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東京西南地域の地理のウンチクを教えてください。

先日、横浜市青葉区に引っ越してきました。 神社、鎮守の森とか総菜屋さんとかがなくて妙に殺風景な感じです。 旧東海道筋に繁栄していった各宿場町には、どことなくヒトが歩いて生活できる安心感というか、包容力があったのですが、青葉区というか東急線沿線には「ヒトの冷たさ」みたいなのを感じるのです。 戦後、東名高速道路沿いに造られた町なのでしょうか。東京西南部の地理や歴史などご存知でしたら教えてください。

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回答No.2

東京西南地域というと、普通は目黒区、世田谷区、大田区あたりを指すのですが、この質問に関しては、多摩田園都市についての蘊蓄ということで、よろしいでしょうか。 横浜市青葉区を含む、東急田園都市線の梶ケ谷から中央林間までの沿線に開発された住宅地は「多摩田園都市」と呼ばれています。東名高速沿いやR246沿いにつくられたというより、東急電鉄が宅地開発とと並行して鉄道路線を新設したと考えた方が良いでしょう。自然発生的な街ではなく、あくまでも計画的に造られた街(=ニュータウン)です。 もともと戦前は、現在の田園都市線という路線はなく、大井町線が大井町から二子玉川を経由して、溝の口まで通っていました。また、渋谷~二子玉川間は玉川線という路面電車で、二子玉川にあった遊園地へ人々を運ぶような路線でした。 一方、東急電鉄の宅地開発は大正7年にかの渋沢栄一によって創設された「田園都市株式会社」にまで遡ります。渋沢はビジネス界から引退後、理想の街づくりを目指してエネベザーハワードの提唱により、英国のレッチワースに建設された「田園都市」をモデルに、洗足や田園調布で宅地開発を行ったのですね。しかも、それは採算度外視の道路率17%という無茶苦茶な計画で、当時阪急の小林一三からもダメだしされたような代物だったそうです。しかし渋沢は強引にこれを建設し、現在でも通用するような街が誕生したわけです。さらに、洗足や田園調布への足として、目黒蒲田電鉄を誘致し、五島慶太をヘッドハンティングして、東急電鉄が出来たわけです。 この五島慶太が多摩田園都市の建設を発表したのは昭和28年のこと。それまで、全く未開発だったこの地を土地区画整理事業という方式で、どんどん開発していったわけです。ここで活躍したのは旧満州の植民地開発を手がけた都市計画家たちだと言われています。ところが、これは英国の「田園都市」や渋沢栄一のロマンとは大きく異なったものでした。 理由は2つ。1つは本来、田園都市というのは職住近接を主要なコンセプトとして提唱された概念ですが、多摩田園都市において五島が実現したかったことは、郊外にサラリーマンを住まわせ、都心の会社へ通勤させるというビジネスモデルであり、田園都市とは似て非なるものであったこと。これは、日本の不動産業の原形となっており、通勤地獄という社会問題に発展しています。 もう一つは都市デザインとして、田園調布のような理想主義、あるいは未来に通用するコンセプトがなかったこと。諸外国の丘陵住宅地と比較すれば明らかですが、日本の郊外住宅地は敷地を細切れにして造成し、高い擁壁を造って土地を平らにすることが前提です。本来、都市デザインの視点で見れば、自然の地形を活かした道路計画と区画割が基本。家を建てるところだけを平らにすれば良いのです。造成しなければ土地も安いので、区画は大きくできますし、景観も良くなります。しかし、土木業者が一番儲かるのは、この「宅地造成」なのです。私は多摩田園都市をデザインとして見れば、美しが丘3丁目以外は、全く稚拙なレベルであると評価します。 このように、多摩田園都市は、田園調布などとは事業主体も理念も全く違うので、東急が多摩田園都市の宣伝に田園調布をいつも引用するのは、誇大広告であると言えるでしょう。しかしながら、人口50万人分の宅地開発をかなり早い時期に民間が行ったことは、素直に感動に値しますし、現実に官主導の多摩ニュータウンよりは、かなりうまくいった例であるとも言えるでしょう。多摩ニュータウンよりも老朽化した感じを与えにくいのは東急お得意の「文化の匂い」を適度に織り交ぜることによって、ブランドイメージを確立、さらにそれを維持することにも熱心なことが挙げられると思います。 また、多摩田園都市に限らず、郊外型犯罪というのが最近問題になっていますね。この郊外型犯罪の走りとも言えるのが、大昔、鷺沼で起こった金属バットで親を殴り殺したガキの事件です。その後、サカキバラ事件など、郊外特有の空気(=コミュニティの希薄化、住民層の均質化)と犯罪を関連づける論も多くあります。ニュータウンというのは、一種独特の空気を持っていて、賛否両論、好き嫌いは必ずあるでしょうね。

その他の回答 (1)

  • ceeda34
  • ベストアンサー率36% (517/1418)
回答No.1

青葉区は元々何もなかった丘陵地帯で、大山街道(国道246号)や津久井道以外はこれといった街道はないのです。 このあたりが発展したのは戦後に延伸された、東急田園都市線が開通してからのことですから、昭和30~40年代以降に開発が始まった地域です。 また東急の宅地開発も高級ブランド志向が強いようなつくりですので、住人もそんな感覚の人が多いのでしょう。

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