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心を休ませる方法とは?
- 心を休めることは、頭と体を休めることとは異なると感じています。頭と体を休めると心が焦り、悩んでいる障害が出てくるかもしれません。心を休めるためには、須田さんらしくスローペースで生きることが重要だと言われました。須田さんは躁うつ病に戦っており、これまで一生懸命仕事をしてきました。しかし、頭と体を休めると心が焦ってしまうと感じています。そのため、心を休ませる方法について教えていただきたいと思っています。
- 心を休めることは、頭と体を休めることとは異なるように感じます。頭と体を休めると心が焦り、悩んでいる障害が出てくることがあるからです。須田さんは躁うつ病に戦っており、一生懸命仕事をしてきました。須田さんは頭を休ませるために寝込むことを避けていましたが、その結果心が焦ってしまうことに気付きました。心を休ませるためにはどうすれば良いのでしょうか?回答と共感する方の意見をお待ちしています。
- 須田さんは躁うつ病に戦いながら一生懸命仕事をしてきましたが、頭と体を休ませると心が焦ってしまうと感じています。心を休ませるためにはどうすれば良いのか悩んでいます。須田さんは頭と体を休ませる方法を模索していますが、心を休ませる方法がわかりません。心を休める方法を知ることで、須田さんの躁うつ病の克服に繋げることができるかもしれません。須田さんに心を休める方法や意見を教えてください。
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自分を客観的にみつめることについて… 例えば。 私は子供の頃からお腹が痛くなったり、胃が痛くなったりと、今思えば結構病がちだったのですが、そのせいか体の痛みに対してどうやらとても「強く」なっているようです。(それがよいことかどうかはともかく…)例えば、胃の周辺が痛いとき「この痛み方は胃酸が多くなっているんだな胃酸止めの薬を飲もう。」「このあたりの痛みは胃痛じゃなくて神経痛だな、ちょっとストレスがたまっているのかな?」などなど。私は実はつい最近まで「皆わかる」ものだと思っていました。「自分の体なんだし」と。でもどうやら違うらしい。何度も痛みを感じて、その度に「こうすればいいかな?ああすればいいかな?」「こうしたらよくなった。これが原因だったんだ」という過程があってこそだということに気付きました。子供の頃からあまり病気をしたことがない、という人はちょっとした便秘でも大げさに「痛い!」と悶絶していて不思議だったのですが、医者からも「痛みに強い人なんだね」と言われ、ようやく気付きました。 心については、身体よりもやっかいではあります。でも、多少同じことが言えるのではないでしょうか? 実は身近な鬱を患っている人は10年前にも患っていて、一度回復しての再発です。もちろん、苦しい気持ち、つらい気持ちはあるのだと思います。でも、一緒にいるものから見ればあきらかに違います。初めの鬱のときは先生と相性が悪かったこともあったとはいえ、いつも神経が張りつめていたように思います。不安と焦りが一杯になって周囲にも駄々漏れしていたものでした。ですが今回。「今日はちょっと調子が悪そうだ」「今日は気分がよい」「今日は調子が悪いから誰とも話をしたくないので、そっとしておいて」と自分の気持ちを多少なりとも眺める余裕が見られます。 自分が今どういう状態か? これまでの経験で何が有効だったか? この状態はどれくらいで戻るのか? そういったことが自分の中に見えてくると、心自体をコントロールできなくても、心がコントロールできないときの「指針」ができるので、むやみに焦ったり落ち込んだりしないですむようです。 この病気は「完治」というのはないのかもしれません。 「病」という「波」に漂う小舟みたいなものなのかもしれませんね。大波もくれば嵐が来ることもある、船の扱いを知らなければただ流されて翻弄されてしまうだけですが、船の舵の握り方、帆の張り方、碇の使い方などを知れば、多少の嵐が来ても「なんとかなる」と思えませんか?自然のすることだから、波があるのは仕方ない、あとはそこにどう合わせていくか。そんな風に思って眺めてみてはどうでしょうか? 今あなたは、船の舵の取り方、航海図の見方、碇の降ろし方を模索している最中なのだと。 船(あなた自身)を眺めてみて、その船に合わせた波の乗り切り方を覚えてください。 あ、でも船の破損が大きすぎるときは「病院」(補修)という選択肢も持っていた方がよいとは思います。この病気は先生との相性がすごく大事です。多少心に余裕があるときの方が、相性のよい先生を探すのにもよいかもしれません。 なんだかかっこいいようなことを書いてしまったかも…。 おせっかいなことばかり何度もごめんなさい。 ではでは。
お礼
お世話になります。 おせっかいなんてとんでもないです。 私は、ものすごく受け入れていますよ。 私は、無理に「心を休める方法」を考えてしまっていたのかもしれません。 好きなことをするとか… 体を休めるとか… みなさんにアドバイスを頂きました。 私も、わかってるつもりなんです。 わかってるんだけど、それをどう取り組んだら心が休まるのか…。 今の私には、とても難しく、心を休めることができないことに焦りを感じてしまうんですね。 みなさんにとって、それは簡単なことなのだろうと、私は思ってしまうのです。 疲れてしまった…傷ついてしまった心を回復させることはとても大変なんでしょうね。 心が疲れる前に問題を回避させるほうが簡単なのかもしれませんね。 回避方法は、今まで経験したことと、これから経験することも含めて 自分が今どういう状態か? これまでの経験で何が有効だったか? この状態はどれくらいで戻るのか? 自分で分かることができれば、確かに焦らなくても済むかもしれません。 なるほど… ものすごく感心しました。 そして、受け入れ易かったし、 自然な行為ですよね。 色々と意見を聞かせてもらいました。 たくさんの方から意見をいただきました。 それは全て正しいことなんですね。 私の受け入れ方の問題でしょうか。 解釈の仕方に問題があったのか。 でも、「心を休める方法」について真剣に考えることができたから、 核心が得られることもあると思うのです。 わかっていたつもりだけど、実は分かっていなかった… このようなことは、誰にでもあると思うんです。 すごいなぁ…。 一人一人考え方が違うのは当たり前です。 でも、核心は同じなんだと思います。 肯定的な方も、否定的な方も、突き詰めていくと、同じ結論に達するのではないでしょうか。 私の自営業の仕事は広告業なんです。 広告で集客することが私のお仕事です。 お客様の気持ちや、商品に対する思い入れ、商品の価値、消費者のメリット等をお聞きしてまとめるんですね。 その時、お客様の気持ちと、商品に対する思い入れについて、突き詰めて考えていくと、「貢献」することに繋がるんですね。 消費者の為に役に立つこと…それがお客様のために繋がるんです。 それをず~っと繰り返して考えていくと、行き着くところが「宗教」になります。 教えとか、悟りとか、今の私にはまだ理解できませんけど。 そして、終点は「無」にもどる。 「無」から始まり「無」に戻ることが、私たちの生きていく使命なんだと思うんですよ。 生を受けた者は必ず死にます。 自分の人生の結果にたいする評価は、死ぬ瞬間なんですね。 今の自分が、結果を出していると思っていることは、人生の中の一つの過程に過ぎないんです。 今、私が悩んでいることは、人生の結果に対する過程に過ぎないんです。 この過程をどう乗り越えるかによって、これからの進める道の選択が増えるんだと思うんです。 私は、心が疲れ果てしまったんです。 それはそれで、事実を受け止めれば良いのかと思いました。 疲れ果てた心を休ませる方法よりも、これからの心の持ち方を大切にしたほうが、多くの幸せにつながる可能性が高いのでしょう。 ありがとう。 本当にありがとう。 私は大丈夫。