有名戦国武将の知恵とは?

このQ&Aのポイント
  • 有名な戦国武将たちの深慮遠謀や知略について考えてみましょう。
  • 漫画「徳川家康」に描かれた交渉術や推論は本当にあったのでしょうか?
  • 当時の武将たちは天下を取るためにすさまじい能力を持っていたのかについて考えてみましょう。
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有名戦国武将の知識・知恵はすごいのか?

横山光輝の漫画「徳川家康」(原作:山岡荘八)を読みました。 作中では優れた武将が多数描かれていますが、信長・秀吉・家康の深慮遠謀、知略に感心していました。 「〇〇が■で、▲が●だとしたら、そうか!分かったぞ!」と名探偵も真っ青の推論が展開されたり、信長や秀吉に至っては「これはやられた・・」と相手に思わせる意地悪かつ反論しようがない素晴らしい(?)交渉術も多数見られました。 実際、当時の武将はそんな深い思慮のもと、交渉したり戦争したりしていたのでしょうか?  漫画ならではの脚色でしょ?とは思うのですが、実際に天下を取った人物達ですから、すさまじい能力はあったと思います。 皆さんはどうお考えでしょうか?

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  • eroero4649
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回答No.2

信長の戦略眼は怖ろしいものがあると思います。それが最も現れているのがあの桶狭間の戦いで、彼が打った手は、その場その場の場面では絶対にあり得ない悪手、しかも最悪の悪手にしか思えません。 しかし、終わって全体を俯瞰してみると「全部が正解」というものでした。決して「破れかぶれにやってみたら全部正解だった」というわけではありません。そもそもの合戦のきっかけは信長が付け城を作るということから始まったわけですから、何倍もの敵に自ら仕掛けていたわけです。 また、信長の戦略眼のもうひとつの怖ろしさが分かるのが、長篠の戦いです。 当時ジリ貧となっていた武田勝頼からすれば、一発逆転を狙うには乾坤一擲、自分が最も得意とする野戦に持ち込むことでした。だから勝頼はあの状況で野戦を選んだのだと思います。 しかし信長の戦略的立場からすれば、野戦になった時点で織田・徳川方の「戦略的勝利」が確定した戦いでもありました。信長からすれば勝頼が決戦に出てこないほうがどちらかというと困ったのです。 勝頼が勝利するためには決戦に持ち込まねばならず、決戦になると信長の戦略的勝利が確定する。つまり勝頼には勝利の手段が存在しない状況に追い込まれていました。 信長の戦略眼はそれだけ突出していたものでしたが、その先見性は常人のはるか先をいくものでした。もし信長が現代に生まれていたとしても、我々は信長の先見性についていけないでしょう。つまり彼はいつの時代に生まれたとしても「早すぎた人」なのです。 秀吉は、日本史上最も成り上がった人です。田中角栄とてずっと首相ではいられなかったしロッキード事件なんてのもありましたから、やはり秀吉ほどではありません。今後も日本史上で秀吉を超える「成り上がり」は出てこないと思います。 とにかく突拍子もない大風呂敷を広げて、ちゃんと包んでしまう凄さだと思います。人に使われるのも上手で、人を使うのも上手なのです。そして「明るい人たらし」と「冷酷な独裁者」の二面性。愛されないとそこまで成り上がれないし、怖ろしくないと天下はとれません。通常は成立しえない「愛されながら畏れられる」を成し遂げた人です。秀吉と田中角栄は、よく似ていたのではないかなと思います。 そして最後に天下をとった家康。家康の何がすごいって、徳川幕府200年の安定した国家システムを作り上げたことです。 江戸時代の約200年間、徳川幕府に対する反乱は一度しか起きませんでした。その唯一の反乱は「島原の乱」でした。島原の乱は「江戸時代最後の戦争」でもあります・笑。その政権が倒れたときも、外部の力によって倒れたのではなく「大政奉還」という形での穏便な政権移行でした。大政奉還しちゃえば政権能力がない朝廷は結局徳川家を頼るしかないという思惑からやった政策ですから「政権を降ろされた」ではないんですよ。 いうてみたら反乱が起きない完璧な国家を作ったようなものです。織田信長は統一国家を作る直前で反乱によって潰れ、豊臣秀吉の国家は一代限りでした。家康は、何百年経っても揺らがない国家システムを作り上げたのです。そして、永遠の都に近くなっている東京(江戸)という都市を作り上げました。今の日本も、家康が作ったインフラの延長線上にあるようなものです。 信長も家康も10代の頃から部下を持って自分自身と部下とその家族の命を背負って戦場で命のやりとりをしていたわけですからね。まー現代の我々にはちょっと想像もできないですよね。ましてや信長は実の弟とも殺し合いをやっているわけで。まあいうてみれば、若い頃にバトルロワイアルをやって、成人したらアウトレイジなわけじゃないですか。それは信長や家康に限ったわけじゃなくて、日本中の戦国武将はそういうことをやっていたわけですよ。それで負けて死んでいった人のほうがはるかに多いわけで。 だから「戦国最弱の武将」とかいわれながらも最後まで生き残っている今川氏真とか小田氏治なんてのも実はとんでもない人だったりするのです。

ToshiJP
質問者

お礼

非常におもしろい考察ありがとうございました。 たしかに!と思われることばかりでした。 信長のヤクザの親玉感、秀吉の島耕作感、家康の大企業の創業者感、なるほどーといったところです。 秀吉はもちろん、田中角栄、ナポレオンなどの話は読んでいておもしろいですね。 先日トヨタのドキュメンタリーを見て、ちょっと信長の先見性と、死後の凋落を思い出しました。 世界に先駆けてプリウスを生み出したが、その後電気自動車はまったく間に合わない、ような。

その他の回答 (2)

  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (376/1159)
回答No.3

城創りで、解るのでは、最初は防御一点張りの山城が多かった のですが、室町時代の中・後期には、商いの事を考えた、城創り になり、城下町として現在に至ってます。 湿地帯だった、江戸が東京で、江戸城の範としたのが、北条早雲 が造った、総構えの小田原城。 安土城は琵琶湖の水運や東山道などの陸路を利用して、日本全土の 富を集める位置に造って有ると思いませんか。 石山本願寺の跡に豊臣秀吉は大坂城を造り、財を貯め込みましたが、 織田信長だったら、商業の街を創り、堺、難波、福原を結んだ、 巨大商業圏を構築したと考えるのは私だけでしょうか。 500年過ぎた今でも、戦国武将の知識・知恵の影響が日本の 経済・文化に色濃く残ってます。 武力で攻め入り、そこの文化を破壊して、住人を奴隷として 売りさばく等の搾取を行い、本国に富を持ち帰るだけの、 どこぞの国とは、違いますね。

ToshiJP
質問者

お礼

そういえば名城や、その地域を発展させたのは3傑ですね。戦闘のためだけに、もしくは自分の所轄エリアだからと単に城を築いた者たちとも明らかにスケールが違いますね。違った面からの考察ありがとうございました。

  • 69015802
  • ベストアンサー率29% (368/1250)
回答No.1

武将本人の能力はもちろんでしょうがそれを支えるスタッフ(軍師)の能力も大きいのではないでしょうか。 三国志の孔明、史記の張良、秀吉の半兵衛など軍師がつきものですし我を通さず軍師のアドバイスを受け入れる器も兼ね備えていたと思いますよ。

ToshiJP
質問者

お礼

そうですね、たしかに本人が全て1から10まで立案していたわけではないでしょうし、周りのブレインを集める・見極める能力にも長けていたのでしょうね

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