• 締切済み

教えて下さい。

こんばんは。 現代社会の中での僧俗和合とは具体的に、どんな意味ですか? 仏教の基礎や国語的解釈を質問してません。 僧侶は僧侶にしか出来ない仕事が有り代表的な物の1つに冠婚葬祭が有ります。 俗、所謂在家も同じく在家にしか出来ない事が有る様に思います。 僧俗和合とは僧侶が上で在家は奴隷の様に従いお金を貢ぐ…それが僧俗和合では無いと私は思いますが25年前の昔は1つの宗教団体が2つに別れた現状を目の当たりにし今は2つの某宗教団体がお互いを醜く罵倒するを見るに付け解らなく成ります。 真の僧俗和合とは何だと思われますか? 要するにお互い言いたい事は長年言い尽くした訳ですし正邪も反省点も解った訳ですし子供の喧嘩じゃあるまいし良い加減に我を張らずに仲直りしたらと思いますがお互い譲りません。昔は僧侶と在家だったのに…です。 喧嘩の原因が何で有れ円卓会議で納得出来るまで話し合えば終わる話を話し合いすら拒み合い罵倒し合う…本人達は大クソ真面目な話見たいですが第三者から見れば馬鹿馬鹿しい醜い内輪揉めにしか見えません。何故話し合わないのか?… だから質問致します。 真の僧俗和合とは何ですか? 具体的に解り易く御教示下さい。 何卒宜しく御願い致します。

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  • 177019
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回答No.5

長い間、お待たせしました。早速ですが回答させていただきます。私がお世話になっている御住職様に相談いたしました。日蓮正宗における「僧俗和合」は「僧侶が上で信徒が下」ではありません。日蓮大聖人様は「曾我入道殿許御書」という御書の中で「涅槃経に云はく、内には弟子有って甚深の義を解(さと)り、外には清浄の壇越有って仏法久住せん」と説かれています。この御文は、僧侶は修行・研鑽などにより、仏法の深い意義を学び衆生に説き、内側より仏法を護っていく責務があり、信徒は清浄な志をもって仏法を外から護り、世に弘めて久住せしめる責務があるということです。つまり、内と外の両方から仏法を護持して広めてゆくことに僧(僧侶)と俗(信徒)それぞれの役割や立場、使命があるという事です。又、大石寺の第九世日有上人は、「道俗(注・僧侶と信徒)の差別は無く信心の人は妙法蓮華経なる故に何(いず)れも同等なり、然れども竹に上下の節のあるごとく、其の位をば乱せず僧俗の礼儀あるべきか」と示されています。誰もが仏性を具えていて、妙法蓮華経を信仰すれば成仏できるという意味では平等ですが、生活においては立場や役割を弁えなさいという事です。次に日蓮正宗と創価学会の喧嘩ということですが、日蓮正宗は喧嘩してません。創価学会の現在の姿が日蓮正宗の教えと違ってしまった点を指摘糾弾しているのです。「罪を憎んで人を憎まず」です。日蓮正宗の信仰は、御本尊様とそれを御護りする御法主上人猊下様のお言葉(御指南と言います)に従うことが基本です。このことは創価学会池田名誉会長も学会会長就任時に「申すまでもなく、わが創価学会は、日蓮正宗の信者の団体であります。従って私どもは大御本尊様にお仕え申し上げ、御法主上人猊下に御奉公申し上げることが学会の根本精神であります。(昭和35年)と述べています。次に血脈についてですが、血脈には「法体の血脈」と「信心の血脈」がある事をご存知でしょうか。『生死一大事血脈抄』について、創価学会ホームページで公開されている青年部向け講義の動画を見ました。そこでは「法体の血脈」は出てこないですね。昔、創価学会で行った「生死一大事血脈抄講義」について、宗門と創価学会で質疑応答がありました。昭和53年頃の事です。その時の創価学会からの回答を少し長くなりますが掲載させていただきます。「血脈については「法体の血脈と信心の血脈等があります。御書に「生死一大事血脈抄」があります。その冒頭に「夫れ生死一大事血脈とは所詮妙法蓮華経是なり」と仰せであります。これは別して日蓮大聖人の御内証そのものであられる南無妙法蓮華経法体が生死一大事血脈抄に究極であるとの意味であります。この別しての法体の血脈相承は『身延相承書』に「血脈の次第 日蓮日興」と仰せのごとく、第二祖日興上人にすべて受け継がれ、以後、血脈付法唯授一人の御法主上人猊下が伝持あそばされるところであります。同抄に「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事血脈抄とは云うなり」の御文は「別して御内証によってお認めの御本尊を受持してゆくことが正しい信心の在り方であり、総じて生死一大事の信心の血脈となるのであります。ゆえに、別して法体の血脈相承と、総じて生死一大事の信心の血脈とは、その意味に違いがあることを確認しておきたいと思います。このように法体の血脈を前提として信心の血脈があり、具体的には法体を護られる歴代の御法主上人猊下様の御指南の通りに信心修行する事が大事と言えます。次に貴方は「創価学会の御本尊も宗門の御本尊も同じ」と認識されているようですが、それは間違いです。総本山からの血脈を受け継がれた御法主上人猊下様の允下(お許し)をいただいた御本尊様と、そうではない御本尊様は全く違うのです。今、創価学会で配布されている日寛上人のご本尊は、盗まれたものを画像処理して都合の悪い部分を削除してからコピーされている事をご存知ですか?創価学会では「大聖人直結」と唱えていますが、それならなぜ大石寺第二十六世日寛上人の御本尊をコピーのベースにしたのですか?御本尊について、創価学会の資料を引用させていただきます。「いわゆる付属のないもの。これは偽札本尊といって、これらを本尊と立てる連中は、御本尊は誰が書いてもよいなどと考えているのである」(折伏教典改訂三十二版三四五ページ)「ただ、大御本尊様だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない(中略)ニセですから、力がぜんぜん無い、むしろ魔性が入っている。魔性の力が入っている。だからコワイ」(戸田城聖指導大百蓮華昭和三十四年七月号九ページ)、近年、現職の公明党員が議員辞職と創価学会を脱退し、日蓮正宗の信徒組織である法華講に入られました。創価学会に対する疑念があったそうです。もし、貴方が日頃聞いている創価学会での指導と、ここに引用した資料相違など気になることがありましたら、お近くの日蓮正宗の寺院を訪ねて見てはどうでしょうか。後、総本山大石寺へ行って見る事もお勧めします。創価学会の方で、こっそりと御自分で大石寺を訪ねている方もいるそうです。長い事お待たせして申し訳ありませんでした。

jamamono2
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。私は創価学会が絶対完璧に正しいとは思ってません。 又、もし日寛上人様の御本尊様の都合の悪い部分を加工等々したとすれば問題でしょうが残念ながら日寛上人の御本尊様は盗まれたので無く日蓮聖宗改革同盟、つまり以前は日蓮聖宗の御僧侶だった方々の寺院の宝物庫より見付け上記同盟代表者が学会との話し合いで現状に至りました。つまり偽造等々は厳格に戒められておりますから偽造は考え難いのです。事実で有れば偽造が仏法に照らし、どれ程の現証が現れるか?… 更に学会が道を踏み外してるので有れば攻めて糾弾するので無く信心の暖かな大慈悲深い衣で暖かく包み込み間違いを正しつつ救って行って戴けませんか?…それこそが僧侶の役割で有り、不軽菩薩の大精神では有りませんか?…ダイバダッタや平ノサエモンこそ第1の善知識では?…間違いを正す事が慈悲で無く相手を学会を救い正しい信心へ導く事が本義では有りませんか?…ですから喧嘩と申し上げました。自己主張し合う事が大慈悲深い御振る舞いと思われますか?…同じ御本尊様を拝するのですから日蓮大聖人様の大精神を精神とし学会を導く事が必要では有りませんか?…。改めて親が我が儘な子供を導く様に折伏し直して戴けませんか?…

  • 177019
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回答No.4

私がこれまで貴方に対して書いてきた事、すべては本宗宗務院発行の書から抜粋して書いています。彼らへの折伏は御隠尊日顕上人猊下から御当代日如上人猊下へ、御命題は着実に成果を上げています。来年は日興上人生誕770年で各寺院の信徒数を50%増、この目標を掲げて私も今年は叔父を折伏、頑張っています。貴方がご質問の御本尊様の事につきましては御住職様の意見を踏まえてまたお答えさせていただきます。

jamamono2
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。是非是非御回答を待っております。その証としてこの質問は4月末日迄は、現状維持致します。何卒宜しく御願い致します。 とにかく学会と御本尊様は別問題で有り御本尊様は絶対で有るから信心してる訳です。疑うなら最初から信心する意味無いのでは?…血脈とはそう言う物では有りませんか?…

  • 177019
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回答No.3

日蓮大聖人の仏法を正しく信仰すると言う事は、大聖人以来の血脈に随順して根本の法体である本門戒壇の大御本尊様を信受する事であり、その信仰こそ真実の功徳と成仏があるのです。しかし、現在の彼らは総本山大石寺に参詣することも本門戒壇の大御本尊を拝む事すらできない状態です。それは彼らが許されざる謗法集団と断定されたからにほかなりません。彼らは会員に対して総本山大石寺に参詣できなくなった理由として「宗門が会員の参詣を拒否したから」「大石寺が謗法の山となったため参詣し供養する事は謗法与同になるから」「現在、戒壇の大御本尊は、日顕宗に乗っ取られた状態にあるから」などと言い訳をしていますが、大御本尊から離れた者がいかに理屈を並べても正しい教えから外れているという事実には変わりないのです。また彼らは血脈について「法主だけに流れる血脈などない」「信心さえあれば誰でも血脈が流れる」「学会の信心こそ血脈が流れている」などと主張していますが、これは明らかに日蓮大聖人の御教示に背く邪説であります。このように彼らは一方では唯一一人の血脈の存在を全面的に否定しながらももう一方では「法主の血脈が途中で断絶した」とか、「相承の儀式が行われていない」「血脈が汚(けが)れた」などと言って唯一一人の血脈の存在を認めた上で誹謗するなど、まったく矛盾した行動を繰り返しています。つまりは彼らには宗祖大聖人以来の唯一一人の血脈に関して、一貫した主張など全く無く、ただ唯一一人の血脈の尊厳を貶めようとする罵りがあるだけなのです。もう一度繰り返すようですが、確かに彼らは以前は本宗の信徒として信心に励んだでしょうが、現在の彼らは大聖人の血脈の否定、数々の謗法を犯して本宗の教義に背く邪宗教になり果てました。まさしく師弟師の道に狂った教団なのです。従って彼らがいかに大御本尊を心に念じ勤行してもそれは正しい師弟相対の信心ではなく、信心の血脈が流れていないのですから功徳は無く、かえって堕地獄の厳罰を被ることになるのです。

jamamono2
質問者

お礼

御回答有難う御座います。仰る通りです。だからこそ尚更その狂った信仰を正し直し救うのは本宗の使命では有りませんか?…信心の血脈無くんば法華経を保つとも無益なり(生死一大事血脈抄御書1340頁)と有ります。今回の御回答内容は学会員の信心に御本尊様の功力、仏力、法力が左右されると解釈出来ますが御書には御本尊様の功力は無量無辺と書かれてます。御本尊様は偉大で有りますが功徳は信仰の厚薄によりけりでは有りませんか?…だからこそ信心が狂った学会員を何故本宗は大慈悲深く救わず、その責任を学会側に押し付け本宗は積極的に学会員へ折伏しないのか?…が私の質問です。責任転換し都合が悪いと逃げ出す何も行動しない事が大聖人様の御精神で御座いますか?…学会の御本尊様を云々批判するから反撃されます。例え、どんな極悪人でも必ず救い全人類救済が広宣流布では有りませんか?…私は学会の味方する気は有りません。が学会の御本尊様も功力は同じで有り日頸猊下の御本尊だから…の学会の主張も間違いです。これを誤解しないで戴きたいのです。その上で狂った学会員を何故救わないのですか?学会も悪いですが言う事を素直に聞かないからと学会を正さない本宗も問題有りませんか?…僧俗和合とは何ですか?…。

  • 177019
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回答No.2

「一つの御本尊をお互いが信仰しているのに」、もうすでに彼らは本宗から離れて20年です。離れた時点で彼らの持っている御本尊から一切の功徳の根源がなくなりました。本門戒壇の御本尊を信奉しての功徳です。これはこういう事態が起こる前から彼らの上層幹部は分かっていたはずです。事の始まりは平成3年初頭です。全組織挙げて本宗への誹謗中傷、嫌がらせ、またある北海道の組織の会館においては、本宗御法主上人の写真を階段に並べてまるで昔の踏み絵のように、その写真を踏んで上がるようにしていた話も事実としてあります。私は初頭に20年と書きましたが、もう若い彼らの中には何があったのか、知る人は殆ど無く、恐らく何があったかは教えていないのが現状と思います。そして本宗から離れた事による弊害が彼らの上に現証として現れ始めています。貴方は「慈悲よりも深い大慈悲」と表現されました。私もその立場に立ってそういう彼らを何としてでも救いたい、本宗の信心に立ち返らせて上げたい、貴方の言葉を借りれば「辛抱強く忍耐力で」頑張っています。来年3月には日興上人御生誕770年です。頑張ります。

jamamono2
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。学会がした間違いは否定致しませんが1つだけ…学会の御本尊様も本宗の御本尊様も歴代の猊下が御したために成られた御本尊様だから学会がどんな行動しようが御本尊様に罪は有りません。つまり功徳は厳然と有り厚薄は(学会、本宗、誰に寄らず)信心によりけりです。御回答内容では学会の御本尊様と言えど功徳は無い等の言動は御本尊誹謗で有り、その罪は御回答者様へ帰ります。御書を正しく御確認下されば厳然です。これを否定する事は歴代の猊下の書写された御本尊その物を否定し猊下をも否定する悪行に成りませんか?本宗、学会、誰に寄らず人間誰しも仏性は有ります。それを否定する事は御本尊様誹謗へ繋がる愚行では有りませんか?つまり御本尊様を誹謗せず大慈悲深く学会を救ってあげる事が本宗の本来有るべき日蓮大聖人様の御精神では?…喧嘩しても学会が刃向かうだけで問題解決致しません。境涯を高く学会を救ってあげる!社会に理解される本宗を目指すなら…で無ければ学会と同類の境涯の詰まらない兄弟喧嘩と同じで社会は誰も理解せず見向きもしません。庶民を味方にする事が最善では?…学会は突き放せば離す程、逆襲は厳しいのだから救ってあげる事が本宗の威厳回復の近道では?です。

  • 177019
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回答No.1

この世に存在する一切のものに、現象面での差別と普遍的な面での平等という両面がある事は誰もが知っています。僧俗と信徒は勿論の事、身分の高い人と低い人も信仰の上では本質的に平等であるが、役割の上での地位の差は存在しそこに礼儀が必要であると思います。貴方が言われる「宗教団体が二つに別れた」の部分に私は充分に承知して、その僧侶側に立って回答を書いています。僧侶側からの文書の回答について、差別に関する部分のみを採り上げてあたかも僧侶が宗教的権威を振りかざし、信徒の上に君臨しているように印象付けて、「僧俗は平等である」とする部分を故意に覆い隠して差別の面のみを誇張しているのです。本宗には「僧俗は平等にして差別、差別にして平等」という一貫した精神が伝えられているのですから、「宗教的権威を振りかざしている」とか「信徒の上に君臨する」とかの非難は捏造以外何ものでもありません。「曚霧(もうむ)の迷い」の迷いから覚めるべきです。

jamamono2
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 組織に限らず人間は自分と自分を味方と大切に扱って貰える人、大切な物…だけを大切に守ろうとする本能的な考え方が有りますが慈悲より深い大慈悲の人の生命はそれ以外の方々…全人類を大切に慈しみ守る…そうした教えが現に存在するのに1つの御本尊をお互いが信仰してるのに何故喧嘩したら相手の境涯を可哀想だと大慈悲で祈り救う努力を全面にお互いに行動しないのか?…理屈で無く兄弟喧嘩でも仲直りが普通なのに何故…人生哲学を教え導く筈の宗教団体がこの様な哀れな状態なのか?…何故双方が反省すべきは猛反省し相手の仏性を崇め尊敬し感謝し…信心の無い普通の人でも出来そうな簡単な事が出来ないのか?…何故畜生や修羅に成り下がるのを良しとし行動するのですか?…悪に善悪有れば相手を救う観点から先ずは相手を理解し大慈悲深く包み込んで寛容の精神で導くのが宗教団体の本来有るべき姿では有りませんか?…。釈迦とダイバダッタの関係をどう思われますか?…自分に都合の良い人だけ救うのは小乗経では?…相手が自分に敵対し言う事聞かなくても辛抱強く忍耐力で母が子供を育てる様に双方がお互いを守り救う考えは無いのでしょうか?…喧嘩し続けて何の得が有りますか?…。

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