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義捐金を強要した秋田の中学校
どう思われますか? 秋田県の公立中学で、生徒会が義捐金を集めることを決議した。 一人、200円以上で募金を募った。 締め切り後、募金していない生徒20人の名前を、教員が貼り出した。 翌日、生徒の保護者からの苦情があり、貼り出しをやめた。 校長は、「生徒会で決まったことだから、宿題の提出を促す感覚で発表した。 配慮が足りなかった」と弁明。 ここには、いろんな問題が含まれていると思います。 1.学校という特殊環境での教員は、生徒の人権を侵食している? 2.生徒会が自由意思であるべきものを決めたとき、全員従うべきという教員の考え方。 3.寄付や善意を押し付ける風潮。(たとえ200円でも、金額の多寡ではなく) 4.教員の行動が「いじめ」の原因を作る可能性と、閉鎖社会。 5.校長と教育委員会の「配慮が足りなかった」という言い訳。 6.教員の行動論理は何?「正義感?」それとも「糾弾?」 全部に答えていただかなくてもけっこうです。 私なりに考えがありますが、ほかの人はどう思われるか…知りたくて質問しました。 よろしくお願いいたします。
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- bakiboko
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1.そういうこともあるかもしれません。でも今回のケースは「生徒の人権を侵食している」とは思えません。 一般論として、「権利」には「義務」や「責任」がつきものです。未成年である彼らは、その精神的・身体的未熟さからその責任や義務を社会的に免除されているのですから(例:少年法の適用)、その分「権利」にも一定の制限があるのは当然です。そういったことを教えるのも教育の一つだと思います。 2.決まりは決めたけど、全員従わなくていいよ。という「決まり」の方が謎です。「茶髪禁止だけど、どうしてもやりたい人はやってもいいよ」「教室の掃除は当番制だけど、やりたくない人はかえっていいよ」 「決まり」は基本的に「全員従うべき」というのが前提で、全員従えないような決まりなら、それは「決まり」とするのが誤りです。 勿論どんな決まりでも例外はあります。「間食をするな」という決まりがあっても「若年性糖尿病で定期的に糖分摂取が必要」という児童もいるかもしれません。でもそれはその時、その都度協議して認めることであって、最初から「従わなくてもいい」という決まりなど「決まり」の意味がないでしょう。 3.生徒会には一般生徒に「寄付」を依願する権利があります。そして、一般生徒にはそれを拒否する自由があります。 その寄付しなかった生徒が何故寄付できなかったのか、貧乏なのか、「偽善」に嫌悪感を持ったのかは判りませんけど、その「理由」を堂々と提示して拒否すればいいだけの話じゃないですか? そして、先ほどの「若年性糖尿病の生徒」同様、個々の理由によって認めるか認めないかを協議すればいいでしょう? ナイフをつきつけて「金を出せ」と脅したわけでもあるまいし、「寄付の依頼」を「押し付け」として「そもそも提案したのが間違い」とするのも変な話だと思います。100人いて100人が賛同するプランしか提案しちゃいけないなんて・・・そんなプラン存在しませんよ。 つまり生徒会や生徒は何もするなと? 寄付は個人が勝手にやればいいことで「学校」でやることではないと? さぞかし、無関心で事なかれ主義で個人主義の大人に育つことでしょう。 4.そういうこともあるかもしれません。でも、今回のケースにはあてはまらないと思います。 5.頼りないとは思いますが、まあこのご時世では仕方ないですね。 6. そりゃあ正義感でしょう。他の回答者様も書かれていますが、面倒を避けたい先生なら「何もしない」ですよ。 質問者様はおそらく、「名前を張り出された寄付をしていなかった生徒たち」の人権が侵害されたとお怒りなのでしょうが、生徒会の生徒や、寄付に賛同し(あるいは嫌々でも結果的に寄付をした)数多くの一般生徒の人権についてはどのようにお考えでしょうか。勿論質問者様は生徒会を「悪の集団」、寄付した生徒たちを「従順なバカ」と考えているおつもりはないのでしょうが、いち中学のニュースがマスコミにさらされた上、Q&Aサイトの話題にまでされているのは、結果的に生徒会の生徒や寄付した一般学生を「糾弾している」のと変わらないと思います。
- ライフ *゚+。(σ‐σ)。+゚*(@InTheLife)
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人間、良くも悪くも「お金」が絡むと、気持ちにゆとりがなくなるよね…というのが正直な感想です。 これが「義捐金」の話ではなく、たとえば「メッセージカード募集」だったとしたら、教員が同じ行動&同じ弁明をしたとしても、ここまで問題視されたでしょうかね。 1. 教員それぞれだと思います。 私が通った小学校は、「人権教育推進モデル校」というよく解らない肩書きを持つ学校で、世間様からの評判は上々でした。 その裏には、「ひとりは皆のために・皆はひとりのために」を合言葉に、教員からの指導や集団生活の掟には絶対服従の世界がありました。 清掃中に私語をする生徒がいれば、「クラス全体の連帯責任」として、クラスメイト全員が整列した状態で、ひとりずつ教員から殴られました。 ケンカをする生徒がいれば、放課後、クラスメイト全員が反省文を書き、教員が納得するまで帰宅させてもらえませんでした。 社会人となった今、それもある意味、いい「教育」だったかも知れないと思ってます。 学生時代と違い、ひとたび社会に出れば、人権云々言ってられない厳しい現実がいくらでも待ち受けていますから。 ただ、当時の同級生で、現在、教職に就いている友人達は皆、自分達の頃と同じ想いを教え子にはさせないよう努力しています。 だから、ひとくくりに「教員は~」と非難する気にはなれません。 2. 相手が小学生ならともかく、分別のつく中学生、それも、「生徒会」という場面で生徒が主体となって決議された企画に、教員側が割り込むこと自体、不自然に思えます。 限られたおこづかいの中から、欲しい物を少しだけガマンし、同じ東北の地で頑張る仲間のために手を差し伸べる…。 そういうやさしい心を育むための情操教育の一環として、敢えて「従うべき」という方針を生徒へ与えたかったのなら、私は賛同します。 “せっかく大震災に耐えて生き延びたのに、お金がないため復興に向かう気力も起きない”…。 被災地では、そんな悲痛な叫びがいまだ消えないのが実情ですから。 が、「生徒全員が寄付に参加」という美談作り、つまり、生徒のためというより、学校の名目のための行動だったのだとすれば、ちょっと残念ですね。 3. 「被災者への義捐金」は小学生の頃から経験しています。今回のケースと同様、全員参加を促す性格のものではありました。 が、自分の贈る小銭によって救われるかも知れない友達の姿を思い浮かべながら募金するのは、子供心にも清々しい経験でした。 押し付けという重圧感を感じなかったのは、「渋々従わざるを得ない」という潜在意識がなかったからでしょうね。 私自身が見知らぬ他人様からの献血により、命を救われた経験を持つせいか、「困った時はお互い様」の風潮に疑問や抵抗は感じません。 ただ、それに参加しない人を貶めるかのような言動には違和感を覚えます。 それによって傷つく人が生まれたなら、せっかくの善行も台無しになってしまいますよね。 4. 学校で先生が生徒に、あるいは、職場で上司が部下に、注意を与える際には、なるべくなら「皆の目の前で叱らない」配慮が必要と言われます。 仰るように、思わぬイジメや偏見の蔓延に繋がる可能性があるからです。 ただ、保護者の意見をきちんと汲み、改善できるあたり、この中学校は閉鎖社会とは評しがたいでしょう。 5. 「配慮が足りなかった」のはその通りかなと思います。 貼り紙ではなく、対象者にコッソリ声をかけて回れば、生徒個人の事情も理解でき、丸くおさまったかも知れない話でしょうから。 寄付できない生徒の様々な裏事情を顧みず、参加結果に対し、貼り紙によって名前を晒す行為が正しいとは思いません。 同様に、この事件の第三者に過ぎない私が、学校名を特定できる今回のご質問で、教員側の様々な裏事情を顧みず、出た言葉を頭ごなしに“言い訳”と決め付けるのも、貼り紙と同様の「善かれと思う意見の押し付け&晒し行為」のように感じます。 ゆえに私は、校長らの反省の言葉をそのまま素直に信じることにします。 こうして話題にされることで、彼らは充分な社会的制裁を受けているはずです。 6. 「正義感」が空回りしてしまっただけだと思います。 生徒会側から「先生から何とかお願いしてみて…」と要請を受けた挙げ句の行動という可能性もありますし。 初めから「糾弾」を目的として貼り紙したのなら、保護者から苦情があったにせよ、それなりの理由を付け、もっと粘るように思います。 義捐金ごとき、目くじらをたてるレベルではないと自覚しているからこそ、抗議の翌日には貼り紙を撤収し、謝罪できたのでしょう。
お礼
>「お金」が絡むと、気持ちにゆとりがなくなるよね まったくですね! 問題の形はどうあれ、実はココが本質? ―――情けない話だなぁ。 そう考えると、「善意」の色合いも変わってきてしまう気がしました。 1.の、一蓮托生型教育っていうのの利点は何かな?と、改めて思ってみました。 これによって、明らかに生徒間でけん制し合って、 結果として生徒たちの行動は、管理側にはとても扱いやすくなりますよね。 一方、この子供たちが社会に出ると、どうなるのかな…? 私の見た一例では、まだ大人になって社会には出ていない女子ですが、 もっと自由な環境に入ったとき、 「なんでみんな、あんなに勝手なんだろう?」 という疑問に、真っ先にぶつかりました。 守らずにいられない自分、守ることなど意に介さない周囲。 結果、大きな不公平感にいらだち、かなり苦しんでいるようです。 同期生の方が教員として、その轍を踏まない努力をなさっているということは、 私には朗報です。 力づくでは、絶対に魂の自由は奪えないですよね。 報道によると、2クラスで20人が不参加だった、とありますが、 これはけっこう多いな、と私は感じました。 生徒会の権威がないのか、公立だから貧しい子供たちだったのか…? しかし、生徒会の権威が破たんしていたからと言って、 教員が介入するのは、もちろん間違いですよね。 善意の行動だから、できるだけ参加しなさい、というのであれば、 もう少しやり方があってもいいはずだな、と思いました。 いずれにしても、いきなりこの事件ということはないだろうから、 学校の中で、何がどう傷んでいるのか、 このまま放置せずに、見直してほしいですよね。 日本の将来を担う子供たちに、いい教育を望んで止みません。 やっぱり、いろんなとらえ方があるなー、と改めて。 見識広がりました。 回答をどうもありがとうございました。
- bunaflame
- ベストアンサー率20% (19/92)
1.まだ精神的に未熟な生徒に過度な人権は必要ないと考えます。 2.生徒の代表が決めたことに協力しないほうが問題だと思います。たとえ自分が理不尽だと思っても、協力しなければ、東北のために寄付をしよう!という立派な考えの生徒に「なんであいつは協力しねーんだ」という不信感が生まれ、生徒全員一体感が無くなる可能性があります。 3.学生のうちは、「押し付け」でも「偽善」でも、善意は積極的にさせるべきだと考えます。その善意の機会を与えるのも教育です。 4.教師の対処法は確かに正しいとは思いませんが、元々の原因は協力しなかった生徒です。チームワークがない人間は社会でも嫌われ、いじめられます。ならば、学生のうちに痛い目を見て、今後の傷を浅くするという考えも立派な教育だと思います。 5.そういわなければ反感買ってめんどくさいでしょう?僕は、協力させなかった親のほうが自分の子に対する配慮が足りなかったと思います。 6.教育です。真面目な先生だからこそ、こういうミスをします。逆にこういう行動をしない先生は、教育について何も考えてない無関心な駄目先生です。何も言わない。何もしない。だから叩かれない。 これからはそういう先生が増え、日本はさらに衰退していくのでしょうね。 最後に、名目として「義援金」という言葉は使っていますが(ニュースによくこの言葉出ますし)、状況を考えたら「強制徴収金」です。それがわからない生徒と親がクレームを付けるのです。
お礼
>善意の機会を与えるのも教育 なるほど。善意の機会。 確かに最近は、ボランティア参加などで機会を作っていますよね。 生徒会が、これをきっかけに、「善意」というものを もう一度手に取ってくれたら、とてもいい教育になりますね。 そういう風に導ける先生が、この学校にいるといいな、と思いました。 やはりいろいろな考えがあると感じました。 回答をどうもありがとうございました。
補足
>2.生徒の代表が決めたこと 生徒会は、議会制度の練習だと思うんです。 でなければ、何も生徒に自主管理させる必要はないのだから。 その未熟な生徒会が、たとえば「校内では携帯は電源を切ろう」と決めることと、 あくまでも個々の善意に基づくものを一律に決めることと、 そこに違いがあることを、学ばせるべきだと思うのです。 選出された代議員は、 自分を選んだ人々の意見を議会に運ぶのが役目。 自分は個人ではなくあくまでも「代表者として議会に出る」のである、 これをきちんと学ばないから、 今、国会でしていることの、何が間違いで、何が正しいのか、 どこを評価するべきか、わからない人だらけなのではないのだろうか… 生徒会が何を決めてもそれに従う、というのは違う気がします。 どういうことを決めていいか、一律に課していいか、 そのコントロールをできる顧問が必要だと思います。 その上で決まったことについては、従うべきだという点は私もその通りだと思うのですが…。
- mizukiyuli
- ベストアンサー率34% (1106/3224)
1.残念ながら生徒に人権があると理解していない教員が多いです。 2.これは当然のことです。 大抵生徒会長は全校生徒による選挙でで決まります。 国会議員によって法律が定められますね。 「これは自由意志であるべきだから新法律には従わない」というワガママが許されるでしょうか? 文句があるならお前が総理大臣になれとか、お前らが選んだ議員だろって言われると思います。 つまり、学内において生徒会が定めた事は法律に近く、自由意志という認識自体が間違いです。 3.国民性です。みんなしているからしていないのおはおかしいという考えです。 4.教員はアホなので自分の行動がいじめの引き金になるとは思っていません。 5.事実です。「これをしたらどうなるか」ということを考えることができないのです。 6.「面白半分」です。 この教員の言い訳からすると、普段から宿題を忘れた生徒を晒し物にしていた可能性があります。 ラブレターを黒板に貼るような感覚ですね。 こいつ宿題忘れやがったー!みんなで馬鹿にしてやろうぜー!! その程度の知能しかないと思います。 生徒に配慮をする教師になど出会ったことがありません。 小4の時、両親の離婚で転校してきた子がいましたが担任教師はわざわざ 「○○さんはご両親が離婚してお母さんの実家に帰ってきました!お父さんがいないかわいそうな子なのでみんな仲良くしてあげてね!」 と言いました。生徒には配慮するような人権はないと思っているとしか思えません。
お礼
>この教員の言い訳からすると、普段から宿題を忘れた生徒を晒し物にしていた可能性があります 確かにそうですね…。 もしもそれが、「こいつ、忘れやがったぜー」みたいな行動論理だったとしたら…。 私は、このアンケートの中で、この質問が一番問題大きいな、と思ったんです。 教師の、もはや聖職性なんてものじゃなく、 一般社会人として最低限の社会性、人間性、って、 今、どれくらい保証されているんだろうか? ということです。 それどころか、そういう行為がいじめの引き金を作る、程度の予測もできなければ、 中学生と同じレベルにしか、人間が育っていない、っていうことですよね…。 本当に「知能」まで問題点を落とさなければならないなら、大変なことだと思います。 >お父さんがいないかわいそうな子なのでみんな仲良くしてあげてね これは、スゴすぎですね! 人権がないとか以前に、常識ないです。 適性って、「めやす」ではなく、規定として設けるべきだと思いました…。 回答、ありがとうございました。
- kyo-mogu
- ベストアンサー率22% (3398/15358)
学校での事は未熟だから保護ししすぎると立場を忘れた学生の自由な状態になるし、厳しすぎると生徒の良いところが消える。力加減は難しい世界かなと。 親でさせ子どもって未知な存在なんです。それを扱う学校の先生も大変かな。多人数の子どもを相手にすると先生が行う、とんでもない行動も理解出来るかもしれません。子どもの目線に落とすと子供じみた行動にも成りかねないし。 今回の事でも先生のミスは確実だから、それは誠意を持って謝罪をしてもらうのは正しい。 でも、学校という集団組織です。しなくても良いという風潮があると、なんでもしなくても良いと言う判断が子どもに生まれます。嫌なことですがそれをしないと集団を維持できないのです。 払わないことでのトラブル。なんで払わなくても良いの?という意見など沢山出てきます。でも、統一した考えを決めて、することも大切なので払うのが当たり前と考えるのも不思議ではありません。 私には子供が居ます。まあ、トラブルもあるので先生と話すこともあります。みんな先生は真剣です。私の学生時代の時のことも思い出してみると、問題の教師も居たけど、真剣だったね。 真剣すぎるからこそのミスも多いように感じますね。 こうやって先生が悪いという状態をつくると、さらに先生達も動けなくなるし、暴走する学生も押さえられないようになったのかなと。
お礼
力加減、難しいですよね。 そういう中で、オトナに向かう指導、って線引きをビシっ!と持てる先生、 もはや夢物語なんでしょうか…。 子供が中2のとき、クラスメートの子に相談されました。 転校前の学校(同じ区内の公立)は、「お前のそこがハラたつんだよ!」ってケンカして、 先生も「ケンカでわかることがある」って言ってた。 今の学校は、嫌な相手にシカトしたり、いじめたりする。 私のできた返事は、ナサケナクも、こうでした。 「前の学校は、先生が判断してやってよかったんだね。 今の学校は、先生がその権限を持っていないの。 校長が責任を持つから、やってみろ、っていう学校では、 先生はそういう教育ができるんだよね」 今の学校、つまり娘も行っている学校は、 校長が子供のために身を砕く学校ではなく、 校長の功績のために、子供たちが尻を叩かれている公立中学です。 進学率をウリにして、公立だから落ちこぼれもいるけど、全部切捨て。 行政の問題なのかな…とも思います。 回答、ありがとうございました。
補足
すいません、紛らわしかったですが、 No1の方に書いた中学の校長は、長女の学校、文京区。 No2の方に書いた中学は、次女の品川区です。 別の校長先生の話でした。紛らわしくてゴメンナサイ。
生徒会で決めてしようとしている事に対して、ある種の見せしめ行為ですよね。 今回のように事が大きくなって初めて陳謝と、いつものお決まりのパターンです。 自由意志であるべき事なのですが、ある意味強制させてあるようにも捉えられると感じます。 本来こういうものは誰が募金したなんて、わかってはいけないようにも思います。 誰が募金をして誰がしていないかとわかるようなチェックをしたから、こういう大騒ぎに発展したと思います。 生徒会の意義ある行為ではあるのですが、もう少しこういう募金活動に対して、もっとどういう形がいいのかを具体的に 生徒会と教師で話すべきことを怠った結果だと思いますね。 生徒会活動そのものはとてもいい事です。ただ、残念だったのはそういう募金していない生徒名を貼り出す教師の無神経を 疑いますね。 http://news.goo.ne.jp/article/yomiuri/nation/20110520-567-OYT1T00424.html
お礼
私もそう思ったんです。 学校というのは、生徒が未発達だから、 不十分な配慮で「皆で義捐金を集めよう!」って決めたとき、 「あなたたちは、まだ忘れていることがあるでしょう?」という風に 社会性を指導していく場だと思うんですよ。 24歳の娘が中学の時、お財布盗難事件があって、 たまたまいた娘に疑いがかかったんです。 娘は「持ってない。身体検査してもいい」って言ったんですが、 こともあろうに、先生がそれを実施しちゃったんです。 聞いた私は、学校に怒鳴り込みました。 教えている法律と違うようだが?ここは治外法権か?って。 校長が立ち上がって、手をついて謝りました。 潔い先生でした…彼とはいまだに付き合いがあります。 そういう先生が、もはやいないんだと思うと、子供たちはかわいそうです。 お礼に長くなってごめんなさい。回答ありがとうございました。
お礼
回答をありがとうございます。 いやいや、いろんな考え方があるんだなー、…と。 質問の書き方がケンカ的だったのでしょうかね? むしろ私の質問文にハラ立てた感じのご回答もあったりして? >人権が侵害されたとお怒りなのでしょうが 人権というよりも「自由意志」は、学校ではいろいろと制限されるし、 それがなくては、学校という社会がなりたちませんから、当然のことです。 ただし、学校生活のルールと、寄付は同じ扱いでいいとは思いません。 生徒会が決める範疇を超えた(お金を集める)ところが問題で、 そこに先生の指導などが入らなかったことが、間違いだったと思っています。 だから、「いやいや寄付をした生徒」も生む結果にもなったでしょう。 生徒会が決めていいことがら・形を指導できていなかったことが根本です。 どなたかの回答にあったように、 「お金でも、メッセージカードでも」という集め方でもよかったし、 それなら「お金でないけど、善意」という形で参加できたでしょうから…。 それなら、一員としての義務も果たせたし、 お金の出せる子はそれを善意、出せない子は何か善意。 お金はダメです。絶対に強要してはならないものだと思います。 複雑な家庭の子供には、普通の家庭では想像もできないようなムリがかかるんです。 ほかのものなら何とかできても、お金は絶対に無理強いしてはならない、 本人を苦しめるからです。善意が善意でなくなってしまうから。 大人である先生が、必ずしも誰でも払えるものではない、ということを 思いやれないというのは、大きな問題だと思います。 それは、自分にとっての「200円」が、他人にとっても同じ重さとは限らない、 ということに、思い至れないということだと思います。 自由になるお金がない子供というのは、思ったよりたくさんいるのです。 親に相談やもらうことができない子供も、同じです。 ここは、公立校なのですから、なおさらです。 誰かにもらう、拾う(?)、親に内緒でくすねる…可能性もあります。 そういう、「人ごとに事情があって、入手が難しいもの」は、 学校であらかじめ公に決まっているもの意外は避けるべきです。 >6. そりゃあ正義感でしょう 正義というのは、絶対に人をさらしたり追い詰めたりはしないものだと思いますよ。 貼り出しという行為が、どんな理由であっても正義と受け取れないのは、 それによって、寄付をしなかった(たとえば宿題を出していない)生徒が 肩身の狭い思いをするくらいのことは、配慮以前の問題で、わからなきゃバカです。 そういうやり方を、私は絶対に「正義」とは受け取れません。 それが「正義」とされたとき、自由っていうのはじわりと侵されると思います。 >「理由」を堂々と提示して拒否すればいいだけの話 それができる社会じゃないから、こういう問題になるんですよね。 私も「ノー」をハッキリ言うから、どれほど杭打たれたか…(笑) 東京はかなりモンスターペアレントも言うことを言っているけど、 日本のほとんどは、保守的です。東北はとくにそうです。 「みんながやるものは、いやでも従うもんだ」と周囲が迫り、 やらない者を村八分にして、みせしめる。 日本の土壌には、本当の自由意志が根付けない慣習があります。 子供たちは、「ノー」を言えるように育っていかなくてはならないし、 他人のノーを受け入れられるようになっていかなければならない。 それが、国際的にも通用する社会の形であり、 先生たちには、子供たちが「考えられる」ように仕向けなくてはならないはずです。 こういう事件があったとき、それを「世間にさらされた」と受け取らず、 先生たちが、どうこれを「考える機会」に結び付けられるか… それで回答にあったような、「教員などバカばっかり」という評価をも、 否定できるのだと思います。 この質問をしてみて、 「なぜ、肯定か、拒否か、になってしまうのだろう?」というのが、 素朴な感想でした。 もちろん、私の質問文が誘導しちゃった部分もあるのでしょうね。 でも、こういう問題が起きたとき、 大人たちが「イエスかノーか」でなく、 こういう問題があるね、ここがいけないね、ここは仕方ないね、 とすると、どうあるべきだったのかな、 善行なんだから、それを問題にしちゃったのは、どの部分かな? ―――と、なぜなっていかないんだろう? こういうタイプの質問が、どの質問でもけんか腰みたいになっていってしまうのが、 不思議だなー、と感じました。 大人たちが、大人たちのやり方を省みる宿題なのだと思います。 いろいろと書いてしまって申し訳ありません。 bakiboko 様のおっしゃることも、またひとつの考えだと受け止めました。 ご回答いただいた、または参照してくださる人、全部に向けた言葉を お礼に書かせていただきました。 なぜか、「学校」とか「先生」という言葉がアミかけになっていて、 なぜこうなったのかわからないのですが… みなさま、どうもありがとうございました。