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宗教団体 に 井戸端感覚は
必要ですか。 あることないことを ぺちゃくちゃと。 挙げ句の果てに楽しむかの様に間違いを含め仄めかす行為。 恥ずべきことではと疑問になるのは間違いでしょうか。
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質問者が選んだベストアンサー
必要ではないし、間違いではない、と私は固く思います。 宗教や信仰そのものは恥ずべきこととは思いませんが、質問者さんが 挙げられたようなことに、恥ずべきことでは?という疑問を感じるのは 真っ当な感覚だと私は思います。 宗教とは、本来、個々が信仰するためのものです。 ですから、宗教団体としての井戸端感覚、絶対服従的指導(誘導)、 偏った理は、本来の信仰の心からかけ離れており、まったくもって滑稽な事象です。 質問者さんが示しておられるものは、単なる宗教法人の団体というだけでしょう。 怪しい政治団体や愛国団体となんら変わりない。中には恥ずべきものが幾らもあると 思いますし、恥ずべき行為に出ていることでしょう。 宗教への信仰心とは、もっと、厚く、浄く、敬虔なものであらねばならなく、 そのために、個々人がそれぞれ学び、解き、信念を持ち、しかし、柔軟に、 一生、もしくは半生をかけて、説いていくものだと私個人は思っています。 しかしまた、世界各国における歴史的な宗教は、生まれながらに「そこ」であり、 「生きる道」であるものもあります。ただ、こういう方達は、決して井戸端感覚で 人を惑わせたり陥れたり疲れさせたりすることはないでしょう。 私には宗教の信仰心に則って生きているインド人の友人がいますが、彼らにとっては 自分たちが生きるための宗教であり信仰なので、何の宗教にも属していない私を 責めもしませんし、誘いもしません。クリスチャンの友人もそうです。 けだし、日本の新興宗教団体は、井戸端感覚が多いように思います。 事実、長期間にわたった井戸端作戦で、私を懐柔しようとしていたことが 後になって判ったという過去もありました。
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要らぬ井戸端会議は必要ない。方便としての説き方は良いでしょうが。真理に関する話題は良し。先ず本当のこと真理を勉強すべし。 その後真理を生きるべし。例えて言えば掛け算九九にしてしかるべし、本当の答えを出さなければ不自由するだけ。正解を生きれば自由を得る。
お礼
参考になります。 ご回答ありがとうございました。
お礼
とても参考になりお勉強になります。 厚く 浄く… 共感致します。 心だと思うためです。 半生や一生… 深い御言葉だと思います。 不自然は心へ苦痛を与え単なる遊び感覚ではと疑問さえ芽生えます。 それによりどう心に症状を与えるか。 誠実な宗教団体の中にいながらにして自由奔放であった。 それを気づかせたかった もし気づかせたかったという言葉が どこからや(様々経験しました為この様な著し方とさせて頂きます) 出たとすれば 事実経験しました様々なことは滑稽な話となり心が疲れ生活困難とさえなり得ます。 滑稽な事象… 心理云々作戦で会員を増やそう、又は減らすまい、又は様々試す等… あってはならない感覚だと思います。 ご回答誠にありがとうございました。