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武将名の敬称をつけるかつけないか

 先日、ボランティアガイドをされている方とお話する機会があり、興味深い話をお聞きしました。  名所旧跡で戦国時代の武将たちについて説明するとき、たとえば「家康公、信長公、秀吉公」のように敬称をつけて言わないと怒る客がいるのだそうです。しかし誰でもつければいいという者ではなく、三成や光秀のような所謂「悪役」武将は逆につけると怒られる場合もあるのだとか。  だからガイドさんの説明を聞いていると、どちらか一方に肩入れしているのが明白で何だか奇妙な感じにとらわれます。例えばこんな感じです。 「信長公を暗殺した光秀を討たんと、秀吉公はすぐさま軍勢を率いて機内へ戻られました」  ガイドさんも大変だな、というのが正直な感想でしたが、それでもやはり微妙なひっかかりを覚えます。私は敬称をつけないほうが中立的でいいと思うのですが(ただしある特定施設専属のガイドは別)、皆さんはどう思われますか?

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noname#138477
noname#138477
回答No.2

 ガイドさんも大変ですね。石田三成も明智光秀も、それぞれ縁のある土地では、人気がありますから、場所によっても変えていかないといけないことになりそうです。  敬称については、質問者様と同感で、つけない方が個人的には良いように思えます。歴史の教科書でも、これらの人物は等しく呼び捨てですから。  

nob_004
質問者

お礼

 ありがとうございます。  個人の信条等に関することですので、ガイドさんはあらかじめ「中立の立場から説明する関係上、敬称は省かせていただきます」などと断っておくのがいいのかもしれませんね。

その他の回答 (3)

  • makaay5
  • ベストアンサー率32% (255/790)
回答No.4

戦国時代の英雄とされる人物(批評は控えますが)に公が付くのは特に違和感はありませんね。上記の3人に関して言えば、天下人とされる位置まで上りついた事があるわけですし。 他には上杉謙信・武田信玄・伊達政宗・地元びいきで北条氏康・早雲あたりも公が付いて違和感ありません。歴史的には敗者とされる武田家の武田信玄に公がついても違和感を感じないので、歴史上の勝ち負けよりも人物像に重きが置かれているように自分は感じます 「」だけで言うと、信長に公はおかしくないですが、秀吉は当時は、織田家の中では明智光秀より下の3番手という地位であった為(解釈はそれぞれですが)若干、文章的に自分は違和感があります。本能寺の変で家康が光秀を討ったのなら、文章的に違和感はないですが 三成や光秀に関して言えば人物像での評価をする上で、明らかにマイナスとされる要素があるので英雄として公を用いるのは疑問です。家を滅ぼしたもの・主殺しが評価されにくい傾向に歴史はあると思いますし。 (歴史・史書などにそこまで深い訳でないので細かく論じれませんが)

nob_004
質問者

お礼

 ありがとうございます。  どちらが正しいという問題ではありませんし、色々な捉え方があると改めて勉強になりました。真摯な学問研究の場ならともかく、観光地でのガイドさんならば他人を不快にさせないことが一番重要なのかもしれませんね。  質問を書き込んだあと「関ヶ原の合戦を説明するときの敬称」を想像したら妙におかしく感じました。誰につけて誰につけないか結構迷います(西軍の実質的トップだった三成を呼び捨てにし、島津義弘公と呼ぶのはアンバランスな気がするのです)。

  • hirarno36
  • ベストアンサー率20% (274/1336)
回答No.3

場所によります。例にも出ている明智光秀などは名君だったので地元では祀られているぐらいですし、逆に比叡山にとっては未だに織田信長は敵であり、ある滋賀県のお祭りに比叡山側は参加拒否されたとか。当然の地元心理です。 勝てば官軍。歴史にいちゃもんはつけませんが、善悪を決め付けるのはどうでしょう。肩入れするのは深く歴史を知らない一般人なのでしょう。私はそう思って特に不快には思いませんが。 ガイドさん、確かに大変ですねぇ。

nob_004
質問者

お礼

 ありがとうございます。  歴史が好きな人にも色々あるのかもしれません。ガイドの内容が不快に思われるようでは困りますが、ガイドさんもそこまで面倒みきれないでしょうね。

  • koko_u_
  • ベストアンサー率18% (459/2509)
回答No.1

神として祀られているような歴史上の人物については敬称をつけることもあるでしょう。 「天神様」のような感じですかね。 戦国武将だと、地域によっていろいろありそうですね。

nob_004
質問者

お礼

 ありがとうございます。  地元の武将には基本的に敬称をつけたほうがいいように思いますが、他所から来る人と話すときは難しいかもしれませんね。

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