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《絶対》の概念を日本人は理解していないのですか。

莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)の回答

回答No.77

早速ありがとうございます。  (1)ラートブルッフは、仮にも理性が存するならば、仮令、最も邪悪な悪魔にも、法令として通じた、理解したという看做し(ご存じのように、看做しと推定は完璧に、結果させる、法律効果がちがいます)ができるように、言葉の厳密な内容と、文章で、法令関係はなさなければならない。文章とことばだけで施行できなければならない。そこで読み取れる内容が、法令の内容で、制定者や、当時の事情などは、単なる参考でしかない。という意味であります。法律と法解釈学のことば上の原則をいうにつきております。  (2)貴金属のこと:これはあくまでも物的なもので、これを評価する基準は、大小や重さでしかありません。と存じます。だから、その基準を文化や文明についての絶対ということついて当て嵌めていくことは、無理であると存じます。翻訳語の絶対という言葉や大小や重さは、日本の文化・文明の何かを、思考するときには、限界というか、そういう事柄を抜きにしているのが、日本の文化や文明だったのではないかという思いなのですが。そういうことに向けて、生きてきてはいないと存じます。ことばを当て嵌める、次元が違うのではないか。聴覚に対して、味覚を聞いても仕方ないというような、譬えの世界だと思ったもので、両者をくるめてのことであれば、それぞれの原子的根源の要素、その要素がどこからもたらされているかの面から扱って欲しいのです。所謂ロマン・ロランと湖人をを同一の言葉では扱わないで欲しい。ガンディと西郷隆盛を一方のことばで扱わないで欲しい。インドは真理で世界に貢献してきている。インドの本質は真理である。そのインドが暴力で独立を勝取るなら、そんなインドをw足しはもう愛さない。そんなインドは滅びて欲しい。このことばに感激しない人は誰もいません。がんとそびえるヒマラヤの岸壁です。そんなヒマラヤの岸壁は西郷さんにはりません。遠く狙ってきた資刺客。それはどうも遠いところをごくろうに存じます。今、丁度誰もいません。どうぞおいどんの命お取りください。  決起をつげる郷党の若者に、ではおいどんの命さしあげましょう。 僧との入水。これらはヒマラヤ岸壁と比べて評論するものではない。人間の要素、絶対者からきている同じ原子性。その原子性を示すKategorieは絶対という言葉では無理なのだと、惟うのですが。

noname#80116
質問者

補足

(1)少し勉強しましたら 次のようにも出ていたのですが そうしますと そのあとに述べますように 解釈してよろしいでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ In sum, Radbruch's formula argues that where statutory law is incompatible with the requirements of justice "to an intolerable degree", or where statutory law was obviously designed in a way that deliberately negates "the equality that is the core of all justice", statutory law must be disregarded by a judge in favour of the justice principle. http://www.en.wikipedia.org/wiki/Gustav_Radbruch ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《法律は 条理だとか法の精神だとかいわゆる自然法に基づくと考えられる。しかも それにもかかわらず そのように言葉として不分明な不文のものを判断の基準にするというよりは そうではなく 条文において あたう限りあらゆる場合を想定して その解釈と施行のほぼ一義的に決まるように 厳密に表現し制定しなければならない》と。 いづれにしましても わたしの《悪魔》の使い方は あてずっぽでした。M.ウェーバー(かれに同感してはいませんが)の用法を借りただけでした。 (2)やはり 表現の形式にちなんでは (a)翻訳(用語の対照)の問題と そして(b)むしろ不立文字と言うんでしょうか(あぁ 拈華微笑ともいいましたね) 無言としての表現の問題 この二つを挙げておられると捉えます。 後者の無言は 以前にも触れておられたように 実践の問題・いわば人間力というような実存のそれ・そしてさらに言うならば そのような生活態度の感化のもとにと思われるような地域社会におけるやはり情感の共同性という実情 これも視野に入れておられるのかなと捉えます。 舌足らずになるのを恐れますが 承って思うことには いわゆる物指しが 二つあるのではないかということです。《定規(規矩)》と 《定規を越えた息吹き(直観・洞察力・あるいは香り?)》です。 そしていくらか わたしの側に傾いてものを申すならば 定規を越えたところのものを 定規に合わせた言葉で表現するという課題を 現代世界では――われわれ日本人も―― 持っているというように思ったりするのですが。と言っても わたくし自身に限ればもはや 次の世代に任せるほかないといった情況なのですが。 絶対は 一応そのままで 相い通じ合うようにも思えるのですが。言いかえると その絶対に通じるかに思われそれを表わしうるような人間力の要素を きちんと伝え得る言葉が欲しいということになるのでしょうか。(それは 物語としての叙述の全体 あるいは 劇における演技の絡み合った全体ということになるのかも分かりません)。

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