら、文化の質と対面しているものが、違うからね。いっしょにするなら、何か他の観念をお願いします。ということではないでしょうか。少し右翼ですが。確かに間違っていても、5.1.5や少し批判はあるが2.26の決起の将校に思いを寄せるラディカルな政党の支援者ではありますが。もちろん神道の清浄も、大事にしているのです。

noname#80116
質問者

補足

おっしゃるとおり とても難しいお話になりました。 ひとつ分かっていることは 《わたしとわたしのくにの人たちを見てくれたまえ。どのように生きているか。みんながどのようにして暮らしているか。何を思い何を考えどう生きているか。そのこころの中をじっくり見てくれたまえ》と言い そのように言っていく立ち場があるということです。 その隙を縫ってのように 一部では こういう事態もあります。別の質問のところで書いたことですが 《きみたちは 絶対を受け容れなさい。》――《いやいや 諸君こそ 絶対などというものは棄てなさい。 / あるいは―― いや そうではない。そうではなく はじめの諸君の絶対も 絶対はないという諸君も まちがっている。われらの絶対こそが 絶対だ。これを崇めなさい。》と言い合う事態です。 で この場合にも 初めに掲げました一粒の麦の立ち場が考えられます。物指しは一つであるとは限らないよ。よく見てみてと。 《貴兄様は暗闇の、得体も知れない悪魔を頭に画いて生きておいででしょうか。》――実際問題として すでに アメリカの精神(あえて)は わたしたちの生活のかなりの部分に影響を与え さらにその一定の部分を悪くしてしまっているかも知れません。とはお思いになりませんでしょうか。わたしたちは その《定規》をうまく使えないほどの模索の状態にあるかに思えます。 もう少し時を待ちたまえとおっしゃるのかも分かりません。そうすれば 水の澄んでゆくに従い 泥や何やかやは 下に沈んでいって すべてが治まるはづだよ。われらの清浄力を信じたまえと。 たぶん一割の部分は そのように出会った分岐点で 話し合いをつづけているのではとも思ったりします。おそらく まことを示すことば あるいは 言葉以外の表現 これが求められているとは思います。 おっしゃるところを伺っていれば あわれみの職務というものが 世界の人びとの中で もしあるとしたなら 日本人としての人はここにありと――言わなくとも―― 思っている姿勢が それでしょうし さらには やしろとして日本とは こういうくにですと つつしみつつ 胸を張って 暮らしている姿も 大切であると思えて来ます。 言葉の議論にかんしては まさに国際の場に出ているわれらがはらからにお任せすることが出来るというように思います。 そして おそらく あと一分(1%)では 国際場裏に出る人びとのために 早くから 思考の訓練をしておくか いや それは不必要かになるように思うのですが いかがでしょうか。きれいごとに堕してしまっていますでしょうか。

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