• ベストアンサー

敷居をまたぐ

こんにちは。 素朴な疑問ですが、小さい時のしつけで、敷居は踏んじゃだめ!と教わりました。ですので今でもその通りにしています。 だけど、何で敷居を踏んではだめなのでしょう?今更恥ずかしくて人には聞けないことなのですが、もしご存知でしたら教えてください。 あと、踏んじゃだめって言う割には、昔の建造物(神社仏閣など)の敷居はやたら高いような気がするのですが、あれはなぜでしょう?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2724/5433)
回答No.4

詳細や諸説については他の方が答えられています。  玄関は世界の境界線。また家の玄関は一種の結界でもあるのです。だからそれを踏むという行為は結界を破る事になります。  バリアフリーが境界を無くすものだとすれば、敷居を踏む行為は内と外の境界、心のけじめも無くしてしまう事になるのです。  勿論、心の持ち方の問題で、身体の不自由な方に対するバリアフリーは大切ですが、どんな方でも形の伴わない心の切り替えは難しいと思います。  寺社の敷居の高いのは、乗り越える行為が明確になる分、気持ちの切り替えも明確になりますし、敷居の前に立って、一度自分の心の持ち方を省みるきっかけを作るという意味もあるのでしょう。 他家や寺社の敷居を跨ぐ際には「お邪魔します」という心構えと訪問者として見落としが無いかを確認する気持ちを。自宅の敷居を跨ぐ際には個人から社会人(学生)への心の切り替えをする事(帰宅の際はその逆)が大切だと思います。

その他の回答 (3)

  • j-m
  • ベストアンサー率31% (37/117)
回答No.3

http://mazzan.at.infoseek.co.jp/lesson24.html 以下完全引用↓ http://www.orange.ne.jp/~kibita/jp7/urban13.html 江戸時代前くらいまでは、7歳以下の子どもは「神の子」と呼ばれていたそうです。 つまり、いつでも神にお返しすることができるということ。 静かに子どもの首に手を当てて、ぐっと力をいれて「お返し」する…。 ~この子の七つのお祝いに~ というのは、そのことを唄ったものなんです。 農家なら、その亡骸を敷居の下に並べて葬るのです。敷居を踏んではいけないというのは、それに由来します。 そして、お返しした子は「こけし」として祀られます。 *何処までホントか知りませんが、明治期以前の日本人の生命観においてなら不思議なことではありません http://mazzan.at.infoseek.co.jp/lesson24.html

参考URL:
http://mazzan.at.infoseek.co.jp/lesson24.html
  • oo14
  • ベストアンサー率22% (1770/7943)
回答No.2

敷居を蹴飛ばすと柱がずれる。柱がずれると家が崩れる。また扉の一部を構成いている場合、磨り減るとレールだけ交換というようなわけにはいかない部分だからでしょう。下からニュースペーパーを差し込んでくれるようなドアではあまり気にすることはないでしょうが。 神社仏閣はあれだけの重量を支える柱の位置決めと固定のための構造上の問題でしょう。構造材が木でなかったら腐らないので、地面の下でもかまわなかったとおもいます。特に意味をもたせたものではないでしょう。車輪つきの乗り物も普及してなかったことですし。

  • andersen
  • ベストアンサー率23% (18/77)
回答No.1

 言い伝えによると「敷居の中には神様が住んでいるそうです。敷居を踏むということは「神様の頭を踏む」ことになり、その家は栄えることができない。」とのことです。  本当は、「敷居を踏むと敷居が歪み、襖や引き戸の滑りが悪くなるのでやめなさい。」ということらしいです。

関連するQ&A