• ベストアンサー

《絶対》の概念を日本人は理解していないのですか。

莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)の回答

回答No.76

ご無沙汰をわびます。ずいぶん専門的な展開になり、このご回答者のシリーズを勉強させていただきます。先週、江戸文化の勉強に行きました。多くの江戸文化は、町人や町人のある層でしょうが、職人たちの手になるものが多く、その伝統は日本の文化や意識の深層に流れている事を感じながら、この教えてに連想が続きました。私の友人達も日本刀に傾倒し、全国の方は東京にきて、我が家を拠点に東京を歩きます。先日の江戸文化は浮世絵やメディアの発祥です。彼ら職人達、その関係者はみな地域的に狭い町内に居住していました。彼らには見える範囲、理解しあえる同士の世界での仕事と意識です。そういう中では、それを出るような遣り方や要求、企図は異人、変人・奇人になることもありえます。了解のなかでの意識です。職人やその関係のものがやはり、日本の文化の大きな担当者であった。彼らの中にも論理と理屈出いくものもいたが、西洋やインドの論理とは質的に違いますね。彼らに絶対のことを聞いたら、魂と修練の技術というにつきるでしょう。ラートブルッフが、哲学や宗教と違って、統治権力の法令は≪悪魔にも通じ、通じたとして、施行できる言葉、概念、文章で作る≫もである。ということは彼ら職人や江戸・日本には無用できたのかも知れません。悪魔は自分達の外にしかいないのでしょう。そういうところの絶対を、この言葉の震源地の意味で考えることは凡そむりなのではないでしょうか。神に Sinless One は直訳では罪なきものでしょう。しかし日本語で"汝罪なきもの"といえば、他愛のないとか、なんてこともない、という意味になる。穢れなきは、穢れが少し違う。むしろ邪念なき、純なるものよ、でしょう。開悟の高僧がSinless Oneだと思います。しかしそのような概念は日本には無いので、今、ある本を訳しながら、唸っているのです。翻訳とは著作になっていくのです。これが絶対ということにも、起こっている事ではないでしょうか?N076さんの話もこれから勉強ですが、私はやはり貴金属の大小ではない何か、認識・探り出しの観念がないのかなぁと、悩みます。

noname#80116
質問者

補足

お久し振りです。 いいご経験をなさっているようですね。江戸の人びとなら江戸の人びとに見るというそのような歴史の掘り起こしが 大事なようにわたくしも感じています。(絶対の概念の導入という質問のほうで少し触れることができたかと思います)。 話題は《専門的》なのですが 思えば フラクタルのことをおそわっておきながら 特異点などの問題も 残念ながら明るくありません。(ウィキペディアは一通り読みましたが)。なんとか歯を喰い縛ってでも進みたいとは思っております。 今回は すでに見え隠れしてもいましたがその《表現の問題》という点を指摘していただいたと理解します。 二つの側面があります。 ひとつに そもそも表現する必要があったか あるかの問題です。江戸の職人の事例のように その道を究めることで おそらく《絶対》のことを見る(感じる)ことがあったと思われるが しかも これを 言葉にして表わすことは 総じて日本人は していない。その表現・分析・展開へとは進まなかったと思われるという事例です。 (その一:簡単に言って 言挙げして来なかった歴史。 (その二:《社会の統治には 個人のすべてを一様に同時に満足させることは出来ないゆえに 端折って言えば 悪魔と手を結ばなくてはならない場面もある》という場合 そのような場合が 《絶対》とかかわって 言葉による表現として現われるか否か。)――(ラートブルッフ等々は未読です。ご紹介いただければ おおよろこびです。) いまひとつに――上の(その二)と関連しつつ―― では 表現するとした場合 表現するにしても 言語(もしくは 民族)のちがいによって 表現の形式に違いがあるだろうという問題です。通訳・翻訳の問題にもなります。 《罪》と《恥ぢ》の問題ではありませんが いっそのこと 翻訳語にかんして 全部 見直し当てはめ直すことが必要であるのかも知れません。 (その三:自身に引き寄せてみれば 例のアウグスティヌスの表現形式には とても日本人が理解できるとは思われない事例が いくらもあります)。 (その四:おっしゃるように 同じアジアと言っても 中国やインドの表現形式についてみても 相当ちがうと思われます。) 《やはり貴金属の大小ではない何か、認識・探り出しの観念がないのかなぁと・・・》――この後半はわかりますが 前半は 器ですとかその人の境涯といったことをおっしゃっているのでしょうか。ご説明をお願いしてよろしいでしょうか。 いやぁ またまた 前途洋洋とも言うべく 課題と範囲がべらぼうに広がりましたね。楽しみでもありますが。

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