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【民営化25年】国鉄時代の思い出を教えてください!
- 少年時代に国鉄が民営化されてしまい、国鉄を利用する機会を得られなかったことに対しての悔しさを述べています。
- 旧国鉄時代と現在の駅の雰囲気の違いや、特に東京駅、新宿駅、札幌駅、名古屋駅、新大阪駅の変化について質問しています。
- 旧国鉄の鉄道公安室についての思い出や、国鉄敷地内での犯罪検挙のエピソードに触れています。
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こんにちは。 1.札幌駅についてですが、確か国鉄時代にはまだホームが高架になっておらず、跨線橋がメインだったことは覚えておりますよ。駅の東西には函館線を南北に跨ぐ陸橋もあり、70年代には西側陸橋には市電鉄北線も通っておりました。(63年~70年までは鉄北線の非電化区間にはディーゼルエンジンの市電(車両)もあったのですが) 2.子供の頃(小学生時代)には「鉄道公安36号」というテレビドラマもあったので公安室が駅のどこにあるかはいつも気にしておりました。拳銃を持っていないお巡りさんという感じでしたね。 3.弘済会についてはあまり気にはしておりませんでしたが、その昔は駅弁のお茶を購入するのによく利用したものです。 *国鉄時代の思い出は、なんといっても青函連絡船の利用ですね、50年代の幼少時から高校の修学旅行、就職試験、80年代のお盆の帰郷まで随分お世話になったものです。 ちなみに一番古い記憶は、50年代後半に特別2等車に乗ったことでしょうかね、リクライニングシートに読書灯、フットレストもついていたことは未だに覚えております。 60年代初めには東京~京都までは特急こだま号、熱海の山側で「夢の超特急」の工事が始まっておりました。懐かしく思い出されます。 なにか勝手に思い出を語ってしまったようで・・・申し訳ありません。 ご参考になれば幸いです。
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- eggin
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こんばんは。国鉄時代の思い出は本で読んだ話です。それは かつて宗谷本線の美深~仁宇布間を結んでいた美幸線の話ですかねえ。 この線は九州にあった添田線(香春~大任~添田間)ローカル線営業係数ワーストの常連でした。 ある日、美幸線の沿線の美深町の町長が自らが仁宇布→美深の片道切符を買ったり、 またある時には、東京の銀座まで出向き切符を売りさばいたり、企画列車を運行させたり・・ あらゆる手を尽くし、さらには経営コンンサルタントを依頼し、美幸線全線開業させて、 第3セクターで運営したらどうなるか?などまでしましたが、結局1つの町の予算では運営できず 北海道からの資金提供も拒否され、さらにコンサルタント会社から上がってきた 年間3億円の赤字が出る。やむなく美幸線は1964年~1985年の21年間で幕を降ろし 代替バスの運行になりました。今でも代替バスは運行されていますが休日を全便運休にして なんとか続けている状況です。1便当たりの輸送密度が3人ではとても黒字は無理な話です。 こうゆう代替バスすら無くなった地区も出て来ているのが寂しい限りです。
- mota_miho
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ずっとずっと昔の大阪駅の思い出です。 プラットフォームに洗面設備(トイレではない)が設置されていました。水道の蛇口が5つくらい並んでいたでしょうか。 夜行列車で朝早く大阪に到着し、そこで顔を洗った記憶があります。 また、プラットフォームには貨物用のエレベーターもあったかもしれません。貨物を上げ下ろしするためのものですから、エレベーターは金網のようなもので囲ってありました。 いずれも、私がまだ小さな子供だったころのことですので思い違いかもしれません。
特に知りたい内容でないと思いますが、 「順法闘争」が年に1~2回ありましたね。 時刻表が全くあてにならなくなる期間でした。
- shorinji36
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【1】札幌駅に関して言えば民営化うんぬんは関係あるのかな… 民営化してなくても今みたいになってる気がするが。 まぁJRタワーとかできたけど。 電車の対面座席でタバコが吸えたよね。 窓の下の側面に灰皿があった。 当時、子供だった自分はよくそこに缶ジュースのリングプル(昔のタイプ)を捨てていた。 民営化したからといって数年間でガラリと変わったわけではない。 20年掛けてちょっとずつちょっとずつ変わっていっただけだよ。